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心に青雲とは青雲の志を抱くこと。弁証法、認識論を踏まえ、空手、科学、芸術、時事問題などを論じます。

コレクターの狂気

 よくテレビで、フィギュアとかコインとかのコレクターを紹介しているものを見かける。コレクターは自分が蒐集してきたものがテレビに映るので、満足げな顔で自慢たらたら。
 東京テレビには「なんでも鑑定団」とかいう番組があって、これにも骨董ばかりか、昔のマンガ雑誌やメンコのコレクションを持ち出して来て、大変貴重なものだなどと自慢している。

 こういう連中はいったいどういうアタマをしているのだろうか。
 芸術作品のコレクションならいいとしても、切手やコイン、フィギュア、蝶々、玩具、鉄道のグッズなどを集めるヤツは異常としかいいようがない。
 子供のうちならいいとしても、大の大人が…。
 取っておけば価値が出て、やがて希少価値が認められ、「お宝」になるのかもしれないが愚劣である。
 なぜかならば、切手や蝶々を集めたところで、どこにも社会関係がないからである。子供のうちは社会関係が希薄というか、〈即自〉だからガラクタを集めるのもわかるのだが、大人になってもなおガキと同じく、コレクターになるなんぞは、異常なのである。

 昔、「コレクター」という映画があった。私が観たのは、1965年作のウイリアム・ワイラー監督作品であった。蝶の採集が趣味の孤独な銀行員が、ある日、前から気に入っていた女性を誘拐し監禁する話であった。テレンス・スタンプがこのコレクターを演じて見事に狂気を感じさせた。2000年に、新潟県柏崎市で少女を9年2か月間監禁した佐藤宣行の事件が発覚したときに、この映画のことを思い出したものだった。
 映画「コレクター」や柏崎監禁事件の佐藤宣行は異常も度が過ぎているが、先ほどから言うように、どちらも社会関係ゼロの人間の犯行であった。

 例えば、書籍というものは読むためにある。もし本を読むためでなく、ただ作家が好きだからとか、表紙が好きだからとかで集めるだけの人がいたら、それは異常なのである。本を読むのは社会性ある認識だが、集めるだけなんてことは社会性がないからである。

 正常な社会関係がなく育った人間の恐ろしさである。そのように育った人間の現象形態が、蝶々やカブトムシなどの蒐集癖として現象する。周囲への実害がないにしても、これはなにがしかの心の闇があると言わねばなるまい。
 わが流派の最高指導者が「育てるべきところが闇のまま育ってしまい、キレる中学生ができる。耐えることができない子供が育つ」と説かれたことを紹介した。ファミコンに熱中することよって、本物の反映ができなくなり、本物の反映を嫌って、擬似的反映を喜ぶようになる。
 本物の反映とは、例えば友だちと取っ組み合いのケンカをしたり、木に登って毛虫に刺されるとか、そういう五感で味わう感情をともなった反映である。それがないまま、あるいは希薄なまま育ってしまうと、擬似的反映が主になっていく。擬似的反映は、五感器官によって形成された感情像ではない。
 ファミコンの場合、バーチャルな世界である。だからまず厳しい現実は反映しないと、説明しておいた。

 大人になっても社会関係のない古い切手だとか、コインだとかを蒐集する癖が抜けない人間は、要するに本物の反映、社会関係を持った反映を喜ばないのだ。まさに切手や蝶々は擬似的反映である。バーチャルな世界である。同好の士がいるから、かろうじて社会関係がごく狭い中で成立している。
 たしか歌手・松山恵子が出ている「ボンカレー」のブリキの看板ばかり集めている人間もいた。こんなもの、何の意味があるというのか。

 先だって日曜日に秋葉原で起きた無差別通り魔殺傷事件の犯人・加藤智大が、コレクターかどうかはわからないが、社会性のない認識を育ててしまった挙げ句の惨劇であった。ネット掲示板に犯行予告を書いて、誇示しているのか止めてくれるのを待ったのか知らないが、まさにバーチャルな世界を本物と勘違いしている。
 どうせなら、彼も蝶々やカブトムシの蒐集に凝ってくれていたら、無辜の他人を殺傷しなくて済んだであろうに…。

 それに、盆栽に凝る人間も異常であろう。わが流派の最高幹部も「植物をいじめて何がうれしいのか」と批判されていた。
 盆栽も、あれは本物の樹木ではない。無理矢理いわば「小人」に仕立てるのだ。盆栽は支那から盆景として日本に入ってきたものが、樹木だけ特化して矮性にしたもので、江戸時代に盛んになった。なるほど鎖国して、国際性を失い、国内だけの擬似的反映で「なべて世はこともなし」だった江戸の武家たちの趣味らしい。元は支那だというから、かの国も女性に纏足をさせていたぶる異常性があったが、それを樹木に変えただけのことか。

 盆栽は擬似的反映、空想、妄想の類いである。盆栽を趣味とする同好の人間が大勢いるから、異常だと思われないだけで、社会関係で認識を創っていない点で、どう好意的に見ても異常な性格である。
 コレクターや盆栽いじりの趣味は、同好の士がいる妥当性があるから、精神病になっていないだけである。

 こういえば、人が何を趣味に持ってもいいじゃないかと反論(?)する人が必ずいる。そういうのを相対主義と言うらしいが、何でも許しちゃういい加減な考えの持ち主というしかない。人間には社会性が堅持されていなければならないのである。
 コレクターはたしかに実害がないから、異常な性格とは言っても無視し得るレベルではあるが、まともな人間のやることではない。

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