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Q.高校時代はどんなことに興味をもたれていたのですか? |
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高校時代はブラスバンドを3年間やリながら、高校1年の夏から自主映画を自分で撮り始めたんです。その当時親が離婚していましたから、父親と一緒に暮らしながら親に3万円位のカメラをねだって…。それで7万円位ですか…、製作費。友達にカンパしてもらって。ロジャー・コーマンの『スパーダース』と似たような、「細菌が隕石に乗ってやって来て、で…人が侵されてゾンビみたいになって…」そういう映画を未完成なんですけど撮りました。
SFが好きだったので自分でミニチュアを作ったりとか、イロイロしたんですけど、最後までは…。主演はブラスバンド部の先輩でその友人が何人か出て、僕は科学者役で出ていたんです。
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Q.高校を卒業してから、大阪芸術大学映像科に入られるということは、もうすでにその当時から映画をやろうと思っていたのですか? |
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ともかく僕は長崎を出たかった。その親元を離れて一人になりたかったというか、それが第一目標だったので、どこでもよかった。
当時、何に興味があったかというと、やっぱり子供の頃から絵を描いていたし、美術の点数はよかったので、普通の4年制大学みたいのに行って経済とか何だかやるより、まだそういう方向が。
たまたま自主映画をやってましたから、あの映画監督にどうのこうのなろうなんてそういうこともなく、ともかく「長崎を出たい」という一心でした。
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Q.『夕べの秘密』の時は、もう当然上京してきて映画を撮ってたわけですから、将来映画監督にって思われたのは?
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まだ思ってませんでした。『二十才の微熱』を撮り終わってからですね。一本立ちできるかどうか、ということじゃないんです。
映画監督になって、食うためにやっているというのは全くありませんでした。 あの…ちょっとかっこいいかもしれないけれど、「生きるために」っていう感じです。
とにかく自主映画をやっている時は、「自分を捕まえている田舎」のこととか、「親」のことだとか、「自分の中にあるまだ自分がゲイであるということをカミングアウトできない自分」だとか、グシュグシュ、グシュグシュして、いろんなことがありました。それに自分というものを捕まえたかったし、振り払いたかったし、追われてるとか、追い詰められている感じがあったので、それで何というか、映画に自分を出すことで、自分自身のことを何とか消化しようとしていった。
超越って言うと大げさかもしれませんが、しょうがなくてやってたんですね。だからそれがなくてガス抜きをしてなかったら、「ちょっとどうなっていたか」っていう。自分に「勇気がない」というコンプレックスがずっとあるものですから、大学を普通に卒業して社会人になっていくと、「多分僕は一生レールの上をいくんだろうなあ。」って。でも、そういう人生が嫌で、「どこか逸脱したい」っていう若い時にはありがちな願望だと思うんですが、そういう願望と映画。映画というのはやくざな世界というのが、どっかにあったと思うんです。
だから、そこに身を投げだしてみることで、自分がもう一度構築されるというか、甘いというかどっか逃避する部分がありました。
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Q.1993年にPFFのスカラシップで『二十才の微熱』を撮られるわけですけど、その間1989年からずいぶん時間があるわけですが、その間は『二十才の微熱』のために準備、格闘していたのですか?
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えーと、2年半。
格闘は格闘ですね。
ただ食えないので、先にテレビの仕事から僕は始めたんです。プロとしてお金をいただいたのはテレビの仕事が初めてです。某局の旅ものみたいなものをやって…。その後ディレクターでいきなり始めて、それが始めてでした。1/2とベーカムの違いもわからないのにゴールデンの番組やってて、『これではいけない』とADからまた始めて。ずっと旅ものとPRビデオとかのADをして、食べるためにやってて。
それは生活のためという部分が多かったんです。
ただ『二十才の微熱』の企画はあったんです、最初から。 もう最初の段階。グランプリを貰って「企画を出しなさい」と言われた段階で。自分はこれでいいという脚本があったんです。準備を入れたら10年前位ですね。
当時はゲイを扱った映画って日本でもほとんどない状態で、それで何か女装した人が出てきて、キャーとかやってるとか。そういう映画でしか同性愛者が扱われなかったとか、それがすごく不満でした。日常の中に普通に存在している男の子の中にそういうものがあって…という、そういう映画にしたかった。
でもプロデューサー達には、全然わからない。嫌悪感があるんですね。そういう壁がいくつもあって、それで2年半、10稿位まで本を書きました。「何でこれがわからないんだ」と。
「なぜ男の子が身体を売っているの」「若いころ黒人にレイプされたのか」とかそういう理由付けしたがるんです。そういうことではつまらない、何か意味があって苦しい、その意味で苦しい男の子の話なんだと言っても、人間って理由を付けたがるんですね。「苦しいじゃん」ということを描こうとしている映画なのに、何か全然理解してもらえなくて…。何回も何回も書き直して、それでもダメで役者さんに「本がやだ」と断られて。
プロデューサーも、あるプロデューサーと飲んでたら「俺に触るなよ、俺はその気はないからね」っていきなり言われて、「触んねえよ」と思ったり。こんなことが多々あって2年半かかって。ただその間に、いかに自分の思っていることを伝えるのが難しいか、当時2回位生活が破綻しましたからね。ぴあに2回ほど火をつけようと思ってましたし、本当に。
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Q.『二十才の微熱』で映画監督として、長編映画監督としてデビューされて、完成までに大変だったということですが、いざ蓋を開けてみると大ヒットでしたね。
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それは関係者一同、「まさか同性愛の映画で無名の監督、無名の役者が出て16ミリの映画でヒットするわけがない」とみんなが思っていました。しかも2千万円の映画。いざ開けてみたら長蛇の列で大ヒットで全国で8万人が見ました。結構な事件だったんです。
「映画は金をかけなくても客を呼べる」みたいな、何か悪い風潮みたいなものが広まったリ、似たような作品がその後も出たり…とかいろいろありました。
最初、ベルリンに行ったんです。 初めての海外旅行で、初めての映画祭がビッグなベルリン映画祭のヤングフォーラム部門だったんですけれど、そこら辺から「映画監督としてやっていかなくては」という自覚が生まれました。自分が思っていることを世の中に出していく、文章にしても映画にしても責任があるし、胸を張っていかなくてはならない。そしてベルリンで感じたのは、難しい映画も確かに来てるんです。ドキュメンタリーとか、ドラマでもロシアの昔の悪政に抵抗するみたいな政治的な映画だったり、インディペンデント映画を作っている監督さんがみんな誇りを持って胸をはっている。本当にこう画面から厳しい態度で、自分は全然出来てない、出来てなかった。でも同じように招待されて同じように拍手されることが、凄く恥ずかしくて…。
しばらく宣伝期間があって、日本で蓋を開けたら大ヒット。何でこんなにヒットしてるんだろう…と。自分としては制作の苦労はあったけど、「みんな周りが敵だ」と、役者ともスタッフともあまりうまくコミュニケーション取れてなかったと思うし、頑なになって撮った作品だったんで、ストイックな長回しで一度カメラを決めちゃえば、もう誰も入って来ない。だからああいうスタイルになった。
監督として恥ずかしい、そういう映画がなぜヒットするんだろうと、ちょっと引き裂かれそうになった。ただ思うのは、もし映画の神様がもしいるとすれば、「お前は見込みがあるからもう1本だけ撮らせてやるから、そのためにこれをヒットさせてやってる」と言ってくれてるんだと。
全国からいろんなお手紙を頂いて、例えば10代のゲイの男の子から、親にホモだというのがばれて死のうと思っていたけれど、この映画をたまたま見て死ぬのを辞めた、そういう手紙を山ほど頂いたんです。「自分は何かやれたんだなあ」と、ちょっとあって、そこらへんから生活の糧にするというんじゃなくて、「映画監督なんだ、僕は」って。「あいつみたいなのが映画監督なんて…」と言われたとしても、「いやあ、僕は映画監督です」って胸を張ってやっていかなきゃ。
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Q.次の『渚のシンドバッド』まで、そういう背景があるにしては、長すぎませんか2年間?
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『二十才の微熱』は映画祭をいっぱい回ったんです。あっと言う間に時間が過ぎました。1年の後半は仕事でニューヨークに行って、いろんなレポートとか、本を書くとか、しばらくニューヨークに滞在して…。
ニューヨークに行った体験が良くて解放されました。やはり自分の中に持っていたコンプレックスみたいな、そんなものが向こうで…。自分が毒をもっているんじゃないか、例えばエイズの方と出会って、身体の中に毒…エイズ、HIVという毒が入ってもなお胸を張って生きていけるという姿を見たり、触れたりしていると、なにか自分が怖くておっかなびっくり。人間に対しても触れられなかったものが、毒を食らったって生きて行けると開き直って…。今までこんな視野だったのが、ワイドビジョンになって。日本に帰ってきて、たまたま東宝の方からお話があって、自分の高校時代の体験をもとにした『二十才の微熱』とは違ったタイプの映画を作ろうと思っていると言ったら、それは是非ということで、どうせやるんだったら”YES”というレーベルを立ち上げようということになって2年後、やがて『渚のシンドバッド』を撮ることになったんです。
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Q.『渚のシンドバッド』を撮る頃にはそういう『二十才の微熱』の頃の偏見とか差別とか、あるいは自分自身の内面の問題とかもかなり乗り越えられて?
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内面の問題とかは、もうなかったです。
そういう偏見とか『二十才の微熱』で状況が変わりました。女性誌で特集が組まれたり、「ゲイはおしゃれだ」とか。あとテレビドラマでも、そういう『二十才の微熱』のような身体を売る少年の話が視聴率を取ったり、ずいぶん”ゲイ”という言葉が広まりました。認識の仕方は間違っているかもしれないけれど、ともかく広まったことは広まったので…。
ゲイは儲かるとそういうことも、映画会社としてはひとつ売りとしてあったので、障害というのはそれほどなかったです。『渚のシンドバッド』は、少年少女の初恋の話というか、誰もが一度は通るような、そういう普遍性のあるような、10年後、20年後も残っていく映画にしようという思って作ったので、ちゃんと意図とかも伝わって作らせていただきました。」
長回しは全然やっていない。カメラの上野さんと話していたのは、『二十才の微熱』はそういうアプローチがあった。反省点としてあるから、自分の気分も変わってます。あの今回は役者も動けばカメラも動く。「ああ、今いい表情を役者がしてる」と思ったら素直にアップに行く。そういうふうにもう「役者に添ったカメラにしましょう」ということを話して始めたので、あの一番長いのが6分のキスシーンですかね。岡田義徳と草野康太が体操着姿でキスするというシーンがあるんです。あれが6分近くあるんですね。いっぱいカット割り考えていたんです。でもリハーサルでお芝居見ていたら、これはワンカットで行きましょう…ということになって、ワンカットにしてしまったんです。
でもワンカットにしてよかったです。
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Q.今回、『ハッシュ!』が完成されたばかりで、これはより広い観客を相手にしているような映画というか、ポピュラリティーが広がってきたという感じがしたのですが?
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そうですね。まあ以前と変わらず、いかに伝えるかということなので、自分としてはそう変わったつもりはないんです。
ただ『シンドバッド』なんかも批評では、これは高校生の話だから、他のなんて言うか「大人の人には関係ないよ」と言う批評をする人もいらっしゃった。あるいは「同性愛のことは普通の人にはわかんないからさあ」と批評する方もいらっしゃったし、プロの方で…。そういうのって信じられなくて…。同性愛だろうが少年少女の高校生の話だろうが、何か普遍を描いているわけで、海外で評価している人もいるわけでちょっとわからないです。今回も一貫して、「いかに自分の思っていることを伝えるか」ということがベースになっていて、ただまあ「より多くの人に見てもらいたい」「わかってもらいたい」というのは、どの作品でも一緒です。
ただ、あえて間口を広げたいという意識はない。ただ中には、まあ笑いの要素がかなりでてくるんで、そういうことでいうとエンターティンメントというか、多少誇張するところは誇張して、楽しんでもらいたいというところはあります。
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ゲイの映画以外の企画もあるのですか? |
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舞台だとかテレビドラマだとか、他の監督さんのために書いた…映画にはなっていませんけれど脚本とか、原作の脚色とかやってるんです。自分の作品ももちろあると思います。
本当にこだわっているわけではないんですけれど、「オリジナルにこだわっているでしょう?」とよく言われますけど、オリジナルにこだわっているわけではないんです。
『シンドバッド』の時も、今回『ハッシュ!』もカンヌ映画祭で好評だったんで、いろんな話を日本でも戴くんです。「こんな話どうですか?こんな話どうですか?」って。本当にこれだったらマンション買えるなって話がいっぱいあるんですけど、映画ってその脚本からたずさわって、撮って映画祭まで関わって、公開・宣伝まで関わろうとすると2年とかあっという間です。
僕は平行して仕事できないんで、1本バッとなる。そうすると「自分の生涯の2年間を費やす価値のある映画か?」って考えちゃうんです。そうするといくらテレビ局が大量宣伝して、僕の名前も有名になって、何千万円かもらえる。マンションも買えるかもしれないって思っても、それと自分の人生の2年間を天秤にかけたら、「お金なんてどうだっていい」って思っちゃうんです。
そんな「名声とか、それに値するような自分にとって一番切実な映画を作りたい。」そうすると、どうしても自分の内面を覗き込んで、今これを撮らないとダメなんだってものを探していくと、どうしてもゲイ。
自分に今一番身近な問題、それがたまたまある原作とたまたま結びつけば・・・。
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