五輪=全日本柔道選手権で石井慧が優勝、最後の日本代表の座勝ち取る

2008年 04月 29日 21:04 JST
 
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 [東京 29日 ロイター] 北京五輪代表最終選考会を兼ねる全日本柔道選手権大会が29日、日本武道館で開催され、石井慧が鈴木桂治を破り優勝した。史上最年少で優勝した2006年以来2度目の「日本一」の栄冠を手にした。

 井上康生は準々決勝で高井洋平に、棟田康幸は準決勝で石井慧に敗れた。

 大会終了後、強化委員会が開かれ北京五輪代表で唯一未定だった男子100キロ超級の日本代表は石井慧に決定された。

 <クレバーな戦術で優勝勝ち取った石井>

 とぼけたコメントをしてマスコミ陣を煙に巻くことも多い石井だが、全日本選手権優勝の原動力はクレバーな戦術だった。自分の形を固定せず相手や状況に合わせた戦い方で強敵から勝ちをもぎとったといえる。

 準決勝の棟田戦は、自分より重い相手に対し一本を取るための柔道を捨て、泥くさく勝つ方法を選んだ。「組み手で負けないように、攻め手で負けないように、先、先に動いた」という。結果、指導の差ひとつで優勢勝ちを収めた。

 決勝の鈴木戦では一転、試合開始から攻めに動いた。「一発飛び込んで攻めようと思っていた」と石井。「闘争心が足りなかった」と振り返った鈴木は石井の突進に防戦に回る展開。さらに有効を取った大内刈りは鈴木戦用にとっておいた「秘策」だった。大外刈りを何度も繰り返した後で同じ入り方で大内刈りを繰り出し、有効を得た後、すかさず押さえ込みに入った。28秒で押さえ込みが解けて技ありとなり、一本勝ちには2秒足りなかったが、残り時間を逃げ切るには十分なリードだった。

 <試合の柔軟性と執念で分けた代表切符>

 日本代表に選ばれた要因も、こうした相手に合わせて変えることができる柔軟さと、その裏にある勝利への執念だ。男子代表の斉藤仁監督は「勝つためににはどうしたらいいかを考えている」と評価した。自らヒールを標榜する石井が「内容よりも勝ちにこだわる」と話すのは勝利への執念の裏返しといえる。

 一方、今大会まで代表選考レースで先頭を走っているとみられていた棟田は悔しい敗退となった。全日本柔道連盟の吉村和郎強化委員長は「自分で状況を判断して組み手を変えないと。相手に合わせてしまった。勝負への執念で甘さがあった」とし、戦い方に柔軟性を欠いた点がマイナス評価になったと述べた。

 石井は今年2月のオーストリア国際100キロ超級で優勝、3月カザフスタン国際100キロ超級でも優勝を果たし、昨年100キロ超級に転向してから海外、国内で無敗という実績も評価された。大殿筋断裂の故障で6日の体重別選手権(福岡)を欠場したが、これも「やめろと言うまでやめない」(斉藤監督)といわれる猛練習が原因といえる。

 ただ「オリンピックに向けて自己管理できるようにならないといけない」と石井は北京に向けた課題をあげる。練習量を上げる一方で、けがをしてはすべてが台無しになることは自分が1番よく分かっている。

 <井上は夢破れる、しかし悔いなし>

 3度目のオリンピック出場を目指していた井上は準々決勝で高井洋平に破れ、夢はかなわなかった。しかし、「自分自身の力を出し切った。悔いはない」と振り返る。勝ちを求めるため残り10秒で放った内また。井上の代名詞ともいえる技だ。高井に透かされて押さえこまれ一本負けとなったが、「それだけを狙っていた」、「最後まで一本を取る柔道がやりたかったので、最後まで攻撃できてよかった」と話した。

 シドニー五輪の100キロ級で金メダルを獲得したが、アテネ五輪では惨敗。100キロ級から100キロ超級へ階級を移したが、05年に右胸の筋肉を断裂するなど、その後の道は厳しかった。07年のフランス国際で優勝したものの、その後はリオデジャネイロ世界柔道選手権大会5位、08年フランス国際5位と国際大会では成績を残せないまま終わった。

 全日本柔道選手権大会関東予選からはい上がり、6日の体重別選手権では涙の優勝を果たした。最後の関門で力尽きたが「北京に向かって夢を追い続けたことは自分にとって良かった。成功で終われば良かったけれど、この経験が今後いろいろな面で生きていくと思う」と試合後、全力を出し切った汗まみれの顔で話した。

 (ロイター日本語ニュース 伊賀 大記)

 
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