夏休みの思い出
『夏休み』である。
社会人となった今ではあまり縁の無いものとなってしまったが、
小学生や中学生の頃は『夏休み』
という言葉を聞いただけでも心踊ったものである。
僕には『夏休み』に特別な思い出がある。
忘れもしない中学1年生の頃のことだ。
今もそうなのだが、実家の両親は子供の教育に関しては
殊のほか熱心で、中学生という思春期の大事な時期に
息子に何かを学ばせなければいけないっっ!
と、一念発起したらしく、夏休みを控えたある日
「長野県にある自給自足の村にいって生活して来い」
と僕に言い出したのだ。
そこは“共働学舎”といって、
障害をもつ人たちがボランティアの健常者とともに
自給自足の生活をしながらクラフトなどを作って生計を立てていて
1年に何度か大自然の中で貴重な体験をしてもらうという
都会の小中学生向けの合宿を行っている所だった。
一つ申し上げておくが、
ここは宗教や思想団体が絡んでいるのではなく、
主催者の理念に賛同した個人や企業の献金などによって
成り立っているという所だということだ。
とはいえ、中学1年生だった僕は、始めたばかりのクラブ活動や
友達とプールに行く方が楽しみだったから、当然のように反発した。
何といっても『自給自足』である。何があるかわかったもんじゃない。
(というか、自給自足なので何も無い所だったのだが)
すったもんだがあった末、
僕は親の意向に押し切られ、渋々長野県に行くことになった。
そこは小谷村(おたりむら)という地域にあり、
JR南小谷駅が最寄駅ということになっていた。
夏休みに入って3週間ほどたった8月の半ば、
僕は集合場所となっているJR南小谷駅に向かった。
電車に揺られること数時間…
予定より1時間早く南小谷駅を降り立った僕は愕然とした。
何も無い、何も無いのである!!
駅前には公衆便所が一つあり、その屋根にはカラスが乗っている。
駅を降りた僕に話し掛けてきたのはそのカラスだった。
『カァ〜』
「だまされた…」
その時、僕は両親が言うことを聞かない僕に手を焼いて
非常手段に出たのかと本気で思った。
と、疑心暗鬼に陥っていた僕に、髭面の男性が近寄ってきた。
年は40代半ばという所だろうか。
「大野くんかな?」
「はい」
「多分みんな次の電車で来るから少し待とうか」
炎天下で待つこと1時間、
ようやく僕と同じ所で合宿する子供たちがやって来た。
小学4年生から中学3年生までの15人が今回のメンバーである。
みな一様に不安そうな表情をしている。
当たり前である。
駅の周りには緑しかなく、どこを見回しても建造物が無いのだ。
「じゃあ出発しようか」
ヒゲ面の男性は僕らにそう声を掛けると先頭に立って歩き出した。
と、歩道はいきなりデコボコ路になり、じきに山道になった。
誰も口を開く者は無く、ただ黙々と山道を歩き続けた。
2時間後、まだ目的地に着く気配は無い。
周りはうっそうと繁った雑木林で、人の気配は全く無い。
と、いきなり視界が開けた。
そこはなかなか広い村のようであったが、
セミの声以外は全く聞こえずひっそりと静まり返っていた。
するとヒゲ面の男性は僕達に向かって
「ここは30年前までは人が住んでいたんだけれど、
雪が多いのと交通が不便なのとで廃村になってしまったんだ。
それを共働学舎で借り上げているというわけだ」
と説明してくれた。
そして2週間の合宿がスタートした。
子供たち同士はすぐに打ち解けあったが、
廃村での合宿生活は驚きの連続であった。
都会での生活に慣れきっていた僕たちには衝撃だったと言ってもいい。
トイレは水洗ではなくいわゆる“ボットン”便所。
最初は“お釣り”を喰らって泣き出す子供もいたが、
さすがに順応もはやく、あっという間に慣れっこになった。
(あの臭いは最後まで慣れなかったが、
それが肥料になると聞いて二度ビックリしたものだ)
そしてお風呂は五右衛門風呂。
最初は加減が分からずガンガン火を燃やしたために
お湯が煮えたぎってしまい、入浴が行水になったことがあった。
僕はそれ以来、火を炊くのが好きになった。
また、牛乳はないからヤギの乳。
毎朝ヤギの乳を搾る係が回ってくるのだが、
上手く搾れるとこれが楽しい!
ヤギの乳で作ったバターも美味しかった。
そして卵は毎朝にわとりが産んだ分だけが食卓に並ぶ。
にわとりは10羽ほどしかいなかったから、卵は貴重品だった。
合宿にきた僕たちには優先的に卵が与えられたが、
放し飼いのにわとりが産む卵は絶品で、毎日でも卵が食べたかった。
そんなにわとり小屋に、ある日
アオダイショウという蛇が侵入して大騒ぎとなった。
畑仕事を終えて小屋をのぞいた僕たちはビックリ仰天したが、
大切な卵を奪われては大変と、一番年長の中学3年の男の子が
体長1mほどのアオダイショウのシッポを捕らえ、
「おりゃおりゃ〜!」
と叫びながら近くの川原に向かって投げ捨てた。
「あの蛇、お腹大きかったから卵飲んだのかも…」
「お腹から卵取り返せばよかったのに」
と僕たちは毒づいたが、今考えると恐ろしい発想ではある。
『もっと卵が食べたい!!』
そう考えた僕たちは、大人たちから
「にわとりはバッタを食べると卵を産む」(真偽の程は不明…)
という話を聞きつけ、ある日の午後、畑仕事の合間を縫って
大量のバッタを仕入れることに成功した。
15人が力を合わせたお陰で、
大きなゴミ袋に一杯のバッタバッタバッタバッタバッタ…となった。
これで明日は美味しい卵が食べられる!
と僕たちはニワトリ小屋にそのバッタを投入した…。
すると、10羽ほどしかいないにわとりに対して、
数百匹のバッタが一斉に跳ね回ったものだからたまらない。
にわとりはコケコケ騒ぎ出し、バッタはぶんぶん飛び回る始末。
とても卵を産むような状況ではなくなってしまったのだ。
しかし僕たちはこの状況をどうすることも出来ず、
「明日までには全部にわとりがバッタを食べるだろう。
そして食べきれない位の卵が手に入るのだ!うわははは!」
と、お気楽な結論を下して小屋から立ち去った。
…翌朝、バッタの襲撃におびえたにわとりが
ショックで卵を1コも産まなかったのは言うまでも無い。
ほかにも色々あった夏休みの合宿生活。
都会に住む子供たちも、
一度はこんな生活を体験してみてもいいかもしれない。
便利さや生活する知恵みたいなものが身に付くと思うのだが…。
社会人となった今ではあまり縁の無いものとなってしまったが、
小学生や中学生の頃は『夏休み』
という言葉を聞いただけでも心踊ったものである。
僕には『夏休み』に特別な思い出がある。
忘れもしない中学1年生の頃のことだ。
今もそうなのだが、実家の両親は子供の教育に関しては
殊のほか熱心で、中学生という思春期の大事な時期に
息子に何かを学ばせなければいけないっっ!
と、一念発起したらしく、夏休みを控えたある日
「長野県にある自給自足の村にいって生活して来い」
と僕に言い出したのだ。
そこは“共働学舎”といって、
障害をもつ人たちがボランティアの健常者とともに
自給自足の生活をしながらクラフトなどを作って生計を立てていて
1年に何度か大自然の中で貴重な体験をしてもらうという
都会の小中学生向けの合宿を行っている所だった。
一つ申し上げておくが、
ここは宗教や思想団体が絡んでいるのではなく、
主催者の理念に賛同した個人や企業の献金などによって
成り立っているという所だということだ。
とはいえ、中学1年生だった僕は、始めたばかりのクラブ活動や
友達とプールに行く方が楽しみだったから、当然のように反発した。
何といっても『自給自足』である。何があるかわかったもんじゃない。
(というか、自給自足なので何も無い所だったのだが)
すったもんだがあった末、
僕は親の意向に押し切られ、渋々長野県に行くことになった。
そこは小谷村(おたりむら)という地域にあり、
JR南小谷駅が最寄駅ということになっていた。
夏休みに入って3週間ほどたった8月の半ば、
僕は集合場所となっているJR南小谷駅に向かった。
電車に揺られること数時間…
予定より1時間早く南小谷駅を降り立った僕は愕然とした。
何も無い、何も無いのである!!
駅前には公衆便所が一つあり、その屋根にはカラスが乗っている。
駅を降りた僕に話し掛けてきたのはそのカラスだった。
『カァ〜』
「だまされた…」
その時、僕は両親が言うことを聞かない僕に手を焼いて
非常手段に出たのかと本気で思った。
と、疑心暗鬼に陥っていた僕に、髭面の男性が近寄ってきた。
年は40代半ばという所だろうか。
「大野くんかな?」
「はい」
「多分みんな次の電車で来るから少し待とうか」
炎天下で待つこと1時間、
ようやく僕と同じ所で合宿する子供たちがやって来た。
小学4年生から中学3年生までの15人が今回のメンバーである。
みな一様に不安そうな表情をしている。
当たり前である。
駅の周りには緑しかなく、どこを見回しても建造物が無いのだ。
「じゃあ出発しようか」
ヒゲ面の男性は僕らにそう声を掛けると先頭に立って歩き出した。
と、歩道はいきなりデコボコ路になり、じきに山道になった。
誰も口を開く者は無く、ただ黙々と山道を歩き続けた。
2時間後、まだ目的地に着く気配は無い。
周りはうっそうと繁った雑木林で、人の気配は全く無い。
と、いきなり視界が開けた。
そこはなかなか広い村のようであったが、
セミの声以外は全く聞こえずひっそりと静まり返っていた。
するとヒゲ面の男性は僕達に向かって
「ここは30年前までは人が住んでいたんだけれど、
雪が多いのと交通が不便なのとで廃村になってしまったんだ。
それを共働学舎で借り上げているというわけだ」
と説明してくれた。
そして2週間の合宿がスタートした。
子供たち同士はすぐに打ち解けあったが、
廃村での合宿生活は驚きの連続であった。
都会での生活に慣れきっていた僕たちには衝撃だったと言ってもいい。
トイレは水洗ではなくいわゆる“ボットン”便所。
最初は“お釣り”を喰らって泣き出す子供もいたが、
さすがに順応もはやく、あっという間に慣れっこになった。
(あの臭いは最後まで慣れなかったが、
それが肥料になると聞いて二度ビックリしたものだ)
そしてお風呂は五右衛門風呂。
最初は加減が分からずガンガン火を燃やしたために
お湯が煮えたぎってしまい、入浴が行水になったことがあった。
僕はそれ以来、火を炊くのが好きになった。
また、牛乳はないからヤギの乳。
毎朝ヤギの乳を搾る係が回ってくるのだが、
上手く搾れるとこれが楽しい!
ヤギの乳で作ったバターも美味しかった。
そして卵は毎朝にわとりが産んだ分だけが食卓に並ぶ。
にわとりは10羽ほどしかいなかったから、卵は貴重品だった。
合宿にきた僕たちには優先的に卵が与えられたが、
放し飼いのにわとりが産む卵は絶品で、毎日でも卵が食べたかった。
そんなにわとり小屋に、ある日
アオダイショウという蛇が侵入して大騒ぎとなった。
畑仕事を終えて小屋をのぞいた僕たちはビックリ仰天したが、
大切な卵を奪われては大変と、一番年長の中学3年の男の子が
体長1mほどのアオダイショウのシッポを捕らえ、
「おりゃおりゃ〜!」
と叫びながら近くの川原に向かって投げ捨てた。
「あの蛇、お腹大きかったから卵飲んだのかも…」
「お腹から卵取り返せばよかったのに」
と僕たちは毒づいたが、今考えると恐ろしい発想ではある。
『もっと卵が食べたい!!』
そう考えた僕たちは、大人たちから
「にわとりはバッタを食べると卵を産む」(真偽の程は不明…)
という話を聞きつけ、ある日の午後、畑仕事の合間を縫って
大量のバッタを仕入れることに成功した。
15人が力を合わせたお陰で、
大きなゴミ袋に一杯のバッタバッタバッタバッタバッタ…となった。
これで明日は美味しい卵が食べられる!
と僕たちはニワトリ小屋にそのバッタを投入した…。
すると、10羽ほどしかいないにわとりに対して、
数百匹のバッタが一斉に跳ね回ったものだからたまらない。
にわとりはコケコケ騒ぎ出し、バッタはぶんぶん飛び回る始末。
とても卵を産むような状況ではなくなってしまったのだ。
しかし僕たちはこの状況をどうすることも出来ず、
「明日までには全部にわとりがバッタを食べるだろう。
そして食べきれない位の卵が手に入るのだ!うわははは!」
と、お気楽な結論を下して小屋から立ち去った。
…翌朝、バッタの襲撃におびえたにわとりが
ショックで卵を1コも産まなかったのは言うまでも無い。
ほかにも色々あった夏休みの合宿生活。
都会に住む子供たちも、
一度はこんな生活を体験してみてもいいかもしれない。
便利さや生活する知恵みたいなものが身に付くと思うのだが…。
2002.08.09 | | コメント[0] | トラックバック[0]