「マスコミタブー」が軽くなった時代

PJ小田編集長ら阿佐ヶ谷Loft Aで

三田 典玄(2008-05-16 19:30)
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 阿佐ヶ谷Loft Aで15日、トークイベント「ジャニーズ、テレビ局、記者クラブ、マスコミのタブーをぶち壊せ!」が開催された。

 私は行けないけど面白そうだから行ってみたら?と教えてくれたのは、オーマイニュース市民記者の安住るりさんだ。まず、一言で言って、少し退屈だった、ということを告白しておきたい。
全体の様子(撮影:三田典玄)
 出演はPJnewの小田光康編集長、雑誌の内容が過激なことで有名な「サイゾー」の揖斐憲編集長、メディア論の旗手と一部で言われている、明治大学の大黒岳彦氏、「あるある」のスクープで一躍有名になったPJnewsの市民記者、穂高健一氏。「裏BUBKA」元編集長の岡崎雅史氏。そして、途中から鹿砦社の「紙の爆弾」中川志大編集長が加わった。

タブーに関する雑談といった雰囲気

PJnews小田編集長(撮影:三田典玄)
 話題の半分は、芸能関係、それもジャニーズ事務所のスキャンダルがなぜ報道されないか? ということだったが、それぞれがそれぞれの立場での「雑談」という雰囲気で、特に強い主張があった、という感じではなかった。業界の裏話雑談会、といったところだろうか。もっとも、「トークライブ」はメインの話だけではなく、雑談の合間のちょっとした言い回しで、出席者がけっこう重要なことを言うのを聞く、というのを楽しむようなところがあって、これはこれで面白い話だった。

 また、某大手新聞社は今年50億円以上のリストラを余儀なくされている、など、相変わらず出版業界の暗い話題も多かった。また、PJnewsの小田編集長自らが4月26に長野に行ったときのビデオ映像も流された。

 話は小田編集長がリード役となり、話題を決め、それに全員がなんらかの自分の立場でもコメントをする、という形式だった。

 丁々発止(ちょうちょうはっし)のやりとりを期待していた向きには、少々生ぬるい感じがしたものの、記者が聞いて面白いと思ったのは、最近はよほどの大手メディアでないと、例えばジャニーズのスキャンダルなどの、従来は「マスコミタブー」と言われているものを記事で扱っても、ジャニーズ事務所はなにも相手にしてくれない、という「情報」だ。

 それだけではなく、全体的に「マスコミタブー」と言われているもの、例えば創価学会、あるいは天皇の問題、マスコミ自身の問題などが話題になっても、最近はなかなか話題にされた当事者の動きが鈍く、たいした訴訟は起こされなくなった、ということも報告された。

 また、これらの話を聞いている私たちにも「マスコミタブー」と言う言葉の響きが、なんだかかつてよりも色あせて見えている、あるいは「軽く」なったのではないか、というのが実感だ。これには、ネットがとても大きな影を落としていると、私は考えている。

サイゾーの揖斐編集長。イイ男である(撮影:三田典玄)
 それと言うのも、ジャニーズの問題にしても、天皇の問題にしても、いまやネットがあるおかげで、裏の裏の情報まで、私たちは手軽に、コタツの上で知ることができる時代になった、ということがあると思う。「裏情報」は「裏情報というものがある」ということが認知されてしまえば、すでに名前だけが「裏」で、その実態は「表の情報」になってしまうことは言うまでもない。どうせそんなところでしょ? みたいな、どんな裏情報にも驚くようなことがなくなった。

 ネットが出てくる前までは、「裏」と「表」がはっきりしていて、ある特定の情報は関係者のみが知り、それ以外の人は知らないから、裏情報には価値があったし、その情報に接したときの驚きもひとしおだった。だからこそ、週刊誌が売れたし、暴露本もよく売れた。

 しかし、今はそうではない。「こんなことがあったんだって!」と言えば「どうせそんなものでしょ。あとで検索しておくね」という時代になった。「日本国民の規範となるべき立場にもいる国会議員が不倫とは何事だ!」と、「ある(語られない裏の)事実」が暴露されれば、大問題となった。今は「国会議員だって人間だもの、不倫くらいするよね?」と、聞くほうも「訳知り」になり、その種の情報もちまたにあふれているため、「またかい?」みたいな反応になってしまう。

 おそらく、ネットが目指した「あらゆる人にあまねく、すべての情報を」という理想がある程度達成されると、その情報を受ける側も情報をすべてうのみにすることはなくなり、多くの情報から、自分の好みにあった、あるいは自分が正しいと思う情報を選択する、ということができるようになったのではないだろうか? 「正しいこと」よりも「事実はどうなのか」が重視され、それに沿った情報が「なにが正しいか」という規範と同じくらい、あるいは規範よりも重要視されることになった。

 このイベントのスピーカーのひとりである明治大学の大黒岳彦氏は、今回のトークライブ中「あまり心配していない。情報が多ければ、それを受ける側も賢くなっていくものだから」と言った。この言葉に、今回のイベントの内容が象徴されている、と記者は思った。確かに、自動車ができた当初「あんな速度に人間が耐えられるはずはない」と言われていたと言うが、今はこんなに多くの人がそのとき以上のスピードでクルマを走らせることが当たり前になっている。人間は状況に適応していく生き物でもあるのだ。

マスコミタブーとマスコミの権威は表裏一体か

明治大学・大黒岳彦氏(撮影:三田典玄)
 ネットの時代。ネットがあることによって、私たちは「愚衆」であることをやめざるを得なくなった。裏情報もひっくるめて、すべての情報は誰か一部の人のものではなくなり、誰でもがその情報の信ぴょう性を自分自身で確かめることが当たり前になり、権威などに頼らないで、自分で判断をすることが良いこととされるようになった。

 「マスコミタブー」というのは、マスコミが「言えない、書かない」ことによって保たれてきた「権威」の裏面にくっついている情報だ。マスコミは「マスコミタブー」を「認知する」ことによって、その権威に反対してタブーを暴露するにしろ、権威を認めてタブーを言わないにしろ「マスコミ」としてこの社会に認められてきた、とも言えるのではないか。「タブー」があることを認めることは、そのまま権威を中心として動いているこの社会を認知することでもある、と言えるだろう。だとしたら、マスコミタブーがなくなる、ということはそのままマスコミ自身の権威もまた薄っぺらなものに成り下がる、ということなのではないだろうか?

 おそらく、タブーがなくなったことによって、権威もなくなった。なんだかそんな気がしてならない。それが良いことか、悪いことかは、記者もよくわかっていない。ただ、記者自身がインフラを作ってきた、この「インターネット」がそういう人間社会の変わり目を作った、ということだけは、ある意味において楽しい記憶として、これからも永遠に残るだろうと思う。そして、この道は決して後戻りはできない、ということも、きっと確かなことなのだ。

 最後になるが、トークの内容で面白かったことがある。「紙媒体」で成功したことがある人たちは「ネット」に対してある種複雑な思いを抱えているのに対して、そういう成功体験のない編集者は、それが紙媒体であっても「ネットはあるのが当たり前」というところから出発していて屈託がない。これは年齢とはあまり関係はないようだ。おそらく、この「差」は紙媒体の没落とともに、さらに深く、広くなっていくような気が、個人的にはする。

 「情報化社会」とは、こういう社会だったのだ、という「事実」を、今回のトークライブで目の前に見せられた感じがした。

 しかしね、午後7時半から初めて、夜11時過ぎまでのライブってのは、帰るのがつらいです。あと、LOFT-Aのお酒は水割りものはビールよりも「はるかに」アルコール度が薄い。焼酎の水割りなんか、焼酎のにおいもしない。もうちょっとなんとかならないものか……。

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