'08.05.03 (土)
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ここに良き解答が? |
内容の薄いことをぐちゃぐちゃ書きます。読まないように。
表題 「ここに良き解答が?」。しかし今日の日記は、聖ピオ十世会の提示している一枚の文章に苦しんだ経験 [参照] のある私みたいな者にしか、ピンと来ないかも知れません。
しかしまた私には、やはり彼らを責める気持ちは毛頭ありません。それどころか、私は今も彼らの変わらぬ積極的な支持者です。別にツッパッてるんじゃありません(笑) それはこの日記の最後を見てくれれば分かります。( "論拠" の提示はありません。)
私達の小教区教会に対して私達が取るべき態度について、またあらゆる問題を含む現在のカトリック界に対して私達が取るべき態度について、私は、「他界からの警告」 と 「ベイサイド」 が良い解答を提示していると思えてならない。
"あなた方は待たねばならず、頑張り通さねばならず、そして人間によるこの汚染を御子と共に泣かなければなりません。"
現在の教会の状態を 「御子と共に」 泣かなければならない。私はこの言葉に心動かされた。御子が間違いなくそこにいらっしゃり、且つ私達がそこに居て 「ご自分と共に泣く」 ことをお望みであるというのなら、私達には他に何を望めるだろう。主のそのお望みにお応えすること以外、何が考えられるだろう。
" '十分な祈りがあれば、またそれと同時に多くの人々の中に確かな聖性の模範があれば、そのようなことは必要ないのである' という信念のうちに、不変且つ堅固に留まらなければならない。"
このような形の信念が、確かに 「信徳」 の内にあるのではないだろうか。
"わが子よ、またわが子達よ、これを覚えておきなさい。たとえどんなに道が険しくなろうと、あなた方はあなた方の小教区教会の中に留まらなければなりません。そしてあなた方が善い模範となることによって、また沢山の祈りを捧げることによって、あなた方は司祭達を再び光の中に連れ戻すことができるでしょう。"
即ち、「堅忍」 であろう。
"わが教会の中には、私のために前面に立って戦おうとする者は一人もいないのか?"
"この神聖さを現在のわが教会の中に見出せると期待してはならない。しかしまた同時に、そこから走り去ってもならない。そこに留まり、そして戦いなさい! わが教会を保ちなさい!"
そうだ。主がこれらの小教区教会を 「わが教会」 と "呼ばない" などということがあろうか?
また、「聖伝」 の理想との関係において、あるいは聖ピオ五世のミサ (あるいはトリエント・ミサ) との関係において、私達は私達の教会の現状の中で、私達の持つべき姿勢を次のようにまとめるのが確かに正しいのではあるまいか。また、これは現在のミサの持つ効力 (恵みを与える度合、その実際のところ) を言っているのであるが、私にはどうもこのような描写が正しいように思えてならない。
"聖ピオ五世のミサは上のあそこの天によって好ましいものと考えられている。しかし多くの司祭は、「聖ピオ五世のミサが行われないならば、ミサに行くな。自分の家で自分でミサを唱えよ」 などと言って信者を困らせる (または怒らせる) 権利はない、という事を知らされるべきである。
こういった態度は良くない。何であれそういう司祭は良い牧者 (羊飼い) ではない。我々は以前、既に言ったが、それでは恩寵をたくさん失う事になる。本当だ。良い信仰を持って司教への従順の下に捧げられるならば新しいミサでも尚多くの恩寵を頂けるのだ。聖ピオ五世のミサほど豊かな恩寵を頂けないにしても、いくばくかの恩寵は同じように頂けるのだ。"
"しかし話を最後まで終わらせる為に、次の事をまだ言わねばならない。司祭で 「そんなミサに行くくらいなら、家にいた方が良い」 と言う者は誤りを犯している。もしミサが、司祭自身、奉献の言葉を信じず、唱えるべき言葉も唱えないところまで堕ちているのならば、もし奉献しようという意志さえ持っていないのなら、その時にはホスチアは聖化されない。これは本当だ... 。しかしそれでも信者たちはなお教会内で祈ることはできる。
また、こうも言わなければならない。信者たちはキリストの充満また恩寵の充満というものを奪い取られている。これは本当だ。しかし、ある恩寵は尚そのミサに付随している。特に深い信仰を持った善きキリスト信者が、信心を持ってキリストを拝領しようという意志を抱いてミサに与かり、聖体拝領するならば、天は単純に 「司祭が適切に司式していないからここには恩寵は全く与えない!」 などとは言わずに、十分公平に扱われる。そのような信者には事情にもかかわらず、ある恩寵が与えられる。"
私は、この悪魔達の口を通して語られたことに、「そうだろう」 と思わずにはいられない。昔も、次のように考えたことがあったのだ。
人間の神学よりも 「天主の自由」 の方が上位にある、ということではないか。/ 神学には神学の使命がある。それはいつも原理原則を扱う。だけど、尚、神学は信仰の全域を覆わない。私達はもう少し、現在の教会に対して、「天主の自由」 という観点をもって見ることが必要なのではないか。実際、天主様の御憐れみの深さは「私達の知らない理由」を多く含むものの筈だ。「私達の知らない理由」 によって天主様が現在のミサにも多くの御恵みを注がれている可能性は充分にあり得ることではないか。/ 私は思うのだ。諸々のことから考えて、天主様は今の問題の多い御ミサにも多くの御恵みと御憐れみと御保護を注がれているであろう、と。
ただ、私達はあくまで言葉の 「含蓄」 というものを忘れてはならないと思う。
私達は 「ニュアンス音痴」 になってはならない。
もし聖ビオ五世のミサに与る機会があるならば、その場合は天はその方をずっと好まれる。しかしそういう可能性が全くなければ、それ以外のミサに行っても良い。ラテン語で捧げられる聖ピオ五世のミサの次に良いミサは、自国語によるトリエント・ミサであるが、これはあくまでそのトリエント・ミサの典礼文を全て唱えられる事が前提である。その次、三番目に来るのが新しいミサである。しかし信者がこのことを知らず、尚良い信仰を持ってミサに与るのであれば、それが彼らの意志である限り彼らは主への義務を果たす事になるのである。
他方、もし信者が一キロメートル先まで行けば聖ビオ五世のミサが捧けられる事をよく知っているのに、「ふん、遠すぎるさ。あんな所まで走って行くものか!」 とつぶやいたり、そのミサの方が良いという事をよくわかっている場合には、話は違ってくる。その場合は、彼らは怠慢により非常に損をした事になるのだ。その一キロメートルを行くべきであったのだ。お前達にわかるか〔涙声〕。もし我々がまだあれほど偉大な恩寵の分け前に与かることができるならば、どんなに遠くとも行くだろう。我々にまだチャンスがあれば、地の果てまで旅をするだろうに! だから我々は以上のように話すことで、他のミサも同様に良い、ということを言いたかったのではない。上のあそこの〔上を指す〕方々が好まれるミサについては、既に十分話したとおりだ。
そうしてまた私は、これらにも拘わらず-----きっと矛盾にしか思われないだろうが-----次のような言葉もここに置いておこう。
"長い戦いの末、エコンは勝利するだろう。"
"エコンはあらゆる反対、あらゆる攻撃にもかかわらず、打ち勝つであろう。それは打ち勝つだろう!"
"彼は信仰のために大いなる苦しみを苦しんでいるが、正しい道にある。彼は、叙階された司祭達の多くが裏切って捨てたところの、光のようであり、また真理の柱のようである。信仰は従順より重要である。それ故、わが一にして真なる教会のために、司祭のための神学的な教育の仕事はわが息子マルセルの精神と意志とによって続けられることが私の意志である。"
"わが僕マルセルの、エコンでの仕事は滅びない!"
一つだけ言っておこう。
彼らは神の御摂理の中において非常に特別な使命を持った聖職者集団なのである。
純粋過ぎて多少無茶なことを言うから私も痛んだけれど、しかしそんなことは枝葉のことである。