「元少年と同じようなことを…」を読んで

プラットホームとしての市民メディアの意義を考える

林田 力(2008-05-01 17:30)
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 昿野洋一記者の記事「元少年と同じようなことをした私の体験」が波紋を呼んでいる。本記事では自身の思春期のころの体験談から、光市母子殺害事件も元少年が性欲に支配されて理性的に行動できなくなった結果ではないかと主張する。そして「日本には性に対するはけ口があまりにもなさ過ぎる」として、「国の性に対する整備の欠陥についても考えられるべきではないだろうか」と主張する。

 非常に衝撃的な内容である。記事には性犯罪被害者の痛みも被害者・遺族に対する同情・共感の姿勢は皆無である。性のはけ口という視点しかなく、女性の尊厳を踏みにじるものと言ってよい。よって本記事に対し、批判コメントが殺到するのは当然の反応である。むしろ市民記者の健全性を示すものと考えたい。しかし、気になるのは記事の削除を求めるコメントが日増しに強まっていることである。

 編集長は掲載理由を回答したコメント中で本記事を「一歩間違えれば自分もそうなっていたかもしれないと読者に内省を促す、“グレー体験者”ならではのオリジナリティーのある体験談」と位置付ける。その上で「光市事件判決直後、さまざまな投稿が寄せられる中で、事件を人ごととして論評するだけではなく、自分の問題として考え、議論する一助になると判断」したとする。

 コメント欄に寄せられた市民記者の反応は、記事を否定するものばかりで「一歩間違えれば自分もそうなっていたかもしれない」と「自分の問題として考え、議論する」ことになったとは言い難い。この点では編集長の意図は通じなかったと言える。

 一方で読者が本記事から「自分は元少年や昿野記者とは違う、元少年や昿野記者は向こう側の存在だ」と結論付けたならば、自己の正常性や元少年や昿野記者の異質性を認識したことになる。自分の問題として考えようとした上で、自分ならば絶対にやらないと結論付けたことになり、その限りで本記事は「自分の問題として考え、議論する一助」になったと言える。この意味では意図した方向とは異なるとしても掲載の狙いは達成できたことになる。

光市母子殺害事件の論点

 光市母子殺害事件が話題になったのは犯罪の異常性・残酷性だけではない。刑事訴訟手続きについても大きな問題を投げかけた。犯罪被害者・遺族の権利がないがしろにされているのではないか、被告人の罪を軽くするためならばいかなる弁護活動も許されるのかという点が議論された。

 本記事は、それらの問題について全く触れていない。記事中で記者は判決言い渡し日の広島高裁に大勢の人がいるのを見て、事件について「新聞やインターネットで調べた」と書いている。ここからは昿野記者は光市事件について、それほど詳しくないのではないかと推測できる。被害者の遺族である本村洋氏の苦闘について知らずに記事を書いた可能性もある。この点も私が本記事、さらには記者のスタンスに共感できない理由のひとつである。

 私は硬直的な司法制度と戦い続けた本村洋氏を尊敬する。私自身、民事訴訟であるが、マンションの売買契約をめぐって東急不動産と裁判闘争をした経験がある(記事「東急不動産の遅過ぎたお詫び」)。

 引き渡しが終わった不動産取引では契約の白紙撤回が認められることは難しいと指摘されたが、泣き寝入りすることなく、消費者契約法に基づく契約取消しを貫き通し、売買代金の全額返還を勝ち取ることができた。新たな先例に踏み出させることの大変さを実感しているため、本村洋氏の活動には感服する。

 そのような視点のかけらもない本記事は私の関心を満たすものではない。しかし、これは記事のスコープの問題である。私にとって興味深い記事ではないということを意味するにとどまり、本記事が掲載する意義を有するかという点は別問題である。

本記事の意義

 本記事に意義があるとすれば、特異な犯罪を行った者の心理を明らかにする手がかりを提供する点にある。いかなる動機で犯罪が行われたのかを知ろうとすることには意義がある。少なくとも誰かが、そのような関心を抱くことを他人に否定する資格はない。

 刑事事件としての光市事件では死刑という量刑が妥当であるかという点が最大の論点であった。犯罪結果の重大性に対する応報として刑罰を考えるならば具体的な動機が何であれ、死刑という結果に影響を及ぼすものではないという主張はもっともであると考える。
 しかし本記事は量刑の妥当性を問題視しておらず、そのような視点から本記事を批判することにはあまり意味がない(ただし、本記事は「死刑の是非を考える」という特集からリンクされており、その限りで上述の批判は妥当する)。

 私自身を含む多くの人にとって光市事件の関心事は量刑や、被害者遺族の人権、弁護活動の妥当性であった。従って、それらに触れていない本記事は多くの人の関心を満たすものではないことは事実である。元少年が意図して殺害したか否かが問題であって、どのような心理状態でいたのかという点に関心を持つ人は小数と思われる。しかし、だからといって本記事に掲載する意義が存在しないことにはならない。

 内容的にも人間の行動を性欲面から説明しようとする記者の試みは格別並外れたものではない。ジークムント・フロイトは人間が無意識の世界にある性の衝動(Libido)に支配されているとする主張した。本記事には批判されるべき点が多々あるが、記事を掲載すべきか削除すべきかの判断は別である。

玉石混交こそ市民メディアの醍醐味(だいごみ)

 市民記者が本記事を削除すべきとコメントする最大の理由は、本記事が掲載されることで媒体(オーマイニュース)への評価が損なわれるのではないか、という点にあると思われる。変な記事が掲載されることで、媒体自体が問題記事と同様のスタンスをとっていると同視されるという懸念である。その結果、同じ媒体に掲載されたほかの記事についても色眼鏡で見られ、市民記者の自尊心をもおとしめるのではないかとの問題意識である。

 市民メディアとは多数の市民記者によって成り立つ媒体である。既存メディアの従業員記者と比べるならば、市民記者間の目的意識も価値観もバラバラであることを想定している。

 特にオーマイニュースは「○○も、××も、みんなで作るニュースサイト」を標榜(ひょうぼう)している。○○や××には「老い」「若き」、「喫煙者」「嫌煙家」、「頭脳派」「肉体派」など対照的な言葉が入る。市民メディアの中でも市民記者間の価値観の多様性を尊重し、多様な価値観に基づいた記事を掲載するプラットホームであることを意識していると考えられる。

 故に市民メディアに、ある市民記者にとって「とても受け入れ難い」と思われる変な記事が掲載されることは市民記者にとって想定している範囲内の出来事のはずである。優れた記事があれば、変な記事もある。玉石混交が市民メディアの醍醐味である。だから変な記事が掲載されたとしても、憤慨することも掲載した編集部を責めることも妥当ではないと考える。

 市民メディアという存在自体が社会的に認知されているとは言い難い状況では、変な記事が掲載されることで媒体自体の評価がおとしめられてしまう可能性は否定できない。それに対しては、玉石混交の記事を発表する、プラットホームとしての市民メディアの意義を認知させていくことが正しい対応法であると考える。

 社会多数派に迎合する記事のみを掲載することが市民メディア編集部の見識ではないし、それを市民記者側が求めるのは市民メディアにとって自殺行為である。

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