|
「ニュースのたね」について
オーマイニュース(OhmyNews)の掲載記事のうち、「ニュースのたね」ページに掲載されている記事は、オーマイニュースによる編集作業を経ていない、市民記者から投稿されたままの記事です。その点をご理解のうえ、お読みください。 死刑判決とはなんだ光市母子殺害事件差し戻し控訴審の判決を見て古川 基(2008-04-23 17:04)
光市母子殺害事件差し戻し控訴審の判決は「死刑」判決であった。
さも溜飲が下がったかのように書き立てている所もある。 「光市母子殺害事件」を「光市母子惨殺事件」と書いて報道する風潮も一部見受けられた。 私はもし死刑にするならば最高裁で死刑にするべきだと考えている。 光市母子殺害事件の経緯は今さらここで書くような事ではないので割愛させてもらうが、犯人の少年が、犯行前はどんな少年だったのか、私は驚くほど何も知らない。 あえて言わせてもらうが、私は今後、山口県光市で同様の事件が3件ほど立て続けに起きてもあまり驚かないであろう。 犯行を犯した少年の出身はどこか知らないし、どこに在住していたのかも知りはしないが、山口県光市は間違いなく事件のあった場所だからだ。 私は沖縄県で米兵による事件が起きても、特に驚く事はない。 日本から見ても、アメリカから見ても、事件が起きるに足る理由がそこには存在しているからだ。 原子力発電所で放射線洩れが発見されても驚かない。 むしろ火力発電所から洩れたら驚くだろう。 同じ理由で光市でもう一度、同様の事件が起きても驚く必要はないのである。 私が最も恐れているのは、山口県光市及びその周辺の地域にいわゆる「普通の少年」をこの事件のような犯行に走らせる仕組みが存在しているのではないかという事だ。 そして、その仕組みが私の住んでいる地域に流入してきてしまったとしたら、妻子がいる私としては「明日は我が身」を恐れざるを得ない。 もし、光市に存在しているのが「普通の少年」を「凶悪犯罪者」に育てる仕組みではなく、「少し変わった少年」を「凶悪犯罪者」育てる方法だとしても、若干確率が下がっただけであまり喜べない。 また、当時少年だった犯人が生粋の「凶悪犯罪者」だったとしよう。 その場合、「現在、日本では生粋の凶悪犯罪者は事件を起こすまでに探し出す事は不可能です」とおおっぴらに認めてしまう事になる。 そうしたらどうしよう。 私の周りの凶悪犯罪者が、最初の標的を私以外の誰かに定めてくれる事を七夕の短冊にでも書いて願うしかないではないか。 私はこの裁判はもっと長引かなくてはならないと考えている。 私たちは裁判を通して事件の徴候を学ばなくてはならない。 日本で最高の法律、犯罪の専門家を集めた場所で、徹底的に議論を行い、七夕の短冊を用いるといった方法以上に積極的な犯罪防止の手段を導き出さなくてはならない。 その結論が死刑であれば、それでよいだろう。 ただ、事件発生から死刑判決までがスピード審議で行われるようでは困るのだ。 では、今回の事件がもし裁判員制度の元で裁かれたとしたらどうなっていただろうか。 やはり、死刑判決が出るのだろうか。 私は裁判員をやる事になったら、犯罪の内容、状況に関わらず全部「有罪」「死刑」で統一しようと考えている。 裁判員制度とは「納税者には個人的な見解で容疑者の量刑を判断する権利がある」という哲学に則っていると私は考えているのだが、私は犯罪の専門家でもなければ、他人を裁くほど高度な教育も受けていない。 私は自分の胃腸の具合すらまともに判断できないのだから、裁判の内容を聞いたところで、その事件がどういった事件で、何が妥当かなどという難しい事は判断できない。 であれば、「もしかすると凶悪犯罪者かもしれない人間」を野に放って、後ろ指をさされたり、報復されたりするよりは、あとくされを残さないように全員死刑で良い。 不公平感がなくてよい。 冤罪がどうとか言う考えを持つ国民もいるようだが、我々納税者が有罪だといっているのに、この民主主義国家の日本国で、こと国内において、納税者の下した判断以上に権威のある真実など存在するわけがない。 力量不足の公務員が審議を誤り、冤罪事件を起こすのと、納税者自身が裁判に参加して異なった判断を下すのとではわけが違う。 裁判員制度が始まった後に起きる冤罪事件も有るだろうが、それは冤罪ではなくむしろ「プロパガンタ」に近い現象であり、納税者にとって都合の悪い事実を後からでっち上げた者が出てきたという考え方が妥当であろう。 もし私がそれで何かの弾みに死刑になった場合は、裁判員制度と日本国をたたえる詩を、独房の壁に書き残して、出来るだけ潔く死にたいと思う。 また、裁判員制度にまつわる「空気による支配」はこれは完全に認められない。 他の裁判員がどんな顔をしていようが、どんな空気が法廷に漂おうが、断固として「有罪」かつ「死刑」である。 いっぱしの成人が、場の雰囲気に流されて求められている主張も行えないとしたら、何たる情けないことか。 「誰かがそうするから、私もそうする」といった、「連れション」的な裁判に突き合わされるとしたら、被告人も原告も良い面の皮だ。 それぐらいならば、今すぐ裁判員として選ばれる事のないように、今から準備しておいた方が国のためである。 それでも、空気を読んで「光市母子惨殺事件」という書き方をするマスメディアよりは幾分かマシかも知れない。 |
empro は OhmyNews 編集部発の実験メディアプロジェクトです |