聖火リレーは、オリンピック祭典の前哨イベントでもある。五輪憲章の最も優れた1文は、「オリンピックは参加することに意義がある」との1節であり、それは何も選手や競技種目に限ったことではなく、大会の運営にかかわるすべての参加者を対象に言われたことで、聖火リレーもそのひとつである。
聖火は守るのは誰だ?(写真はイメージ、ロイター) そうした意義と意味をないがしろにして、警護のための判走者をかくのごとく大人数で取り囲んで走るのでは、まったくの本末転倒なのだ。平和の祭典を成功させるのは、必要最小限度の警備でよく、過剰な警護は無用な反感と嫌悪そして無謀な妨害を招くものなのである。 つまり聖火の火はランナーが守るのであって、それが五輪参加への気概と自尊心とも言えるのだ。そうでなければ自分を自分で守られなくなる。 聖火リレーに合わせる追悼法要のなぜ? さて中国政府を支持したり、擁護したりするものではないが、なぜ26日の五輪聖火リレー開催に合わせて、チベット騒乱犠牲者の追悼法要を営むのであろうか? 聞けば13日に、市民団体がチベットでの死者を悼み、善光寺境内でろうそくをともし、僧侶たちもこの行事に参加して読経したとある。 確かに表向きは、同じ仏教徒として犠牲者を悼む法要なのであろうが、この時期に他国の民族問題を加担するような行為ととらえられれば、深刻な対日問題に発展しかねない。 過日善光寺が聖火会場を辞退した理由は、聖火を妨害しようとする危険性に憂慮し、参拝客や善光寺施設への安全が脅かされることにあったはずだ。わざわざ開催当日に焦点を合わせて法要をすることは、中国への抗議を意図しているととらえられ、善光寺そのものがターゲットになろう。そうなれば先の辞退理由とは矛盾し、一層の危害は避けられずに格好の標的とされるのだ。 もし善光寺が、積極的にチベット問題を提唱するのであれば、当初の予定を回避することなく泰然自若と受け入れ、それこそが仏僧のとるべき道ではなかったのか。 そんな最中に、何者かによるペイント騒ぎが起きた。確かに、こんな世相であるから、面白半分や単なる心無いもののいたずらとか、中国支持者の仕業とも言われているが、案外善光寺の自作自演と勘ぐられても仕方あるまい。 何せ、件(くだん)の「市民団体」がつまびらかでなく、法要当日には「チベット犠牲者追悼法要」との横断幕を掲げ、一大イベントを挙行する以上厳重な警備が必要となり、ペイント騒ぎに乗じた事前の警護をもくろんだとも言えるのだ。
3点
あなたも評価に参加してみませんか? 市民記者になると10点評価ができます!
※評価結果は定期的に反映されます。
|
empro は OhmyNews 編集部発の実験メディアプロジェクトです |