韓国の歴史教科書
[1、歴史を道具に使用すること]
アメリカの歴史学者で、マサチューセッツ工科大学 ( M I T ) 教授、ジョン、ダワーに依れば、
注意すべきことは 歴史とは何かよりも、人々が歴史をどう 政治的に 使うかだ。と述べています。中国や韓国は国交開始以来何十年間も日本の侵略戦争や植民地支配の歴史を、日本人の贖罪意識を掻き立てる為の道具として最大限に利用し、外交戦略上優位に立ち経済的利益獲得を図ってきました。 そして1980年代には戦術を更にエスカレートし、教科書の記述の内容にまでも口を出し訂正を要求するようになりました。 残念なことに日本は教科書の記述に関して韓国や中国から抗議を受けると、国家主権に 対する明らかな侵害であるにもかかわらず、それを断固拒否するどころか直ぐにお詫びをしたり、教科書の編集に際しては「近隣諸国の人々の感情に配慮する」旨の規則をわざわざ設ける、という愚かな行為をしました。つまり事実関係の有無はさておき、歴史の解釈を彼等と同じにせよということなのです。 その結果中学校の教科書にまで従軍慰安婦のことが記載される事態になりましたが、援助交際をする女子中学生や高校生が増えたのは、 そのせいではないか(?)と思う次第です。 独立国とは到底思えない日本政府や外務省の事なかれ主義や無責任な対応に疑問を感じてい ましたが、 それでは相手の国の教科書には、歴史が正しく記述されているのでしょうか?。入門韓国の歴史「 国定韓国中学校、国史教科書 ( 1996年制定 )」の日本語訳 ( 明石書店 )を読んでみました。 その結果分かったのは以下の事柄でしたが、皆さんも一緒に考えてみて下さい。
[2、反日思想の刷り込み]韓国の国定、歴史教科書についての編集方針をひとことで言えば、民族主義や愛国心を育成する為なら、そして反日教育の為なら、どんな ウソ をつくことも許されるとする考え方や、歪曲した愛国心でした。なぜ学校で歴史を学ばせるのかの一つの答えは、自虐史観とは逆に、生徒に愛国心を植え付け育てるためです。朝鮮(半島の国)が昔から如何にすばらしい国であり、日帝(日本の帝国主義者、つまり日本人の意味)がそれを如何にダメにしたのか、それに対して人々がどれほど抵抗してきたかが、針小棒大に ウソ を交えて書いてありました。 動物行動学では本能とは別に、 In-Printing ( 刷り込み )という言葉があります。皆さんがお馴染みの カル鴨の例を挙げると子ガモが母鴨の後を常に追うのは、孵化後の十二時間以内に身近にいた動くものを親として頭脳に刷り込み、その後を追うという習性からです。動くものならば親でなくても、玩具でも後を追うようになります。「 刷り込み 」 は生まれてから一定の時間内におこなうことが必要で、それを過ぎると困難になります。韓国の生徒はまさに国定の歴史教科書により、子供の頃から歪曲された歴史観と愛国心で、反日思想の「刷り込み」をされていました。 それでは具体的に何を刷り込んでいるのか、数え切れないほどの ウソ や事実の歪曲の中から、以下の実例を選んでみました。なお頁とあるのは「入門韓国の歴史」、韓国中学校、国史教科書の日本語訳本の頁を示します。 [3、皇紀の韓国版、古代朝鮮の建国年代について][なんでも韓国が一番と教え込む]現在七十才以上の方であれば皇紀という言葉をご存じのはずですが、知らない方は ここをクリックして下さい。韓国の歴史教科書の記述によれば、
満州遼寧 ( りょうねい ) 地方と韓半島 ( 朝鮮半島のこと ) 西北地方に、君長が治めるたくさんの部族が現れた。檀君 ( だんくん ) はこうした部族を統合して古朝鮮を建国した。檀君王倹の古朝鮮建国(紀元前2,333年)に関しては、三国遺事にその内容が記されている。(32頁)と書いてありました。そこで 三国遺事とは何か、日本の大辞林という辞書で調べてみると、 朝鮮の史書で高麗 ( こうらい ) の僧、一然( 1206〜1289年 )の撰( 編集したもの )。三国史記に漏れた新羅、百済、高句麗の遺聞を集める仏教関係の記述が多い。とありました。参考までに「 三国史記 」とは朝鮮半島における最古の歴史書のことで、高麗の金富軾が1,145年に編纂したものでした。つまりここで重要な点は 古事記、日本書紀ができてから 四百年後に、韓国最古の歴史書ができたという事実です。後で触れますから、このことを記憶しておいてください。 僧の一然が生きた時代とは日本でいえば鎌倉時代後期に相当します。その時代に書かれた本に、それよりも三千五百年も昔の檀君王倹のことが書いてあるから、それを古代朝鮮建国の根拠にして、我が民族は五千年以上 の輝かしい歴史を展開している(17頁)と教科書に書き、教えていたのでした。 中国の歴史家、司馬遷が紀元前91年に書いた史記によれば、中国で最も古い まぼろしの王国である夏( か )は、紀元前二十一世紀から前十六世紀に存在したとされますが、伝承のみに頼る先史時代のことなのでその存在は確認できません。しかし韓国は中国よりも建国が古いと、自国の歴史(?)の古さをねつ造して自慢にしたいのです。ここで前に読んだことを思い出してください、韓国の最古の歴史書は日本の古事記、日本書紀よりも四百年後にできたことを。 中国の殷(いん)の廃墟から発掘された甲骨(こうこつ)文字を刻んだ亀甲(きっこう)や獣骨の存在から、紀元前十四世紀〜前十一世紀に文字を持つ殷(いん)の国が存在が判明しましたが、それよりも古くから国が存在したとする韓国では古代朝鮮の歴史をどのような文字で書き、何に記録したというのでしょうか?。もちろん何の根拠もない 大ウソに決まっています 敗戦になるまで日本の歴史教科書は全て皇紀の年号で書かれ、歴史と神話を混同して教えていましたが、戦後の教育では両者を明確に区別するようになりました。しかし韓国の歴史教科書では、依然として檀君神話が真実の歴史として今も扱われ健在なのです。つまり歴史を扱う方法が日本よりも、六十年近く遅れている証拠です。 そればかりではありません、檀君が建国した(?)紀元前 2,333年を元年とする檀君紀年が、韓国独立から昭和三十六年(1961年)まで実際に韓国で使用されていました。紀元前 2,333年 当時は、前述のように中国でさえも未だ歴史を記録する文字がありませんでしたが、その時代のことを韓国ではどのように記録し、檀君紀年を算定したのでしょうか?。もちろんデタラメに決まっています。
注:) 我が民族史も日帝の植民地統治を合理化するために変造された。とりわけ民族史の根源とも言うべき古代史の歪曲が最もひどく、檀君朝鮮は否定され−−−−。とあるように、いまだに五千年前(?)の檀君神話を、建国の歴史の根拠にすることに懸命でした。
[4、民族の抹殺]日帝はわが民族と、民族文化を抹殺する政策を実施した(162頁)とありましたが韓国の生徒がこれを読めば、あたかも ナチス・ドイツが六百万人の ユダヤ人を抹殺した如く、日本が朝鮮民族を抹殺しようとしたと思うはずです。日本人からみれば明らかなウソが堂々と記述されていました。恐らく強制連行や従軍慰安婦のことを念頭にしたと思われますが、朝鮮半島住民を抹殺する意図など全くなかったことは、日韓併合以来、日本がもたらした文明開化、人口増加の事実や、インフラの整備、植民地住民に世界でも希な義務教育を含む教育を施し、大学教育の機会まで与えた教育制度を見れば明らかでした。
[5、元寇について]元寇(げんこう)の寇(こう)とは、仇 ( あだ )という意味です。元寇について知らない若い人もいるので説明しますと、中国大陸を征服した チンギス・ハン ( ジンギス・カン ) の孫に当たる元 ( げん ) の皇帝 フビライ が、大都 ( 北京 ) に都を定め日本に入貢 ( にゅうこう )、つまり外交使節が貢ぎ物を持ってご機嫌伺いに来ること、を求めて拒否されると、日本侵略を計画しました。鎌倉時代の文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)に高麗 ( こうらい、朝鮮 ) と連合して日本を侵略し、壱岐、対馬の島民を虐殺し、九州の博多に上陸しましたが日本側の奮戦に遭い、台風が襲ったこともあって撤退しました。韓国の教科書によれば、
高麗は元 ( げん ) と講和を結び、開京へ還都したが、すぐ新しい試練にぶつかることとなった。元は日本を征伐するために軍艦の建造、兵糧の供給、兵士の動員を高麗に強要した。こうして二次にわたる高麗・元(げん)連合軍の日本遠征が断行されたが、すべて失敗した。(138頁)この国定教科書では日帝の侵略という語を、これでもか、これでもかと頻繁に使用しておきながら、元寇については自国 ( 高麗 )が日本を侵略した事実を隠ぺいするために、意図的に侵略という言葉を使用しませんでした。しかも韓国の歴史教科書であるにもかかわらず、自国に都合が悪い箇所では元を主語にして記述するという、ごまかしの手法を採っていました。 この教科書が意図するところは、あくまでも元に強要されて、つまり自らの意志に反して日本を攻めさせられた、いわば戦争に協力させられた被害者の立場であって、侵略者ではないと暗に主張しているのです。しかしそれは、全くのデタラメであることを次項で立証します。 さらに征伐という言葉は、悪者を攻め平らげるという意味です。かつて韓国は日本の教科書の記述にあった豊臣秀吉の朝鮮征伐に対して、征伐という言葉を使うのはけしからんと日本に抗議をしました。しかし自国の日本に対する侵略を今も公然と征伐と表現し、教科書で使用しているのです。
[6、高麗が日本侵略に積極的に荷担した証拠]高麗国王 元宗 、( 在位1260〜1274年 ) に 世継ぎの子のェ ( しん、後の忠烈王 )がいましたが、ェ ( しん ) は元 ( げん、モンゴル人の帝国 )の皇帝 フビライ ( 1215〜1294年 ) の下で長く元に住み、フビライの娘と結婚して高麗に帰国し、即位して忠烈王 ( 1236〜1308年 )となりました。忠烈の名前は元から貰ったもので、忠とは元に対する忠誠を尽くす意味ですが、元寇当時の高麗の国王は、忠烈王であったことを覚えておいて下さい。(1)、高麗の歴史書の記述 高麗史の元宗十三年(1272年)三月の条 ( 元寇における、文永の役の二年前 )の記述によれば、世子のェ ( しん、後の忠烈王 )が フビライ に述べた言葉として、
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