光市母子殺害事件と死刑廃止論

 

個人的なことを言うと私は死刑廃止論者ではない。だが、この事件で死刑を求める“国民運動”には違和感を超えて恐怖さえ覚える。日本中で起こっている(犯人を)殺せ殺せの大合唱は戦慄以外のものではない。20日の本村洋氏の意見陳述も、「死ね」という以外のメッセージは何もなく、同情はするが共感はしない。

 

光市の事件に死刑は重い

 繰り返すが私は死刑廃止論者ではない。麻原なんかさっさと首絞めたらいいと思っている。だが、光市の事件に関しては死刑は重すぎるように思えてならない。犯人が少年だからだ。私は少年に対する死刑には原則反対だ。理由は日本では18歳になっても選挙権がないから。選挙権もないのに、義務だけあるのは気に入らない。年金の掛け金を何千万も横領している公務員がなんのお咎めもない一方で、いくら重大犯罪人だといっても子供を死刑にするのは私の「正義感」には合わない。もちろん、だからといって何をしてもいい訳ではないが、国が死刑という形で犯す殺人には、熟慮が必要だと思うのである。最低でも永山基準くらいをラインにしてほしいものだ。永山事件の死者は4人。対してこの事件は1.5人だ(まったくの個人的意見だが赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまうので「傷害致死」の可能性は捨てきれないと思っている。ひとつが傷害致死の場合「殺人」の数は1。殺意があったなら2。どちらと信じる理由もないのでここでは1.5としておく)。一審、二審の判断は、相場から言えば妥当なところではなかったろうか。

 

弁護団をカルト視する日本の大衆

光市の弁護団批判でよく言われることの一つに「弁護団は死刑廃止の道具としてこの事件を利用している」という主張がある。だが、今回の弁護団は事実関係で争っており、このことと彼らが死刑廃止論者であることは分けて考えるべきであろう。実際弁護団の主張は必ずしも荒唐無稽のものではないし、あとで述べるように主張を「翻した」という批判もあたらない。死刑廃止論者ではない私にも、弁護団の主張とストラテジーは理解可能である。 

 ところで、日本では「死刑廃止論者」は少数派で、場合によっては宗教団体のように見るむきもある。だが、世界では、特に先進国といわれる国々では、死刑廃止のほうがメジャーである。多くの人が言っていることが正しいとは限らないが、これだけ世界の潮流が死刑廃止論を支持しているということは重く考えたほうがいい。少なくとも、「死刑廃止論者の言うことはなにからなにまで欺瞞なのだ」みたいな思考停止は、先進国人というより中国人に近いということは認識しておいたほうがよい。主張は誰が言ったかではなく、つねに内容を吟味して評価すべきなのだ。

 

橋下の扇動

今回最も違和感があるのは、ワイドショーを通じた弁護士の扇動である。この弁護士、テレビを通じて弁護人の懲戒請求を出すように視聴者に求めたらしい。結果、今では、出力して署名さえすれば簡単に懲戒請求ができるウエブサイトまで登場し、“義憤に駆られた”視聴者が4000人くらいこれに応じている。もっともこの弁護士は、「何万、何十万という形で、あの21人の弁護士の懲戒請求を立ててもらいたい。(弁護士会は)2件3件(の懲戒請求が)来たって大あわてになる。1万、2万とか10万人くらい、この番組を見ている人が一斉に弁護士会に行って懲戒請求をかけてくださったら(後略)」と、10万人を目標にして扇動しているのに、わずか数千人しか応じなかったのだから日本人もあながち捨てたものではない。

 

橋下の理屈(?)

  この弁護士の主張は、@「弁護団は、1、2審では争わなかった犯行態様について、差し戻し審で新しい主張を始めた。しかし、主張を変えた理由を遺族や社会に説明してない」A「十分な説明をしない弁護団に対し、世間は『『刑事弁護なら何をやってもいいのか』と憤っている。」だそうだが、そもそも論として、弁護団は別に主張を翻していない。現在の弁護団は最高裁以降だから、翻すもなにも前には弁護をしていないのである。

加えて言えば、刑事裁判の弁護士がもっぱら被告人の利益を考えるのは当たり前だ。弁護士は「被告の」「代理人」であるからだ。政治家じゃないんだから遺族や社会に対する説明責任などもちろんもともとない。(個人的には今回の弁護団は社会に対して説明はしていると感じているがそれはおいておく*)。要するに、この弁護士の主張は事実上「犯人を弁護することが気に入らない、検察と意見が合わないのが気に入らない」という程度のものに聞こえるのである。こんな程度のことをあれだけ熱をこめていえるのだからまあ芸人ではあるとでも褒めるべきか。

一般論でいえば、刑事裁判において被告の主張と検察側の主張が対立するのは当然で、だからこそ、裁判官が食べていけるのである。だから検察と意見が違うとか、結果として被害者感情を逆なでしているとかいうような理由で、弁護士に対して「懲戒請求」をするのは無理だという気がするのである。こんなのが通るくらいなら、「悪辣な犯人には弁護士はつけるな」あるいは「悪い犯人の弁護をするなら検察の味方をしろ」という話にすぐに行き着いてしまう。

最悪なのは、弁護士本人は「時間がもったいないから」というひどい理由で懲戒請求を実行してもいないこと。自分がやりもしないことを、よく事情を知りもしない(おそらくは大して法的知識もなく、思考力も限られている)ワイドショーの視聴者などに呼びかけるのは、やりすぎというかそれこそ品位にかける行いといわざるを得ない。被告人弁護士は、さしたる根拠もなく懲戒請求をした人間、一人一人を訴えたらいいと思う。実際、懲戒請求をした人が訴えられ、敗訴している事例もある。

 

     橋下弁護士に対する批判は江川紹子が極めて冷静、論理的に行っている。

     橋本弁護士の“懲戒請求”批判ではこのページの意見にも賛成だ。

     弁護団が裁判を「死刑廃止に利用している」という言い方についてはこのブログ「真に法廷を死刑制度闘争に利用しているのはどちらなのか」の視点が鋭い

*参考:今枝弁護士のページ

 

 

遺族感情と量刑

 刑事事件の場合、遺族感情が量刑に影響するのには違和感がある。遺族感情が激烈でテレビの前で泣き喚けば罪が重く、タネ馬として用済みになっちゃったそのへんのお父さんみたいに、殺せば家族から礼状が届くような場合なら罪が軽い・・なんて刑事としてはおかしくないか?民事なら別だ。民事なら価値の高い人を(交通事故とかで)殺せばそれだけ賠償額も大きくなる(専業主婦なら安くて済む、本当)。が、刑事の場合は、家族なんかあってもなくても、一人を殺したら同じ刑にすべきではないのか。このあたりはこちらのブログ→「やっぱり本村氏の発言には共感できないと同意見である。

 

日本の殺人事件とメディア

 犯罪白書によると日本における殺人事件の被害者は年間約7百人程度である(もちろん傷害致死や事故死は含まず)。実に一日に2人は殺人で死んでいる。これだけ殺人が多いにもかかわらず、死刑判決を受ける犯人は毎年一桁である。つまり、日本で人を殺して死刑になる確率はわずかに数パーセントだということだ。

光市事件の犯人が運悪くこのロシアンルーレットに当たってしまったのは、ひとえにマスコミのおかげでだろう。一日に2人も殺されているのに、8年も前の事件を今でもセンセーショナルに伝えている。このアンバランスは、実際にはリスクの高いベンゼンを問題視せずに、ほとんどリスクのないBSEなんかをツマミ上げて消費者を扇動するセンスとそっくりである(単に新しい事件を取材するより、同じものを反芻したほうが取材費用が安いからかもしれないが)。100歩ゆずって、一般衆愚がテレビに流されるのはやむをえないとしても、それなりに教育を受けているであろう法曹界の人間が、マスメディアに簡単に迎合するのはいかがなものかと思う。

 

死刑廃止論VS死刑存続論

 死刑廃止論と死刑存続論の対立は、日本にだけあるのではなく、死刑を順次廃止してきた欧州でも、その前には散々議論も研究もされてきた。今回の事件で死刑を支持する人の意見は「(被害者の家族が)か〜わいそ〜でか〜わいそ〜で」といった感傷的なものが多い。だが、被害者が可哀想だからという理由では直ちに死刑にはならない(逆に死んでも可哀想じゃないようなやつを殺してもいいわけじゃあない)。死刑は被害者に代わって国が復讐を行うという復讐代行システムではないからだ。このことが理解できる人々の死刑論争は、「死刑に犯罪抑止力があるかないか」の一点をめぐって繰り広げられるのが普通である。では死刑には重大犯罪の抑止力があるのか? 

アメリカでは死刑のある州とない州を比較したり、死刑を廃止した国では廃止後の犯罪率を観察したりと、研究者は様々な方法で「抑止力」を検出しようとしている。で、死刑には抑止力があるのかないのかというと、Yes No. 「ある」という研究と「ない」という研究の両方があって、白黒はっきりしないのである。この事実は、引き分けを意味するのではなく、死刑廃止論者に有利だろうと思われる。仮に抑止力がはっきりあったとしても、死刑という残虐刑が支持されるとは限らないのに、抑止力があるかないかもわからない状態で国が殺人を犯す理由を説明するのは難しい。

ちなみに、死刑に「抑止力がある」という議論はよく見ると「あるはずだ」という議論であることがある。つまり、「犯罪のコストが高くなれば、思いとどまる人が多いはずだ」という、行動経済学以前の経済理論をまっすぐあてはめたようなものが多いのだ。この手の議論はしばしばgarbage ingarbage out であるので注意が必要だ。ちなみに「ヤバ経」の著者で知られる経済学者S.レビットは、実証的研究から(死刑ではなく)「中絶の合法化」が犯罪削減に最も効果があったと結論付けている。これは、すなわち殺人という犯罪と、(親が中絶を考えるような)複雑な家庭環境にはっきり因果関係があることを意味している。この研究は、不幸な家庭環境に手を差し伸べもせずに、厳罰化ばかり進めることの批判にもなっていると受け取るべきだろう。

 

死刑と冤罪の可能性について

最近、アメリカで死刑廃止論議が盛り上がっているようだ。理由は、科学捜査が進んだおかげで、死刑囚のなかで無罪になる人が出てきているためである。死刑囚が無罪・・いや無実の罪で死刑。これほどの戦慄はない。実は死刑廃止論のなかの有力な議論に「冤罪があるから」というものがある。これに対して、死刑を支持する人は「冤罪はなくせばよい」などと反論するが、この反論は稚拙だと思っている。「冤罪」は「交通事故死のリスク」と同じで、あってはならないが、残念ながらなくなることもないだろう。このことを前提として死刑の是非は論じられるべきなのである。ちなみに私は、冤罪はなくならないが、だからといって死刑を廃止する必要はないと思っている。運悪く無実の罪で死刑になるのも人生のリスクというものだ。

 ところで、冤罪を避ける努力は「死刑があるから」するものではない。死刑なんかあってもなくても冤罪はあってはならないのである。だからこそ三審制まで整備して慎重の上にも慎重に裁判を進めているわけで、「冤罪はなくせばいい」といってなくなるものなら、これまでだってとっくになくなっているだろう。人間の判断に零リスクを求めた上で議論を積み上げるのは、前近代的なおめでたい頭の構造といわざるを得ない。

 ところで、アメリカでは冤罪はあるが日本ではありえないなどと根拠なく信じている人がいたりする。だが、アメリカのほうが、証拠の保存などについて日本よりかなり進んでいる。システムだけを見れば、密室で取調べをして証拠の保存もずさんな日本のほうが冤罪の巣になりそうだ。

 

 

死刑をするなら公開でしてくれ

 ところで、死刑に抑止力があるとすると、その抑止力は、死刑執行が現実感を持っていればいるほど大きく働くと予想される。密室で執行されたのでは、「死」の恐怖が一般人に伝わらない。恐怖が伝わらなければ、抑止力は小さくなるだろう。私はいつも、小さいことで「死んだほうがマシ」と考えるような人間だが、それは「死」の恐怖をあまり実感してない証拠だと自覚している。

抑止力を引き出したいなら死刑は公開で行うべきだ。日比谷公園あたりに公開処刑場を作って、執行現場を誰でも自由に見学できるようにしたらいいかと思う。執行一週間前には、特別席の前売り券を発売してほしい。売り上げは死刑囚の墓碑の購入にでもあてたらよかろう。

執行の瞬間はテレビでも放映して、犯罪予備軍たる子供たちの心に深い傷と恐怖を植えつけておくといい。人権侵害とか言う人もいるかもしれないが、実際死刑執行以上の人権侵害はないのだから、小さい心配だ。激烈な感情をもつ遺族にボタンを押す権利を与えてもよろしいかと思う。夏の夜なんかに、日比谷公園で絞首刑の執行。そのぶら下がった屍骸の前で、稲川順二の怖い話ライブなんて結構いいかもしれない。

残酷?もちろん残酷だ。だが、密室のなかで突然執行される残酷より残酷なわけじゃない。死刑廃止反対のくせにこの手の残酷に眉をひそめるような人間には違和感がある。自分でとった魚は人道的にリリースするがお店で売っている魚なら食べても平気、あるいは仔犬を飼って「命の大切さを子供に教える」とか言いながら、日曜日に焼肉を食ってる家族みたいだ。「こち亀」の両さんの表現を借りるなら「動物保護団体の人間が寄り集まってビフテキを食っているような違和感」ってことになるだろう。

というわけで、公開処刑、是非検討してもらいたいものだ。

 

 

2007/09/21

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追記 (2007/12/19)

 

上記の、「被告の弁護人に対する懲戒請求」は東京弁護士会が却下しました。弁護士が被告の味方するが当然である以上、当然でしょう。笑えるのは、大学教授ら342人が橋下の懲戒請求を大阪弁護士会に提出したことです。これも、当然でしょうね。法曹界の権威の失墜を招いたんですから(笑)。提出が大阪知事選の前であるので橋下は「自分に対する挑戦だ」なんていきまいてたらしいですが大笑い。挑戦されるほどの人物じゃあないじゃないですか。挑戦じゃなくて、ごみ掃除だよ。ボランティアの。


でも、大丈夫ですよ、橋下さん。大阪府知事なんかエロノックだって務まったくらいですから誰でもかまいません。ま、人間の廃物利用ってところでちょうどいいじゃないですか。

 

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元少年に死刑判決 (2008/04/23追記)

 

 22日、広島高裁で、光市事件の差し戻し控訴審があり、元少年に死刑が言い渡された。判決自体は、最高裁で差し戻された段階で予想できたことで特に驚きはないが、「歴史的な判決」になったことは間違いない。

 

なにが歴史的か?被害者家族の本村氏の言葉が端的に示している。「報われた」。そう、西暦20080423日は、

日本の刑事裁判が遺族の「報復の手段になった」

歴史的な日なのである。

 

新聞の報道もこんな感じだった。「被害者の勝利」(朝鮮日報)。

 

これまでの刑事裁判は、「被害者VS加害者」の場ではなかった。だがこの事件以降、この対立構図が出現し、国は復讐代行業になった感じだ。

 

およそこの事件をきっかけに起こった議論のうち、国が死刑を実施する意味について−たとえば抑止力などについて、実証研究の提案も含めて実のある議論は一切なされなかった。飽きるほど繰り返されたのはこの手の議論で最も稚拙なもの「あなたの家族が殺されたらどうするの」だけだったーー;これまさに刑事に報復を求める議論。今に至ってまだその程度の国民ということだ。

 

今回の判断は明らかに永山基準を逸脱している。永山基準で示されたものは、一つを除いてほとんど重視されていない。重視されたのはなにか。遺族感情である。殺人の被害者の遺族が悲痛な思いを抱くのは当たり前。だが、今回はとくにこれが重視されている。なぜか?マスコミが前代未聞の大騒ぎをしたからだ(この件については、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が「きわめて感情的」という異例の意見書を発表したことでも分かる)。つまり事実上、マスコミが量刑を決めたのである。

 

差し戻した最高裁の判事の妻は、おそらく専業主婦で、TVばっかり見ていたため洗脳され、夫の仕事にも影響したのだろう(判事の判断は、思いのほか被告の外見とか、外野のヤジとかにかなり影響される、という実証研究がある)。

 

ただ、この判断が、来るべき裁判員制度の死刑に対する判断基準を示したことになるかどうかは微妙。同じようにマスコミが大騒ぎしない限り参照されることはないのでは?と思うのだ。マスコミだって同じようなネタでは飽きられるから、一年にせいぜい一つか二つしか繰り返し報道の対象にはしないだろう。殺人事件は年間700件。とても取り上げられない。今回はお祭りであり例外であった、ということになるのではないかと予想している。3つの死は多分無駄になる。

 

いずれにしても、元少年が殺されれば、報復が果せた遺族はさっぱり幸せな思いに浸るに違いない。自分の血を吸った蚊をパチンとたたき殺したときみたいにね。それだけは喜んであげたい。

 

 → 大人限定の宿