2008.04.24

《冬眠熊のむずがり》芦原英幸は生涯の恩人であり人生の夢でした…

「私にとって芦原英幸は生涯の恩人であり人生の夢です」


この言葉を私は過去、何度公言し、文章にしてきたことでしょうか?
しかし多分、もう2度と「公」では言わないし書くことはないでしょう。組織や人間関係のしがらみのなかで、この言葉は時に誤解を与え、意外なところから反発を買ってきたようです。私はもう、組織の問題に口出すのはうんざりです。私は芦原英幸を尊敬してきましたが、それは私の胸の内に仕舞い込んでおけばいいことです。私の思いと現在の芦原会館という組織とは全く別のものです。
しかし、この芦原英幸に対する私の思いは微塵も揺らいでいません。


芦原英幸という人間の存在があったからこそ、私はこの世界で約30年間も生きてきました。芦原英幸が私に語った無数の言葉は私にとって生きる指針になりました。たしかに毀誉褒貶が激しかった人でした。敵も極めて多かった人です。でも、私にとっては芦原英幸こそが「社会人」としての教師であり、最期まで私を守ってくれました。
1980年代前半から91年頃、病に倒れるまでの約10年間、芦原英幸が上京すると必ず私は彼の元に赴き、彼からいっときも離れませんでした。
私は1度も芦原会館に入門したことはありません。しかし、時には松山本部道場で、時には東京本部道場で、稽古に参加させていただいたり、当時東京本部の責任者だった吉田さんとともに芦原英幸の「本物のサバキ」を見せられ、また教えられたものでした。
「ホンマのサバキはなあ、こうやるんよ。回し崩しも入り身も、ただ崩すだけじゃ倒れんのよ。芦原はこうやるんよ」
「実戦じゃなあ、相手の目を潰すんよ。一瞬でも相手の目をバチーンて塞げば、もうこっちのコントロールするまんま、こうして後頭部からストンッと落ちるんです。首を捻る。これがサバキのホンマの技術じゃけん」
「昔、芦原道場の頃は、こうやって教えてたんよ。道場の稽古でも。カンヌキを使ったりもしたけん。けど、それやっとったら怪我人が出て大変なんよ。生徒がどんどん辞めてしまうんよ。それで稽古では無理せんようタイミングで捌くように教えていったんよ」
「芦原のホンマのサバキは凄いでっせえ! 一瞬で相手を殺せる。これは門外不出の技じゃけん。小島、あんまりメモとっちゃいけんよ」
ある時、芦原英幸が左右どちらでもいいから回し蹴りを蹴ってこいといいました。
「いま、奇跡を見せちゃるけえ、中段でも上段でも好きに蹴ってこいや。前蹴りでもローでもパンチでもいいけん、まずは好きなように回し蹴り出してきてみい」
私が左上段回し蹴りを蹴ると、芦原先生は簡単にスウェーバックでかわすと、ニヤニヤ笑いがらいいました。「オマエ今も東のとこで稽古してんやろ。本気で当ててこいや」
そこで私はステップから今度は左の中段回し蹴りを放ちました。その一瞬後、私は約2m近く吹き飛ばされました。続いて「今度は好きなように攻めてこいや」と、相変わらず笑いながらいいました。恐怖で引きつりながらも、私は左前蹴りから足刀にチェンジさせる蹴りで誘って右のローキックを放とうとしました。ところが足刀が伸びたと思った直後、目の前に芦原先生の掌(掌底ではありません)が飛んできて痛いと思うと同時に目の前が真っ暗になりました。…っと私は真後ろに引きずり倒された、というより後頭部から真っ逆様に倒されたのです。かろうじて、柔道の経験が生きたのか最低限の受け身を取りました。
あの時、東京支部長の吉田さんもいたはずです。私は何があったのかさっぱり分かりませんでした。吉田さんもよく理解できていない様子でした。投げられた痛みよりもやたらと首が痛かった記憶があります。
その後、吉田さんも何度か組手に挑み、殆ど最初の1発か2発で芦原先生に弄ばれ、頭から倒されました。
「練習」の後、芦原英幸は笑いながら言いました。
「これが裏のサバキなんよ」


まだ二宮城光さんが芦原会館を離れる前のことです。二宮さんは帰国すると、後援してくれる飯田橋の五洋建設に必ず挨拶に行きました。それを待って私は何度となく二宮さんと話をしたものです。
ちなみに二宮さんが芦原先生の元を離れる離れないと揉めていた頃、私は芦原先生の依頼で何度もデンバーに電話をし、東京では新橋で数度会っては説得しました。結局、二宮さんが芦原会館を離れたのは金銭問題であり、少なくとも私は二宮さんに全面的な罪があると思っています。
いずれにせよ、二宮さんは私によく言ったものです。
「極真ルールは試合ですが、実戦で(芦原)館長と組手して、1度も勝てたことはありません。2手か3手で捌かれておしまいです。どうしても館長のサバキのレベルまでは到達できないんです。1つのサバキを覚えていくと館長はその先にいる。一生勝てないですね」
似たような話しは二宮さんと並んで芦原道場時代の最古参、中元憲義さんも言っていました。


芦原英幸が逝って既に13年が経ちます(4月25日)。いま、芦原英幸の技を使いこなせる人は何人いるのでしょうか…。
繰り返します。
私は芦原会館の人間であったことは1度もありません。しかし、前述したような「練習擬き」に付き合わされたり、技術ビデオの撮影のために連日講談社地下のスタジオに詰めたり、審査会に同行させていただいたり…。
芦原英幸が自ら言った「裏のサバキ」または回し崩し(巻き込み投げ)や入り身(裏投げ)などの「本来のサバキ」を体験させていただいた数少ない人間の1人だと自負しています。
空手家としての芦原英幸の「魂」は、その技術こそにあるのです。私は、柔道も極真空手もみな中途半端で、道場の末席の末席を汚してきただけの人間ですが、私はもう2度と「生涯の恩人は芦原英幸であり、私の人生の夢だった」と公言しない代わりに、私自身が芦原英幸から学び、体験した技術を生涯賭けて研究し追究していこうと思っています。


某会は先頃、新たに再編成しました。もう口だけで格技のイロハも知らない会員は制裁・排除しました。まだ複数の会員参加予定者がいますが、みな極真空手系の黒帯です。
また、近々中京・京阪地区に某会の「支部・支局」を設立する予定です。私が「兄弟頭」と尊び、私も塚本も最も信頼する「任侠」に生きる人物(稼業者ではありません、少なくとも表看板は立派な事業家です)に、今後は西日本の某会の発展を一任することにしました。「長」となる某氏は、松井章圭を崇拝しながらも、松井館長に劣らぬ度胸と肝っ玉が座った本物の「漢」です。私自身、彼の生き様には常に頭が下がる思いをしています。勿論、極真会館の有段者です。
「小島一志」は業界の嫌われ者ですが、「小島を熱烈に支持する約3万人のファン」の中から、私たちと共有する思いの人がいたら会員として受け入れ、某会のさらなる飛躍を期待しています(何も空手・格技の実践者である必要はありません。私そして某会を心底から支持する人ならば文治派会員として活躍してもらいますから)。
いずれにせよ某会の殆どは極真会館の黒帯または上級者です(日本拳法師範やボクシング経験者もいますが)。選手としては引退し、所謂極真OBながら、みな今も強烈な組手をするツワモノばかりです。私たちは決して「格技愛好団体」ではありませんが、目的の為の研鑽は怠りません。
5月からは極真空手をベースにしながらも、柔術と芦原英幸直伝の生きたサバキまたは裏サバキを研究していく予定です。


某会の稽古会が息子が主宰する立教極真会館同好会との交流を第1にしているのは事実です。ただ、立教極真会館同好会はあくまで極真会館の稽古が主であるのは当然であり、勿論、某会の稽古とは一線を画しています。しかし極真スタイルによる「受け返し」や「コンビネーション」「スパーリング」などは、某会の黒帯(極真会館OB)が指導することも少なくありません。特に黒帯を允許されている主将の息子以外、初心者・中級者ばかりの部員のなかにあって、息子の組手の相手をできるのは某会の人たちしかいません。息子と某会の方々のスパーリングはもはやガチンコの組手そのものです。息子はいい勉強をさせてもらっています。また他の部員に対しても某会の方々が親身に指導をしてくれます。
立教極真会館同好会は松井章圭館長と山田雅稔師範による協力あってこそのものであり、常に息子はじめ部員たちは彼らへの感謝を忘れてはいません。当然、立教同好会は「松井章圭を館長とする極真会館の下部団体」であり、全ては極真会館の意向のもとに活動しています。
ちなみに今度、郷田勇三最高顧問が特別指導に顔を出すと言ってくれました。流派は違いますが大山泰彦師範も「一緒に汗を流そう」と息子に声をかけて下さいました。正道会館との和解が現実的になれば、正道会館との交流もいずれ有り得るかもしれません。
しかし、立教極真会館同好会とは別に私が主宰する某会の稽古会(息子や立教同好会のメンバーも任意で参加します)では前述したように、極真空手の稽古をベースにしながらも芦原英幸直伝のサバキと柔術の稽古を重視していくつもりです。


芦原英幸が私に教えてくれた究極の必殺技「本物のサバキ」と「裏サバキ」の研究と追究を生涯かけて追い求め、精一杯少しでも芦原英幸の領域に近づくこと…今の私はそれこそが芦原先生への恩返しだと信じています。
そうでなければ芦原英幸のサバキは形骸化し、まさに合気道のように変貌し芦原英幸の「魂」が抜かれてしまうことを私たちは憂慮しています。いまはもう、組織云々の問題はどうでもいいことです。
ただ、某会の稽古に正道会館で学ぶ人たち(正道会館は試合を行っているので、組手の中でのサバキについては一日の長があると思います)や、「本家」を任じる芦原会館の人たちが(あくまで道場破りなどでなく、友好的交流を目的に)参加してくれるならば喜んで受け入れますし、互いに技術の交流が可能ならばそれに越したことはありません。
正道会館も、元は芦原英幸門下です。私たちも学ぶことがあると思っています。

samurai_mugen at 06:28 │clip!