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育ち直しの歌:少年院から/14限目 光市母子殺害事件=毛利甚八 (土曜文化)

 ◆光市母子殺害事件を考える

 ◇厳罰化では何も残らぬ

 今月22日、広島高裁で「光市母子殺害事件」の差し戻し控訴審の判決が下される予定だという。

 この事件は1999年4月、当時十八歳の、高校を卒業したばかりの男性が起こした少年事件だった。

 「育ち直しの歌」は少年院の矯正教育に焦点を当てるものだが、少年の更生をめぐる問題と「光市母子殺害事件」をめぐる厳罰化の流れは深くからみあっているので、この事件について考えてみたい。

 この事件は、少年(当時)が光市の共同住宅の一室に「排水管の点検をする」とウソをついて上がり込み、親切に招き入れてくれた女性と乳児を死なせてしまったものだ。

 二人の死という重大な結果から、少年は山口家庭裁判所で検察官送致(逆送)の決定を受けた。

 逆送とは、少年事件であっても公開の法廷で検察官が罪を証明し、刑事弁護人が少年の利益を守るために弁護するという攻防を行ったうえで、裁判官が「罪があったかどうか、どんな罪があったか」を確かめ(事実認定)、懲役や死刑など罰の選択(量刑判断)をするということだ。しかし、ルーキーの裁判官(未特例判事補)が多い家庭裁判所が、被害の重大な難しい事件を地裁の合議部に丸投げしている側面もある。少年法にもとづいた家裁ならではの包容力が、厳罰化の風にあおられて弱くなっているようだ。

 山口地方検察庁は少年を殺人・強姦致死・窃盗罪で起訴。山口地方裁判所は2000年3月に「無期懲役」の判決を下した。この判決を量刑不当(死刑にするべき)として検察官は広島高裁に控訴したが、広島高裁は控訴を認めなかった。数十年前に永山則夫という少年がピストルで四人を射殺して死刑になった前例などに照らせば、光市の事件は「無期懲役」でも軽い罰ではない、と考えたわけだ。これを前例主義と批判することもできるが、それぞれの事件の性質(たとえばマスコミで騒がれたかどうか)の違いによって死刑になったり無期懲役になったりする不公平よりはマシとする見方もある。

 広島高裁の控訴棄却に不満だった検察官はこの事件を最高裁判所に上告した。検察庁は1990年代に裁判所が甘くなっていることを危惧し、地裁・高裁で無期懲役となった事件を立て続けに上告するというアピールを行った過去があった。光市の事件は「死刑によって国家の威信を取り戻したい」検察の思惑とつながっているという。

 最高裁への上告とは、最高裁で事件そのものを審理するのではなく、地方・高等裁判所の裁判官の仕事に法理上の不手際がなかったかどうかを審理するものだといわれている。そして最高裁は「上告は適当でない」としながらも、「無期懲役判決」を「著しく正義に反する」として、広島高裁に裁判をやり直すよう命じた。

 今回の差し戻し控訴審とは、最高裁の「本当に死刑にできないのかどうか、もっとしっかり考えなさい」というプレッシャーを受けながら、広島高裁が「死刑か無期懲役か」を含めた量刑について判断を下すものである。

 一方で、最高裁の審理の途中から元少年の弁護を引き受けた新弁護人は、最高裁の審理に欠席したことや差し戻し控訴審で「元少年に殺意はなかった」「死体に対する姦淫は母胎回帰」などと主張したことに対して、激しいバッシングを受けた。

 そうした裁判の経緯や騒動とは別に、光市の事件はさまざまな教訓に満ちている。

 加害者の元少年は父親に虐待を受けて育っていたといわれる。母親は虐待を受けた末にうつ病になり、自殺している。対応すべき山口県の児童相談所の働きかけはあったのか。児童相談所の情報収集能力、予算、人材は十分にあったのか?

 逆送したために元少年は8年にわたって拘置所に留め置かれたまま裁判を受けてきた。その間に贖罪教育や労働訓練は行われなかった。少年院に送られていれば、少年はなんらかの精神的成長をみせただろう。被害者遺族に真摯な謝罪ができるような教育が行われなかった司法制度に問題はなかったのか?

 現在、法務省は被害者保護のためとして「少年審判を被害者等が傍聴できる」よう少年法を改正しようとしている。被害者保護と言いつつ、検察官は被害者と遺族の悲しみや無念を、裁判で加害者を責める武器に見立てようとしてはいないか?

 そもそも被害者と遺族が、加害者を死刑にしなければ無念が晴れないような状態に追い込んでいるのは誰か? 判決のはるか前に被害者や遺族の受けた傷が回復するように、経済援助や精神的ケアなどを行うのは国家が最優先すべき仕事ではないのか?

 「死刑か、無期懲役か」を語る前に考えなければならない多くの問題が顔をのぞかせている。

 なぜかメディアも国民も「もし被害者になったら」という仮定から始まり、国家や警察や検察は「自分と同じ正義の側に立っている」という観点に立ち、なんの疑問も持たず「加害者はまったくの他人」と考えて厳罰化になびいていくようだ。正義を語る口調が、どこか八つ当たりや嫉妬に似ているのが特徴だ。

 もし光市の事件に死刑判決が出て、多くの人の胸がスカッとしたとすれば、その後に残るものはいったい何だろうか? ただの忘却ではないのか? 

 死刑は金も知恵もいらない、国家と政治家にとってもっとも安上がりな事件の解決方法だ。テレビをながめる前に、加賀乙彦著『死刑囚の記録』(中公新書)、森達也著『死刑』(朝日出版社)を開いて欲しい。

 悲劇が起きるまでに積み重なった被告人の不幸をみつめ、教訓をつかみだし、同じような境遇の子どもを生みださないために、児童相談所・学校・地域などに欠けているものを補っていく。被害者の死に報いる、事件を風化させない道とは、未来に役立てるために悲劇をみつめ噛みしめる辛抱強さのなかにあるのだと思う。<絵・吉開寛二>

毎日新聞 2008年4月19日 西部朝刊

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