2008.04.19

《冬眠熊の鼾》大山倍達に関する日本1の大家に「系譜 大山倍達」を!

「大山倍達正伝」を出して以来、どうも私たちは大山倍達に関する大家と思われているようだ。よくメディア関係者から大山総裁についての取材を受ける。
私はともかく、たしかに塚本は日露戦争から大平洋戦争、そして戦後の日韓問題や朝鮮史については学者並み、否それ以上に詳しい。特に大山総裁の「師」であった曹寧柱氏について、塚本ほど知識のある人間はいない。ある高名な朝鮮民族運動研究家でさえ塚本の知識に驚いたほどである。
しかし大山倍達に関する知識でNo.1といえば私たちではない。「大山倍達正伝」の制作に多大なる寄与してくれた「第3の著者」、宮田玲欧氏こそが日本1の大山倍達研究家である。宮田氏がいなかったら、「大山倍達正伝」は完成しなかったといっても過言ではない。
敢えていうならば、私は体験・経験主義者である。大山倍達にしろ芦原英幸にしろ、自ら本人に接し、付き合いのなかからアプローチしていくタイプである。しかし宮田氏は違う。文献主義者であり、常に社会学的な視点で対象者に迫る。単なる知識ではなく「宮田史観」といったものが歴然と存在する。かといって決して権威主義者ではなく、新しい事実に対して謙虚に受け止める柔軟性も有している。
本人曰わく。
「僕はオタクですから、たまたまオタクとしての対象が大山総裁だっただけなんです」
しかし宮田氏が所有する膨大な資料と鋭い探求心は「オタク」とはレベルそのものが違う。ひとことでいうならば、大山倍達に関するウォーキングディクショナリーである。私は「大山倍達正伝」の制作に当たり、幾度も宮田氏と大山総裁の足跡に関して考証を繰り返した。
「大山倍達正伝」は300を超える資料と取材の積み重ねによって可能な限り大山倍達という稀代の武道家の「真実」に迫った。しかしルポルタージュにおいて、いかに「真実」に近づく努力をしようとも、「真実」そのものには永遠に辿り着けない限界が存在する。いかに多くの資料と取材を重ねようとも、最終的には著者の「解釈」に終わるのがルポルタージュの宿命といってもいい。
その意味で、私たちと宮田氏の大山倍達観は「大山倍達正伝」を通すことで限りなく近いのは事実ではあるが、決してイコールではない。私たちと同一ではないものの、宮田氏の史観、解釈は十分に傾聴に値する。
私は宮田氏の史観に大きな敬意と畏怖さえ抱いている。こんな素晴らしい「才能」を埋もれさせておくのはあまりにも勿体ないではないか! ということで、私は宮田氏に「系譜 大山倍達」の執筆を勧めた。勿論、宮田氏はプロの物書きではない。その部分は私やMugenのスタッフがフォローする。


「大山倍達正伝」は大山倍達の一生を描きながらも1964年の極真会館創設でひとつの区切りとなっている。その後については、劇画「空手バカ一代」と、原作者である梶原一騎との関係に触れているものの、体系的な足跡の追究はない。話は大山倍達の最晩年に大きく飛んでいる。つまり、極真会館創設から1990年までが空白になっているのだ。
その期間を埋め、さらに極真会館を設立した大山倍達が空手・格技界にいかなる「影響」を与えたのか? 現在の格技・空手界は大山倍達の影響なしには決して語れない。それこそが大山倍達の「系譜」なのだ。
私自身も物書きとして多大な興味を抱いているモチーフでもある。しかし残念ながら私たちのスケジュールは現在、執筆中の「大山倍達の遺言」を含め、約3年先まで決まっている。どうしても「系譜 大山倍達」を書く余裕はない。ならば、私たち以上に大山倍達に詳しい宮田玲欧氏以外に書ける人間はいない。
ちなみに「大山倍達の遺言」は「大山倍達正伝」の続編的なものであり、1994年4月26日の大山倍達の死から始まる。「系譜 大山倍達」が完成すれば、著者は異なるものの、「大山倍達正伝」、「大山倍達の遺言」、そして「系譜 大山倍達」が大山倍達に関する3部作となるだろう。これで初めて、大山倍達についての「物語」は完璧になるのだ。


宮田玲欧著、小島一志監修による「系譜 大山倍達」を是非とも実現したい。
後は「版元」を決定するだけである。新潮社様、講談社様、または他の版元様、どうか「系譜 大山倍達」を引き受けてください。
…なんて虫のいいお願いですが宜しくお願いします。

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「大山倍達正伝」(新潮社/小島一志&塚本佳子)。大山倍達の一生を追ったルポルタージュの決定版!


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