ところで、昨日は仕事を含めていろいろ楽しいことがあった。が、ここでは書かない。
違う話題を楽しもう。
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他人への誹謗中傷だけが目的の、
この記事のコメント欄に多く湧いてくるこういう人たちとはあまりかかわりたくないが、この記事のコメント欄が非常に典型的な例なので、それをサカナにこの人たちの「やり口」について、少々書いておこう。
前にもご紹介したが、ネット上での誹謗中傷を行う人たちは、いまや社会問題となっていることはご承知の通りだ。これは多くの場所で取り上げられたばかりではなく、NHKの番組にさえなった。
特に
オーマイニュースについては、
1.韓国から来たこと。また、韓国でも左翼と見られていること
2.前々回の大統領選で大きな影響力を持ったこと
3.日本でもリベラル系と言われる主要メンバーを持ったこと
が影響していると見られているが、このメディアの日本への進出を快く思わない、声の大きな人たちがいて、このサイトやこのサイトにかかわる市民記者を含めた人間への恫喝を行っている。「ここにかかわるとロクなことがないぞ」とばかりの、恐喝まがいの「記事への反論」という衣をまとった、まるでヤクザの恫喝のようなコメントが多い。
特に政治がらみの記事や、オーマイニュース自身についての記事ではこのボルテージが上がる。その一方、同じかそれ以上の間違いをしている記事でも、政治と関係ないものでは、まるで反応がない。
彼らが意図的にターゲットを絞っていることは明白だ。
これが怖くて、市民記者をやめた人は、やはり多い。
また、多く記事を書く市民記者でも、このやりとりが面倒なので、食べ物の記事、暖かな家族の記事、などの当たり障りのない記事を書くことだけしかしない、という記者も多い。
彼らのやりかたは、オーマイニュースに限らず、どこでも同じだ。
1. まず、記事の小さな間違いを探す。
この間違い自身は、記事の論旨に大きな影響を与えるものではない場合が多い。
2. 「記事の間違い → 記事全体が信頼できない」という論調へ持っていく。
3. 「記事全体が信頼できない → 筆者が信頼できない」へもっていく。
4. 最終的に「人格攻撃」に持っていく。
この記者は信頼できないとする。「バカ」「死んでしまえ」などの感情的な罵詈雑言がこの段階で言われ、反感の感情を煽る。
これが、彼らの「正義を装った攻撃」のワンパターンなやり口だ。
実際、前述の記事を見てもわかるが、あの記事に間違いはあったので、すばやく対応をして認め、編集部に修正をお願いしたにもかかわらず、あれこれと難癖をつける点は最後まで同じである。
修正をしたことは「間違いを認めたこと」なのだが、その後の「間違いをあらためた」ことには、評価を与えず、「間違った」ことだけにマイナスの評価を与え、それだけを繰り返し書く。この文章技術も、他人を攻撃し、萎縮させるための、かなり古臭いやり方だ。
そして、こういった攻撃の結果として
1. 記事全体の信頼性を失わせる。あるいはその記事の論旨などには、読むものの目がいかないようにする。
2. 記事のみならず「書く人」の人間としての尊厳や信頼を傷つけ、自分たちの意に沿わないことを書く人間を萎縮させる。
3. 書いた人以外の人に、「おまえも同じようなことを書くとこういうことになるぞ」という威嚇・恫喝を与える。
という成果を、彼らは刈り取ろうとしているわけだ。
特に、「3.」には、彼らはかなりの効果を期待しているだろう。
選択的に取り上げるポイントを選び、彼らなりの文章技術を駆使することによって、彼らはこれらのことを達成しようとしている。
ところで、私は、オーマイニュースに限らず、そのサイトにあわない、と思われる内容の記事などは、すべて自分のBLOGでやることにしている。あのコメント欄への私の反応も、ここに書く。理由は以下だ。
1. 記事の内容とは直接関係のないことで、記事のコメント欄を汚したくないこと。
2. 反論が通常は長文になること。コメント欄では書ききれない。
コメント欄で攻撃を受ける場合は、当然のことながら「多勢に無勢」という立場に置かれることが多い。つまり、攻撃側はそれぞれが小さく書けばよいが、反撃側は多くの文言を書かなければならない。そのため、コメント欄には入りきらない。
3. ネットである限り、どこでも反論は書かれるべきだし、またどこでも反応すればよい、というシステムであること。場所を限る必要はないこと。自分が反論しやすい場所で、反論すればよい。
4. 彼らの目的である「他の記者(書き手)への恫喝」を簡単には達成できないようにすること。
この「恫喝の現場」は、他人に見えるところで「見せしめ」として行わなければならないから、個人の解説するBLOGなどでは効果が薄くなる。だから、彼らはこのようなやりかたを嫌う。
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もともと、人間のやることに、100%の完全なものはない。
この当たり前のことを逆手にとって、誹謗中傷の「道具」として文章を使う手口が、このようなやりかたなのだ。「小さな間違い」という「最初の一発」で相手をひるませ、相手の攻撃能力を弱くしてから、その隙に次の攻撃を仕掛ける、というのは、ボクシングに限らず、よくある喧嘩のやりかただ。
どんな犯罪でも、こういった「小さな隙間」から犯罪者はことを始める。そういう傷口を作らないこと、ということはもちろん大切だが、この世の中に生きている以上、またそこでたくさんの働きをすればするほど、小さな傷は増えていく、というのが人間という存在だ。100%完全な人間というのはどこにもいない以上、傷口を広げられそうになったら、そこを防衛する、ということも必要になる。また、オーマイニュースの編集部などには、ある意味中途半端な「市民記者」という存在を抱えることが必然である以上、言論の自由を守るために、この傷口を守ることも必要かつ重要な役目になると思う。
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しかし、こういう人たちがいる、ということは、覚えておいたうえ、それでも間違いを恐れずに記事を書く、ということは市民記者という立場にいる人間には、とても必要なことだ。
また、記事を読む側も、こういう連中の誹謗中傷のコメントには惑わされずに、記事そのものの内容をちゃんと見て、自分でその内容を判断してほしい。いまはネット上にこういった「変な人」たちがたくさんいるので、コメント欄の価値がどうしても落ちてしまう。
市民記者はプロの記者ではないから、その仕事を専業にしているわけではないし、文章技術だって当然プロとは違う。取材の奥深さもやはりプロのほうが上なんだから、記事に間違いがあっても、あとで訂正をちゃんとすればよいし、その間違いを正すためにも、編集部というプロの集団がいるのだ。つまり、市民記者の書く原稿には、もともと100%の正確さは求められてない、ということだ。すべてが間違い、という記事でなければ、安心して思ったことを記事に書くべきだ。
間違っているかも知れないが、ということをプロの編集者の下で書くのも、市民記者という存在のある意味の1つだし、プロではない市民記者の特権だ、くらいには考えてほしい。そして、どんどん書くべきだ。
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