実録 連合赤軍(追記あり)
2008年04月03日(木) 20時03分13秒 テーマ:徒然いやぁ~、長かった。3時間超て。
観客は全共闘世代だと思われる男性率高し。
映画が終わった後の、どんより感が何とも言えませんでしたわ。
やつらだ兄さんは号泣したってことだったけれども、どこで泣いてはったんやろ?
最後のあたり、浅間山荘のところでちらっと涙が出たけど、私は後半、むかついてむかついて気分が悪くなって吐きそうだった。
年明けの、水騒動を何度も思い出した。
「内ゲバ」と評されることが多かった騒動だったけれど、まさに同じ構図だと思った。
「疑似科学を好意的に紹介した総括をせよ!」
「自己批判せよ!」
「そんなものは総括ではない!」
そのやり方はちゃうんちゃうの、と意見した人たちが、ほとんど謝罪させられたというのも、異を唱えた者たちが「総括」の名の下にリンチされ死に至らしめられた連合赤軍とかぶる。
配給された食糧以外にクッキーをつまみ食いした、それは反共産主義的行為だ、と「総括」を求められる場面も水騒動と思いっきりかぶる。その解釈のしょうもなさにおいて。
「銃は敵に向けろ」
私が水騒動の間じゅう思っていたこととかぶる。
救いは、匿名性の高いブログでの出来事だったということだ。
水騒動がリアルで起こっていれば、私も、これまでの「同志たち」にハミられ、ブログを閉じる程度では済まなかったのではないか。処刑に関わりたくない、総括ってどうすればいいのかわからない、こんなの意味がない、と、つい口に出してしまったがために殺された女性たちのように。
それは、反リベラルブロガー的行為である。総括せよ。
あれ以来、政治について書くことの敷居が上がったと感じているのは私だけだろうか。
思い出すだけで、吐き気がする。
「内ゲバ」込みのリベラルなど、くそくらえだ。
(追記)2008.4.5
だいぶムカツキがとれてきたら、違う見方もできるようになった。
たんぽぽさんを擁護した側の人たちは、逆に、
「共闘幹部の間違いを指摘したたんぽぽさんが『総括』させられている!」
・・・と受け取っているんだよね。
たんぽぽさんが、幹部に楯突いた反乱分子として「粛正」されようとしている、これはおかしい、連合赤軍と同じ轍を踏んではいけない、とまで思ったかどうかはしらないけれど、強権政治に対しての「勇気ある行動」としてたんぽぽさんを擁護したんだよね。つまりは、らんきーさんは森恒夫だった、と。
批判に感情的になったらんきーさんを「単なるガキ」だと捉えるか、森恒夫だと捉えるか、それで180度見解が変わったのだね。
どちらの見解をもったにせよ、サヨクと総括は切り離せないのか、というのは、私にはアタマをガーンと殴られたような気がした。
「反知性的な振る舞い」という、週刊金曜日の原田さんをして絶賛せしめたこの感覚も、左翼的なものなのか?・・・ということも、映画を見た後、ぐるぐる回り続けている。
今の日本のリベラルは、インテリの男性が中心。ブログでも同様に。
専門用語、難しい漢字、熟語の羅列。思想、知性、教養、理性。そして、論理、論理、論理。
リベラルにおいて、インテリでもなけりゃあ、男性でもない私は、これまでも常々自分が「傍流」であることを感じていた。
もちろん、そんなことはいい。どうでもいい。
でも、自分なりの活動を「反知性的な振る舞い」だと、理想を同じくする人たちから切り捨てられたくない。
女性運動も政治運動も、「反知性的な」人たちをいかに取り込めるか、ということが鍵を握る。小泉が「B層」の取り込みで勝利したように。
でも、私は「B層」ということばは使いたくないし、「反知性的な」ということばもイヤだ。
他人を「反知性的」だと切り捨てる、つまりは自らを「知性的」だと位置づけているインテリの傲慢さが鼻につく。でも、それ以上に、他人をそうやって見下すことは、いずれ自分を追い込んで萎縮させられていくことに繋がるから。
「総括」を恐れ、「反知性的だと思われないこと」が最重要課題になれば、何もできない。
「政治ブログの資格はない」らんきーさんに向けられたことばは、そのまま私に突き刺さった。
そうした「他者からの評価」を最優先することに異を唱えること。
ひとりひとりが、自分の中に自分に対する評価の基準を持つこと。それが「私のリベラル」だ。
だからこそ、私は、何ヶ月も経った今も、この騒動にこだわり続けている。
切磋琢磨して、リベラルとしての言論の質を上げていくこと。それも大切なことであろう。しかし、私はそれが「仲間の切り捨て」に繋がる限り、無意味だと断じる。
だから、私は「指摘の仕方」にこだわった。
正論は、人の心に響かない。だから、それをいかに、血肉の通ったことばにするのか。
私はそれが、リベラルの最重要課題だと考えている。
まずは、身内で練習しなくてどうする。
身内にさえ感情的に拒絶される「知性的な論理」など、他の人たちに伝わるはずがないではないか。
内ゲバを内在したリベラルなど、何の魅力もない。
一般人に「怖い」「関わりたくない」と思われておしまいである。
ひとりひとりが、魅力的な人間を目指すこと。自分らしく生き生きと人生を歩むこと。
それが体現していれば、リベラルはこんなにも廃れなかったはずである。
人のこころに響くことばは、「反知性的」なものだと私は感じている。
内容がいかに崇高であれ、論理的であれ、「反知性的」なものを切り捨てる姿勢が少しでも見えたなら、拒絶反応を呼び起こしてお終いになるだろう。
女性の人権がここまで回復してきたのは、「共感のために反知性主義的な振る舞いに目をつぶるような態度」をも大切にしてきたからである。
「普通の」主婦の共感を得て、同じ「女性」という繋がりの中で、共感を共有し、運動を拡大してきたからこそ、今のフェミニズムがある。それは「男性にはできなかったこと」だ。だからこそ、年明けの騒動で、少なからぬ女性が「総括」を肯定したことに対して大きな失望を感じている。
リベラルという狭い世界で、「知性」や「論理」にこだわり、仲間割れを起こすのは愚かである。
リベラルブログが、今なおそういう世界であるというのなら、私はここを立ち去ることに未練はない。
年明けの騒動以来、私がいちばん怖いと感じているのは、ネトウヨでも右翼でも、公安でもない。
「知性的な」リベラルブロガー集団からの「総括」である。
・・・ま、すっかり異端児になってしまったんで、相手にされてないだろうケド。
■俺が泣いたのは
家に帰ってからだ。
すべてがやり切れなくて、とめどもなく悲しくなった。
上映中は怒りしかなかったが、
間違いであれ、何かに没頭した青春(あえて言わせてもらう)が羨ましかった。
相当な挫折感がそうさせたんだ。
「銃は敵に向けろ」
俺は、いまこそ、立ち上がらなきゃ、と反省した。
「狼は生きろ 豚は死ね」