なぜ「日の丸」が「ウヨク」と言われるのか

時代に翻弄された象徴の歴史

三田 典玄(2008-04-11 19:00)
Yahoo!ブックマークに登録 このエントリーを含むはてなブックマーク  newsing it! この記事をchoixに投稿
 この記事は、「日の丸」について朴哲鉉記者の書いた記事で呈された疑問へのいくばくかの参考になれば、ということで書かせていただく。

  ◇

 「日の丸」といえば、日本の国旗だ。日本人の「習慣」として、祝日、正月などには、その国旗を自分の家の玄関先に飾る、というのが多くの家庭での「常識」であった時代もあった。

 しかし今年の正月、私は東京とその近辺のいろいろなところに行ったが、その旗を見たことは一度もなかった。私が住んでいるあたりは東京23区内で、最近はマンションも多く立っているところだ。年末近くにはマンション各戸の玄関に、日の丸ではなく、クリスマスのさまざまな飾りつけがなされ、それを過ぎると正月の飾りつけになる。でも、日の丸はまず見ない。

日の丸は平和の象徴か、それとも戦争の記憶の象徴か(写真はイメージ、ロイター)
 日の丸を最初に決めたのは明治3年とのことだが、ウィキペディアなどによれば、もともとは通商上の必要から、日本の商船に使われる旗として「郵船商船規則」で定められたものであり、最初は国旗としてではなかった、ということだ。

 実際にそれが国旗として定められるよう、国会に議案が提出されたのは1931年になってからで、しかもそのときには国旗として制定されなかった。正式に国旗となった事実はこれまでに、実はない。

 ただ、戦後は米国の連合軍総司令部によって「日の丸」の掲揚が禁止されていたが、1949年に祝日に限定した特例として掲揚が許可され、次いで自由掲揚が認められるようになった、とのこと。

 つまり、この時代の「日の丸」の掲揚は、1947年の新憲法発布とともに、戦後という時代の始まりを象徴するものだった。「平和」の象徴として庶民にも受け入れられた、と考えてもよいだろう。

 しかしこのタイミングは、朝鮮戦争(1950年)の開戦と同時期であり、日本ではレッドパージ(左翼狩り)の嵐が吹き荒れようとする直前にもあたる。

 また、1949年には中華人民共和国が成立しており、その脅威を感じる「西側」日本は、「お金はないけど、自由はいっぱいある」という時代からいよいよ高度経済成長の、国家による管理体制に移行する節目にあたった。

 戦争が終わって、この時期までの5年間の日本は、政治的自由と窮乏の時代であり、その自由を最大限に使って共産党の活動が非常に活発化した時代だった。有名人の共産党入党などの話題が新聞に載ったりしている。

 つまり、連合軍総司令部が許可した「自由と共産主義時代の日本」の「日の丸」には、軍国主義の復活よりむしろ、手っ取り早い「反共」の意味あいもあったのかも知れない、と想像できる。

 オーマイニュースの過去の記事を読むと、「日の丸」について書いた記事がいくつかある。まず目に付くのは、大谷憲史記者の記事(「敬老の日」に「日の丸」の旗を掲げた)。最近では、山守金吾記者がシチゴ帳で「国旗立て 祝う正月 右翼だと」という川柳を詠んでいる。

 戦後における「日の丸」が「ウヨク」の響きをどこかしら持つのは、それが、世界で――特に日本に近いロシアと中国で――強大化する共産圏に対する西側諸国の構えの1つとして、それを象徴するものでもあったからではないだろうか?

 もちろん、その時期の多くの日本国民にとっては、つい数年前までの戦前の記憶と重なったことは十分に考えられる。

 日本人は戦中、「日の丸」を背負わされて、死地に向かったのだ。日本の国民は、あの無謀な戦争で多くの犠牲を強いられた最大の被害者でもある。レッドパージの時代には、「あの連中が、米国の庇護(ひご)の下に復活するのか!」という怒りも、多くの国民にあっただろう。

 当時の日本の共産主義は、その思想で支持を得たのではなく、戦争で皆殺しにされかかった日本国民の、政府に対する被害者意識から、政府への不信感を示す方法の1つとして機能し、組織化された、という部分もあったのではないだろうか。

 1950年ごろの左派は、「為政者の自由」である資本主義と対峙するかたちで「人民の自由」の華々しさをまとっていた。また、日本の戦後の自由の時代に花開こうとしていた。かなり多くの日本人にとって、共産主義は自由の象徴でもあった。だから、自由と共産主義の時代から、国家による管理体制へと「逆コース」に舵を切った時代の道しるべとして、「日の丸解禁」があった、ということではないだろうか。

 当時は、ロシアでの「自由の制限」などはそんなに大きな問題とは思われていなかったし、中国は建国が始まったばかりで評価も定まらない、未知数の国だった。

 ところで、ジャーナリストの有田芳生(ありた・よしふ - 1952年生)氏の名前は、当時の日本共産党の幹部であった父に「ヨシフ・スターリン」の名前の「ヨシフ」をとってつけられたものだという。今なら、たとえ共産党の幹部であっても、このような名前を子どもにはつけないだろう。それくらい、当時の「共産党」はまだまだ輝いていた部分があった。

 「日の丸=ウヨク」という図式、そして、かなり多くの日本人が持つ「日の丸=戦争」という図式は、こうやって戦後の日本人に定着したのだろうと思う。つくづく、不幸な「日の丸」の身の上を考えざるを得ない。まるで、いい家に生まれ、器量も大変に良い女性の不幸な一生、みたいな話である。

 戦争当時、医学生であった私の父は、東京大空襲の東京を歩いて見て回ったという。母は神奈川県の鶴見の高台から、燃え盛る東京の業火を見て恐怖に震えた、という。母は戦中の多くの生活を語ってくれたが、父はそのときの経験を決して語ることなく死んだ。

 戦争を語る母の饒舌と父の沈黙は、私によりいっそう強い印象の「戦争」の怖さを語り継いだと思っている。そのわが家には、生まれたときから日の丸はなかった。

 「日の丸」の真ん中の「赤」が、血の色に見えるあいだは、日本人の戦後はまだ終わっていないのだろう。


三田 典玄 さんのほかの記事を読む

マイスクラップ 印刷用ページ メール転送する
1
あなたも評価に参加してみませんか? 市民記者になると10点評価ができます!
※評価結果は定期的に反映されます。
評価する

この記事に一言

more
(まだコメントはありません)
タイトル
コメント

オーマイ・アンケート

この4月から、あなたは何をされていますか?
OhmyNews 編集部
会社員、派遣、契約、フリーの専門職、経営者として働いている
アルバイト、フリーター
無職(定年退職含む)
主婦・主夫
学生
その他

empro

empro は OhmyNews 編集部発の実験メディアプロジェクトです
»empro とは?