著名人コメント

田原総一朗(ジャーナリスト)

これほど靖国追及に勢力を注ぎ込んだ映画はない。観るのは辛いが目を背けるわけにはいかない。凄まじい作品である。

土本典昭(記録映画作家)

李纓氏の最新作『靖国』は敗戦記念日のその一日を凝視する。既成の見方、アングルは排除され、初めてその日を見るように新しい。九十歳の刀鍛冶とその日本刀を物そのものとしてとらえ乍ら、軍人の“魂”とされ、神社の“神体”とされた歴史を天皇と軍人の寫眞と交錯させ、この“神体”が戦争へのよみがえりにつながっていることを見事につたえている。
“私たちは日本人ではない”と叫ぶ東アジア人の“英霊”の声は戦後六十年の虚構をあばいている。これは“考える映画”の秀作である。

森達也(映画監督/ドキュメンタリー作家)

観終えてつくづく思う。不思議な場所だ。奇妙な磁場だ。引き寄せられる何かと、遠ざけられる何か。
スクリーンに浮かびあがるその一つひとつの要素を凝視することで、この国のもうひとつのアウトラインが、きっとあなたの中に形作られる。

鈴木邦男(一水会・顧問)

靖国神社を通し、<日本>を考える。「戦争と平和」を考える。何も知らなかった自分が恥ずかしい。厳しいが、愛がある。これは「愛日映画」だ!

アレクサンドル・ソクーロフ(『エルミタージュ幻想』『太陽』監督)

映画監督・李纓は唯一無二という意味でユニークなタイプのプロフェショナルな映画人だ。多くの作品を創ってきているが、今回もこの『靖国』を見て、高度な完成度、明快さと簡潔さに驚かされた。彼は非の打ち所なくモンタージュを行い、自分なりに映画の時間を感覚し、この感覚したこと全てを現実の映画に絶妙に変容させる。
李纓は輝かしいばかりのドキュメンタリー技術を身につけており、彼のドキュメンタリー映画は一定のプロセスを踏査した結実であるばかりか、揺れ動く感情の物語である。これはまさに文学の巨匠ができることである。
『靖国』は、ドキュメントであり歴史でもある物語を芸術作品に変容する李纓の能力を遺憾なく発揮しており、私にとっても極めて重要な作品となった。彼のこの能力に感嘆させられる。 私はすべての映画プロデューサーに、何らかの力を持つすべての人々に呼びかける。この才能豊かな監督を助けてください。支えてください。作品を見てください。彼の才能を大事に、大事にしてください。

スティーブン・オカザキ(『ヒロシマナガサキ』監督)

これは今ままで作られた日本のナショナリズムに関する映画の中で、最も重要で優れた作品だ。
挑発的でありながら、熟慮されていて、作為的なところがなく誠実である。
この映画のすべてのフレームに「真実」が宿っている。

野中章弘(ジャーナリスト、アジアプレス・インターナショナル代表)

私はいつも「国家」を疑っている。靖国思想は「日本」という国と「日本人」という人々の作り出した「物語」のひとつである。この映画はそのような物語を信じてきた「日本人」の思想のあり方を問うている。

古居みずえ(『ガーダ パレスチナの詩』監督)

「天皇陛下万歳」と叫ぶ男性。「生きているときも自由を奪われ、今は魂さえも閉じ込められている」という台湾からきた遺族の女性の訴え。「中国人か、中国へ帰れ」と罵声を浴びせられながら、追悼集会に反対して暴行を受ける若者。靖国で繰り広げられる様々な映像が、叫ぶ人々の生の言葉が、激しく私たちに迫る。一方で対照的に、靖国の刀作りを再現する刈谷刀匠と監督の静かな時間が流れる。「当時のことを覚えていますか?」「靖国をどう思いますか?」という監督の核心の質問に口ごもる刈谷刀匠。決して問い詰めるのではなく、会話が続く。動と静が絡まった見事な映像が、私たちに戦争とは、靖国とはと問いかけてくる。

綿井健陽(フリージャーナリスト、『Little Birds』監督)

「靖国神社」に行ったことがある人も、「靖国神社」に行ったことのない人も、実は「靖国」のことは何も知らないのかもしれない。 映画『靖国』が映し出す光景から、もう一度考え直しだ。

小橋めぐみ(女優)

政治的な問題に隠れてしまっていた一人ひとりの熱い想い。
正か否かを問う前に、まず観るべき映画だと思う。
特に戦争を知らない世代の私たちは。

佐藤忠男(映画評論家)

中国人の李纓監督が日本人を理解しようと真剣に努力している姿に打たれました。

倉本美津留(放送作家)

あとから反芻できるいい作品だと思いました。

大場正明(映画評論家)

この映画の靖国からは、戦争だけではなく、出発点が曖昧にされているために出口を見出せない近代が浮かび上がってくるのだ。

川村夕祈子(キネマ旬報編集部)

タイトルに惑わされないでほしい。
冷静な視点で捉えた、いわゆる普通のドキュメンタリーである。
ただし、最も観る価値のある映画だ。

松江哲明(ドキュメンタリー監督)

被写体を「追っかける」ドキュメンタリーは散々見て来たけど、被写体がカメラに「向かってくる」のなんて初めて。それも体当たり寸前で。
さすが靖国、ヒトビトを極端にさせる舞台としては最強の場。

梅山景央(「Quick Japan」編集部)

とにかくカメラが近い。レンズに唾がかかりそうな、いまにもカメラをはたかれそうな、 抜き差しならない距離感がいい。いちいちちょっかい出してる感じがいい。

唐沢俊一(評論家)

後味の決していい映画ではないが、しかしどう反応するにしろ、われわれに何か答えを求める映画ではあった。まずは観るべし。

藤木TDC(フリーライター)

帝都の霊廟より地湧する近現代の百鬼夜行。戦後はまだ、終わっていなかったのだ!

吉村紗矢香(CUT編集部)

このあまりにストレートなタイトルに、強烈な写真のイメージ怯んでしまった人にこそ観てほしい、力強くも繊細な作品。

有田芳生(ジャーナリスト)

復古主義の反時代。これが二一世紀の日本かと驚かされた。石原慎太郎さんに取材したときの言葉が蘇ってきた。 「戦前の日本はいまの北朝鮮みたいなものだよ」。この作品に反対するも賛同するも、まずは自分の眼で見てからの判断だ。


『靖国』映画評

李纓の「靖国」は、第二次世界大戦で亡くなった“英雄たちの霊”を祀った論争の多い日本の神社をあらゆる視点からメスを入れる。この問題はアジアで高い関心があるのはいうまでもないが、それ以上に、刀や菊といった国家の象徴がもつ意味を探りながら戦中及び平和な時代における日本の歴史を考え深く紐解く李纓の切り口は、慎み深く巧妙だ。観客から熱い反応を得た映画となった。

(2007年釜山国際映画祭The Daily 10月11日号より)



李纓監督の「靖国」は、議論の多いこの神社の問題に取り組んだ初めてのドキュメンタリーだ。日本で十年もの間、取材した結果、映画は靖国神社を巡り対比する様々な意見を描写する──過去の栄光な日々に思いこがれる右翼の活動家たち、それに反対する者たち、そして戦争の被害者たち。「靖国」は単純にこれらの異なる視点を並べるに留まらず、刀や天皇が象徴する意味を紐解きながら、日本人の無意識における靖国神社の意味を詳細に吟味する。(KIM Byeongcheol)

(2007年釜山国際映画祭カタログより)



この挑戦的で観察力に富んだ映画の中で、真実のインタビューや、生きている最高齢刀鍛冶が神社のために最後の刀を製作するといった素晴らしい記録的な映像を交えながら、最も日本的な神社を巡る戦争、信義、命、そして死の意味を追求する。

(2008年サンダンス映画祭カタログより)




歴史論争とは、視点の問題である。何が事実でどこまでが事実なのか、歴史は互いに異なる立場において、それぞれ異なって潤色される。戦争や対立の激しい事件においては、なおさらである。互いに異なる事実が乱舞し、一方に偏った主張が、事実とは関係なく強要される。東アジア地域におけるもっとも熱い問題である靖国神社も、またそうである。日本の総理の靖国参拝は、毎回、論争を呼び、中国と日本、韓国と日本の外交は、靖国の前で足止めされる。



中国のリ・イン監督が靖国神社についてのドキュメンタリー「靖国神社」をひっさげて釜山へやってきた。1989年から日本に住んでいる彼は、中国では知らなかった日本人の歴史意識、靖国についての考え方に衝撃を受け、映画を撮り始めた。「南京虐殺についてのセミナーで、日本人が(日の丸を?)国旗として意識し、拍手を送る姿」は、日本文化に慣れ親しんだ彼にとっても違和感のある光景であった。偶然、靖国で日本刀を作っていた職人の話を聞き、彼はその老人の生き様を靖国問題の解決の糸口に据えた。



 「靖国神社」は日本に存在する多様で複雑な軋轢を見せてくれる。アメリカ人に対する日本人の立場と靖国参拝に対する支持と反対。「都合のいい歴史だけを記憶し、都合の悪い歴史は削除する」という日本人の姿が、現在の靖国神社が置かれている位置を浮かび上がらせる。「靖国の霊魂、その総体的、象徴的な意味」として提示された日本刀を作る職人の姿も、そこに同時に重なる。彼は、「ある意味では、沈黙のほうがやかましい論争よりもはるかに問題の核心を伝える」といい、老人の沈黙をそのままに映し出す。それとともにこのやり方は、「中国、日本、韓国、台湾が歴史についてじっくり考えることのできるきっかけ」のためでもあるという。



 「靖国神社」は今年、日本と中国で公開される。リ・イン監督は「韓国でも同様の時期に公開されて歴史的な責任問題をともに語り会うことができれば嬉しい」という。10年にわたって撮影され、「やはり膨大な量の勉強」をもとにして完成されたリ・イン監督の歴史的対話。彼は「そろそろ韓国も植民地後百年になるではないか」といい、ともに対話に参加しようではないかと語った。

(文・チョンジェヒョク ピープル誌より)