李舜臣と日本海軍 言説四種 | ||||||||
最終更新:2004/5/12 | ||||||||
a東郷と李舜臣。「李舜臣に及ばない」「李舜臣は私の先生である」等々。 | ||||||||
↑ | b鎮海を出航する際に李舜臣の霊に祈った | |||||||
| | ↑ | b日本海軍は李舜臣を尊敬した | ||||||
| | | | ↑ | c李舜臣を祀るのは海軍の行事 | |||||
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1982 | 『李舜臣覚書』*1 | |||||||
↑ | ↑? | |||||||
1979 | | | 『近くて遙かな国から』*2 | ||||||
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1977 | 「アドミラル李舜臣を讃ふ」*3 | | | ||||||
↑? | | | |||||||
1976 | | | 「魚睡園閑話」*4 | ||||||
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1972 | 『坂の上の雲6』*5 | | | ||||||
↑改稿 | | | |||||||
「坂の上の雲 第1187回)」*6 | | | |||||||
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1971 | 「街道をゆく――李舜臣」*7 | | | ||||||
×原書文意と異なる | ↑? | | | ||||||
1964 | 『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』*8 | × | | | | | ||||
× | | | | | ||||||
1945 | ↑ | 金素雲、9月5日釜山講演会*9 | ||||||
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1931 | | | 秋、金素雲来日、川田と対談*10 | ||||||
| | × | |||||||
| | 川田功、5月28日死亡*11 | |||||||
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1925 | 『砲弾を潜りて』*12 | | | ||||||
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川田功 | ||||||||
1 | 藤井信雄『李舜臣覚書』(古川書房、1982) | |||||||
2 | 金素雲『近くて遙かな国から』(新潮社、1979年) | |||||||
3 | 藤塚明直「アドミラル李舜臣を讃ふ」『慶熙』第8号(京城公立中学校同窓会、1977) | |||||||
4 | 金素雲「魚睡園閑話」『アジア公論』1976年1月~1977年12月連載(国際文化協会発行(ソウル))、注2前掲書後記による | |||||||
5 | 司馬遼太郎『坂の上の雲6』(文藝春秋、1972年) | |||||||
6 | 司馬遼太郎『坂の上の雲1187回』(サンケイ夕刊、1972年) | |||||||
7 | 司馬遼太郎『街道をゆく第33回――李舜臣』(『週刊朝日』1971年) | |||||||
8 | 安藤彦太郎・寺尾五郎・宮田節子・吉岡吉典(編)『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』(日本朝鮮研究所、1964年) | |||||||
9 | 注2前掲書 | |||||||
10 | 注2前掲書。来日時期に関しては金素雲『天の涯に生くるとも』(新潮社、1983年)巻末年譜による | |||||||
11 | 小野崎誠編『海軍兵学校出身者(生徒)名簿 改訂版(第三版)』(海軍兵学校出身者(生徒)名簿作成委員会、1987年) | |||||||
12 | 川田功『砲弾を潜りて』(博文館、1925年) | |||||||
[back] | 川田功『砲弾を潜りて』(博文館、1925年) | |||||||
(前略)文吉の負傷は甚だしい我慢で、襲撃運動を採つて居る間は痛まなかったが。終つて了ふと又痛み始めた。(中略)彼は痛みに負けて居ないで、屈服させなければならないと考へ、上甲板の暗黒の中へ再び出て行つた。何をするにも大儀なので、海図筐の中へ首を突込んで現在の艇位は何処であるかを見た。云う迄もなく日本海の真中で、蔚山の東方に方つて居た。其処の港や街の名を辿つて居ると、何れも秀吉が朝鮮征伐をした時の古戦場たらざるは無い。此思い出は、当然世界第一の海将たる朝鮮の李舜臣を連想させずにはおかなかった。彼の人格彼の戦術、彼の発明彼の統帥の才、彼の謀、彼の勇、一として賞賛に値いせざるものはないが、殊に此時文吉を動かしたのは、李舜臣が日本から打つた弾丸で左肩をやられ、流血淋漓縷となつて踵に注いだのに、舜臣黙して苦痛を口にせず、戦罷みて後始めて刀を以て肉を割き、丸を抽出したが弾丸数寸の深さに入つて居つて、観る者面色墨の如くなつたのに、舜臣自若として談笑して居つたと云ふ事である。一度此事を思ひ出すと、文吉の忍耐力は十倍し、突刺して来る様な痛みに逢ふ毎に、彼は心の中で舜臣々々と呼んで、痛みに堪へる勇気を振起させた。偉大なる古英雄の遺業ではないか、三百年後の今日舜臣の名は文吉の痛みを軟げる力となった。 | ||||||||
※文吉=京文吉。本小説の主人公で、水兵である。 | ||||||||
[back] | 安藤彦太郎・寺尾五郎・宮田節子・吉岡吉典(編)『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』(日本朝鮮研究所、1964) | |||||||
朝鮮についての無知識、認識不足は、単に国民一般だけではなく、民主陣営の中にも、いや、日朝友好運動そのものの中にさえある。二、三の例を申し上げてみましょう。 ある時、日朝友好運動の活動家の集りで、朝鮮から来た郵便物の切手を互にわけあっている時、その切手に描かれている李舜臣という人物について、「どういう人か知っているか?」と私がたずねましたら、十五、六人のうち一人も知らなかった。李舜臣というのは、さっき話したいわゆる秀吉の「朝鮮征伐」の時、朝鮮の海軍の大将で、日本の海軍をメチャクチャにやっつけ、朝鮮では軍神とされている人です。すべて戦争というものは相手があり、戦争の話には両将二つの名前が出てくるものである。乃木大将といえば「敵の将軍ステッセル」である。川中島の戦といえば武田信玄と上杉謙信である。加藤清正とならんで、李舜臣の名前ぐらいは、知っていてもよいのではないか。しかもこの李舜臣というのは、ちょっとやそっとの人物ではないのです。面白い話がある。それは、日露戦争の時に東郷平八郎が日本海海戦で大勝利して凱旋した。彼は元帥になった。そのお祝いの席上である人がおべっかをつかって「この度の大勝利は歴史に残る偉大なものだ。ちょうど、ナポレオンをトラファルガーの海戦で敗ったネルソン提督に匹敵すべきあなたは軍神である」といった。東郷はそれに答えて「おほめにあずかって恐れいるが、私に言わせればネルソンというのはそれほどの人物ではない。真に軍神の名に値する提督があるとすれば、それは李舜臣ぐらいのものであろう。李舜臣に比べれば自分は下士官にも値しないものである」と言っています。今、日本で日朝友好をやっている指導的活動家が、李舜臣の名前さえ知らないというのでは、日本帝国主義を育てあげた東郷元帥の朝鮮認識よりも劣るという無見識なことになる。 |
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※なお、「私」とあるが、この「はじめに」の執筆者は、特に記載されていない。ただし、文責は安藤等四名が負う、とする。 | ||||||||
※余談であるが、本書の目的は、その表紙に記されているところによれば「日中国交回復3千万署名のために」「日韓会談粉砕のために」「日朝友好運動の前進のために」の3つである。 | ||||||||
[back] | 司馬遼太郎『街道をゆく第33回――李舜臣』(『週刊朝日』1971年8月13日)(後、『街道をゆく2――韓のくに紀行』(朝日新聞社、1972)収載) | |||||||
明治三十八年五月、バルチック艦隊が極東にやってくることに対して、東郷艦隊は釜山の西方の鎮海湾を借りて待ちぶせていた。いよいよ「敵艦見ゆ」の信号によって艦隊が出動するとき、当時水雷司令だった川田功という少佐の文章によると、李舜臣将軍の霊に祈った、とある。その文章を借りると、 「……当然、世界第一の海将たる朝鮮の李舜臣を連想させずにはおかなかった。彼の人格、彼の戦術、彼の発明、彼の統帥の才、彼の謀、彼の勇、一として賞賛に値いせざるものはない。」 と、ある。明治期の日本の海軍士官が李舜臣という三百年前の敵将に対していかに畏敬の心をもっていたかということがわかるであろう。その後の海軍士官にもこの伝統があり、私の知っているかぎりでも元海軍大佐正木生虎氏、同山屋他人氏などもそうである。 「むしろ李朝以来。韓国人のほうがわすれていて日本人のほうが李舜臣につよい敬愛と関心をもちつづけてきたのではないか」 と私に語った韓国人もある。 |
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[back] | 司馬遼太郎『坂の上の雲1187回』(サンケイ夕刊、1972年3月27日) | |||||||
(『産経新聞 夕刊』1968年4月22日から1972年8月4日まで連載したものを、1969年から単行本化、1978年から文庫化、1999年から文庫新装版出版) |
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余談だが、この艦隊が鎮海湾を出てゆくとき、水雷艇の一艇長が、 「李舜臣提督の霊に祈った」 という記録が書いていたものがあったように筆者は記憶していたが、それがどの資料にあったのか容易にみつからなかった。 当時、水雷艇第四十一号の艇長だった水野広徳という人が筆達者で、戦後、「一海軍中佐」という匿名で「戦影」(大正三年・金尾文淵堂刊)という本を書き、またこれより前、明治四十四年刊で、「此一戦」(博文館刊)という著者名を明記した本を書いている。この二冊のどこかにあったとおもってさがしてみたが、なかった。 もう一冊、右の水野広徳とよく似た文体の書物で「砲弾を潜りて」というのがある。著者名は川田功という海軍少佐で、記述によるとどうやらこの時期水雷艇長をつとめていたようだが、そういった名の水雷艇長は東郷艦隊の編成には見当らない。あるいは水野広徳の筆名であるかもしれない。この「砲弾を潜りて」をみると、なるほど主人公が李舜臣の霊に祈るところがある。 「世界第一の名将」 と著者がいう李舜臣は、豊臣秀吉の軍隊が朝鮮へ侵略したとき、海戦においてこれを鮮やかに破った朝鮮の名将である。李舜臣は当時の朝鮮の文武の官吏のなかではほとんど唯一というべき清廉な人物で、その統帥の才と言い、戦術能力と言い、あるいはその忠誠心と勇気においれも、実在したことそのものが奇跡と思われるほどの理想的軍人であった。英国のネルソン以前において海の名将というのは世界史上この李舜臣をのぞいてなく、この人物の存在は、朝鮮においてはその後ながく忘れられたが、かえった日本人の側に彼への尊敬心が継承され、明治期に海軍が創設されると、その業績と戦術が研究された。 鎮海湾から釜山沖にかけての水域はかつて李舜臣がその水軍をひきいて日本の水軍を悩ましぬいた古戦場であり、偶然ながら東郷艦隊はそのあたりを借りている。 この時代の日本人は、ロシア帝国をもって東アジア併呑の野望をもつ勢力と見、東進してくるバルチック艦隊をその最大の象徴とみていた。それを一隻のこらず沈めることは東アジアの防衛のためだと信じ、東アジアのためである以上、かつてアジアが出した唯一の海の名将の霊に祈ったのは、当然の感情であるのかもしれなかった。 |
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※赤字は、後に単行本として出版された際に「この時期水雷艇の艇付少尉であった。」と訂正される。 | ||||||||
[back] | 藤塚明直「アドミラル李舜臣を讃ふ」『慶熙』第8号(京城公立中学校同窓会、1977) | |||||||
「私はいつぞや頭山満翁に伴われて、東郷さんのお邸にお伺いし、お目に掛ったことがあるのです」。こう私の昵懇な韓国人李英介氏が話していた。「そのとき元帥が私にこう言われた、『あなたのお国の李舜臣将軍は私の先生です』と」。名提督というものは、藍の色の深々と沈潜した重厚さがあり、何か底から押し上げてくる、寂寥に堪えたところがある。提督李舜臣もこういう人であったかも知れない。あとでまた聞いたことだが、東郷曰く、「自分はネルソンに比べられるかも知れない。しかし李舜臣は私を越えている」と。 (中略)明治三十八年五月二十七日未明、「敵艦見ゆ」との警報に接し、連合艦隊は鎮海湾から出動するのであるが、全艦隊が沖を出て間もなく、各艦の将士は遙か西の方を向き、李舜臣鎮魂の礼を行った。李提督は、一五九八年十一月十八日の夜明け、南海島北側の水路で残敵急迫中、流れ弾が左腋下から貫通し、海戦七年連勝のこの提督は息を引き取ったのである。李提督を師として忘れずにいた限り、日本海軍には常に栄光があった。 |
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※講談の記述、根拠未詳。司馬遼太郎と金素雲の主張を混合の上で、みずから想像したものか? | ||||||||
[back] | 金素雲『近くて遙かな国から』(新潮社、1979.12.15) | |||||||
二十年前の古い文章を一つ引用しないとこの話の締めくくりがつかない。一九五四年九月号の「文芸春秋」によせた「恩讐三十年」の中の一節である。 東京へ来た目的だけはどうやら叶えられたが(注=一九三二年、第一書房から刊行された『朝鮮口伝民謡集』のこと)生活は暗澹たるものだった。安原稿の売り込み、ラジオ放送、看板屋の臨時雇い、――なんでもやったが追いつかなかった。マーケットで売る「試食米」の一升袋が買えた日は大尽の気になれた。 年の瀬が迫っていよいよ動きがとれなくなり、一面識のない森下雨村氏を訪ねて小石川戸崎町にある博文館へ入った。帰りの電車賃もないという文字通り背水の陣である。森下氏は快く会ってくれた上、持ち込みの原稿を「朝日」と「少女世界」に採ってくれた。朝鮮の鎮海で海軍大尉だった川田功氏が、「少女世界」の編集を受持っていた。―― 主幹の森下氏が、それぞれの雑誌の担当者を呼んで私に引き合わせた。 (中略) 私は息を吸い込みながら、森下氏の部屋のソファーに並んで腰かけているその川田氏に尋ねた。 「もしか、あなたは鎮海にいられたことはありませんか?」 「ええ、少佐で退役するまで、ずっと鎮海にいました。」 (中略) 「鎮海でのことを、いまでも時々思い出しますよ。毎年李舜臣将軍のお祭りには統営まで行ったもんですよ。あれは司令部の重要な年中行事でしたからねえ」 (中略) 「失礼な言いぶんですが、いまの朝鮮人が、李舜臣のほんとうの偉さを知ってますかねえ?」 (中略) 川田功氏は『軍艦ものがたり』の著者でもあり、文筆に長けていたところから、退役後博文館入りをしたものと思われるが、解放直後の九月五日、釜山での講演会で、私は忠武公(李舜臣将軍の諡)のことに触れながら、川田功氏の話をした。いまでこそ<顕忠祀>のような立派な社も出来、国を挙げて忠武公を護国の聖将と崇めているが、恐らく開放後に忠武公の偉業を讃えたのは私の講演が最初ではなかったかと思う。 |
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※同書後記pp.258-229によれば、本書は「ソウルで出ている月刊雑誌「アジア公論」(日本語版・国際文化協会発行)に一九七六年一月から翌七七年十二月にかけて二年間連載した「魚睡園閑話」――それこそがこの本の原題であるが、云々」とある | ||||||||
※『朝鮮口伝民謡集』の刊行は、正しくは1933年1月である。 | ||||||||
[back] | 藤井信雄『李舜臣覚書』(古川書房、1982) | |||||||
壬辰倭乱と李朝史でいわれているたたかいのなかで、侵略軍が罪のあたいを最もたかく、つぐなわされているのは、朝鮮側が閑山大捷とほこる海戦であろう。だから、閑山島の向こう岸、忠武市の丘には、李忠武公をしのぶ忠烈祠が、つくられている。忠武市は、もと統営といったところであった。 鎮海に、日本海軍の要塞司令部があったころ、司令部が、だいじにしていた年中行事のひとつに、李舜臣の鎮魂祭があった。司令部の将兵は、そのとき統営にでかけて、そのまつりをおこなっている。これが、李舜臣を崇敬する司令官かだれかの、おもいたちならば、はなしの構造は尋常である。それでは、現代版武家義理物語以上ではない。ところが、要塞司令部という、しかつめらしいまとまりで、李舜臣への敬仰が、ちょっと見には表情のない予算書の一項目として計上されるなんか、当時の海軍省のはからいも、こころにくいではないか。 (中略) こんなやりかただけではない。李舜臣が指揮した玉浦から露梁まで、朝鮮水軍のみせた戦法は、かずかずの海戦で明治の日本海軍のもちいた戦法にも、貴重な参考であったはずである。対馬沖で東郷のとったT字型や、敵前旋回という方法も、李舜臣のお手本をなぞった部分があったのであろうか。 その戦術にまなぶということは、李舜臣のたたかいようにかぎらず古今の海戦史にいくらもモデルは、あったことだろう。東郷は、だが、李舜臣の戦法にくわえて、李将軍の行動と心情の秀抜に、理想的な人間をみているようである。 京城公立中学校の校友誌に慶熙というのがある。ちょっとした月刊雑誌もおよばぬ内容のものが、年に一度の刊行。同窓生は、母校をうしなった悲哀を裏がえしに、睦みあいのキメをこまくし、慶熙をたいせつに育てているようだ。その第八号(一九七七年十二月発行)に藤井明直氏が書いておられる。 玄洋社の頭領、頭山満が韓国の実業家李英介氏をともなって、いつか東郷平八郎に会ったときに、東郷は李氏に 「お国の李舜臣将軍は私の先生です」 と言ったそうである。また東郷はかねがね。 「自分はネルソンにくらべられるかもしれないが、李舜臣にはおよばない」 とも言っていたそうである。 明治以後の日本海軍の、むしろ、日本陸海両軍の李舜臣観というものが、いわば日本の李舜臣である東郷のことばには、つづめられている。だからこそ、東郷を長官とする連合艦隊が、鎮海湾にひそんでバルト艦隊を待ちうけていて、いよいよそこを出動しようとするおり、ある水雷艇の将校は、李舜臣の霊にひたすらないのりをささげている。とするならば、そんな祈念での合掌は、たまたまひとりの将校にあったというより、おそらく日本の将兵の多数に、共通にあったことだろう。 |
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※藤井信雄経歴について、本文中に、「終戦前、そこに京城公立中学校があった。/いくさが終ったときに、わたしは、この学校の教員であった。」とある。雑誌『慶煕』を読む機会があったのは、この理由によるのであろう。 |
調査・編集: polalis (polalis@naver.co.jp)
掲載: kaokaosama/tokoi (kaokaosama@infoseek.jp)
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