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正義のかたち:裁判官の告白/1 永山事件・死刑判決 被告の死、望んでなかった

 市民も重大事件の判決を言い渡す裁判員制度が、約1年後に始まる。これまで刑事裁判を担ってきた裁判官は、何に迷い、正義のありようをどう決断してきたのか。その言葉を通じて「人を裁く」意味を考えた。

 ◇「無期」との差に苦悩

 「多数意見には到底同調することができない」。死刑が絡む判断は全員一致が慣例の最高裁決定で、異例の表現が2度繰り返された。

 福島県で03年、元暴力団組員(29)が三角関係のもつれで2人を射殺し、30万円を奪った強盗殺人事件。第1小法廷は2月、2審で無期懲役だった被告の死刑を求める検察側上告を3対2で退けた。「死刑が相当」と強硬に反対したのは、甲斐中辰夫(検察官出身)と才口千晴(弁護士出身)の両裁判官だ。

 被告は事件時25歳。甲斐中裁判官は「若い被告の場合、有利な事情を可能な限り酌むことを心がけた」が、死刑回避の事情が見当たらないと言う。才口裁判官は「永山判決をよすがにした死刑の量刑基準を、裁判員制度を目前に明確にする必要がある」と付け加えた。

  ◇   ◇

 「永山判決」に、名をとどめる永山則夫元死刑囚(97年執行)は、極貧家庭で生まれた。両親から育児を放棄され、無学の末68年、19歳の時に神奈川県横須賀市の米軍基地からピストルを盗み、1カ月の間に東京、京都、函館、名古屋で警備員やタクシー運転手ら4人を無差別に射殺した。だが、拘置所で著した手記「無知の涙」は高く評価され、別の作品で文学賞も受賞する。

 事件の重大さと公判中の変貌(へんぼう)。命を奪うのが正義か生かすのが正義か。死刑制度の存廃さえ議論になった。2審の無期懲役を破棄した83年の第1次上告審判決で死刑の適用基準が示され、「永山基準」として知られる。

 東京地裁で被告と向き合った元判事2人が初めて口を開いた。

 初公判から論告まで裁判長を務めた堀江一夫弁護士(89)は「起訴状通りなら死刑はやむを得ない。言い分をよく聞こう」と心がけた。手記の草稿を読んで「よくあれだけのものを書けるな」と感銘を受けた1人だ。

 ただ、貧しさと無知に事件の原因を求める内容に違和感も覚えた。「彼は社会に責任を向けた。その分だけ世間の同情は薄くなったのでは」と話す。

 一方、途中から審理に加わり、79年7月の死刑判決を言い渡した豊吉(とよし)彬弁護士(78)は「死刑と無期では差があり過ぎる。もし制度があれば、終身刑を選択した」と断言する。結果的に死刑を選んだが、死を望んだわけではなかった。3人の裁判官による合議では「こんな貧困を、行政は何とかできなかったのか」と話し合った。高裁で無期に覆された時は「よかったと思った」と明かす。

 死刑判決は、被告の更生可能性を完全否定する。立ち直りは期待できないから、生命で償わせるしかない、という理屈だ。永山元死刑囚のケースは、どう評価すべきなのか。

 豊吉さんは元死刑囚を「永山さん」と呼んで振り返る。「拘置所は本でいっぱいで、永山さんは外国語の原書も読んでいた。人間って努力するとすごいと思った」。畏敬(いけい)の念すら抱いているように見えた。=つづく

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 ■ことば

 ◇永山基準

 最高裁第2小法廷が83年7月、永山元死刑囚に対する判決で示した。(1)事件の罪質(2)動機(3)事件の態様(特に殺害手段の執拗=しつよう=性、残虐性)(4)結果の重大性(特に殺害された被害者の数)(5)遺族の被害感情(6)社会的影響(7)被告の年齢(8)前科(9)事件後の情状--を総合的に考慮し、刑事責任が極めて重大で、やむを得ない場合に死刑も許される、とした。

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 ◇永山元死刑囚に対する判決◇

判決時期  裁判所  量刑

79年7月 東京地裁 死刑

81年8月 東京高裁 無期懲役

83年7月 最高裁  破棄、差し戻し

87年3月 東京高裁 死刑

90年4月 最高裁  死刑

毎日新聞 2008年3月21日 東京朝刊

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