2008年03月28日
ブラブラバンバン 13点(100点満点中)
ふしぎなボレロを てにいれた!
公式サイト
柏木ハルコの音楽部活エロコメディ漫画を実写映画化。
音楽に限らず部活やスポーツで皆が頑張って上手くなるタイプの作品は、一つのテンプレートとして大量に存在し、その中で如何に独自のカラーを出すか、あるいは王道を突き詰めるか、といった作り込みが求められるジャンルに、本作も位置するとして問題ないだろう。
原作の場合は、音楽で発情する少女の特異性を前面に押し出し、エロを強調する事で読者の興味を惹き、そこに部活ものとしての努力や困難を絡め、常にエロありきで展開していく、という方向性をとっていた。音楽はエロに必然を持たせるための素材にすぎないと見ても過言ではない程に、である。そこに面白さがあったのだ。
にも拘らずこの映画版は、音楽部活映画の傑作『スウィングガールズ』の成功を意識したためか、あるいは登場人物達と同世代の若年層をメイン対象としたためか、エロは導入のスパイスに留め、音楽部活青春ものとしての側面に大きく偏った方向性をとっている。この事が本作の、雑多で散漫な仕上がりの根源にあるのだろう。
いい音楽を演奏すると発情し暴走してしまう少女を、だが音楽の才能は抜群にあるため部から外すわけにいかず、どうにかして暴走を押さえるべく試行錯誤する、との展開を表向きのメインストーリーとし、それに平行して部員達の技術や精神の成長を描いていくのが、原作のスタイルである。それを行うには当然、エロい場面をエロく演じられる出演者を起用しなければいけない。
だが出演者達は総じて、アイドル的な位置づけにある者達ばかり。当の発情少女・芹生ですら、元アイドルで現在は歌手の安良城紅では、エロい場面など撮れようもないのだ。実際、芹生と主人公・白波瀬(福本有希)が出会う場面では、発情を見せると思わせておいて、空高く舞い上がっていくという、非現実的な描写に逃げているのだ。ただし、そうした非現実的なイメージ描写で最後まで通すのであれば、それはそれで一つの方向性ではあるが、次の部室での再開場面では、原作に近いかたちで芹生が白波瀬を脱がせて押し倒し、続いて村雨に抱きついてキスする場面まで用意されている。にも拘らずエロはそこ止まりで、そこから先の発情も、発情に対する主に男子のリアクションもロクに描かれなくなるのでは、中途半端にすぎる。
芹生の発情暴走と理由の解明あるいは克服などが、ストーリーのメインにあるかの様に思わせながら、特に後半からはごく平凡な青春部活もののストーリーに安定してしまい、発情に対して何ら説得力のある解答を見せないままに終わられては、楽しめるわけがない。ラストの歌いながらの指揮は、その場面単独で見れば高揚感のあるシーンとも言えるが、何故発情せず暴走もせず歌う事で演奏しきれたのかが謎のままでは、ストーリー構成から逃げて適当に終わらせただけでしかない。
原作を適当に食い散らかして羅列しただけの脚本構成は、あまりに雑で中途半端だ。名門美ヶ丘高校に行く場面などがそのピークだろう。何をどの様に、誰の立場から見せたかったのか、その後の展開にどう繋げたかったのかなど全てが曖昧で、転機として成立していないのだ。
芹生が指揮者に定着した理由もなく(『タブー』の時はホルンパートがなかったからであって、他の曲にその理由は適用されない)、そもそも演奏と指揮では発情の反応が異なるのだろうか、といった根本的な疑問もスルーのままで先へ先へと進められては、話がどこへ向かっているのかも、どこを楽しめばいいのかもわからなくなる。
後半における、他のメンバー達の努力や協調をクローズアップする展開そのものは、部活ものの王道として狙いは理解出来るが、村雨目当てで入ったのが大半と最初に説明しておいて、村雨がいるのに芹生が抜けただけで大量に辞めてしまうなど、自分で決めた話すら抑えられていないのでは、行き当たりばったりにすぎる。最初からいる3人の部員は残留して、ここにきていきなりメインキャラの様にアップを多用され始めるも、結局最初から最後までその他大勢としての扱いしか受けいていないのだから、映像にエモーションが伴っていない。これなら部員を大量に辞めさせる必要はなく、最期の演奏の不自然な吹替えの違和感も軽減された筈だ。
とにかく人物描写が記号、類型、表層的なものばかりに終始し、あまつさえ上述の様に、誰をどう動かし捉えるかすら、何の考えもないとしか思えない有様なのだから、青春群像劇として成立していない。白波瀬歩を中学時代に振った少女(南明奈)が、何の用もなく最後まで出続けているなど、あまりに作劇が雑すぎる。
怪物キャラとして周囲を振り回すべき存在である芹生もまた、中途半端な描写と演出により、良い意味での個性を出せずに終わっている。これはエロを控えめとした時点でも既に必然ではあったが、それに加えて演じる安良城紅がビジュアル演技双方ともに全く魅力や能力に欠けている事が最大要因だろう。
芹生は原作でも、「昔のエロ本に登場するインチキ女子高生」と揶揄される、とても高校生には見えない大人びたビジュアルと巨乳の持ち主ではあるが、強面ながらも美人であり、喋りさえすれば結構普通の子であるとの設定で、だからこそ発情や暴走時のインパクトが強くなるのだ。では安良城紅はどうか。中途半端な馬面の老け顔は、確かに「昔のエロ本に登場するインチキ女子高生」的ではあるが、美人には当たらない。汚らしい茶髪が老け顔の印象を強めているのも、明らかにヘアメイクの失敗だ。だいたい、マトモに日本語も喋れない人間を、普通の日本人役として起用し、台詞を喋らせている時点で、マトモに映画を作る気などない事は明白だ。ドラマ版『カバチタレ!』に出演していた頃の香里奈や、少し前の岩佐真悠子の様なイメージが、本来の芹生であった筈。
スクールカースト下位キャラを演じる福本有希や足立理あたりは好キャスティングと言えるが、近野成美はキャラ演出がチグハグで、無理から乱暴な言葉を使わされているだけにしか見えない、岡田将生などは結局どんな人だったのかすらよくわからないまま、といった具合に、ストーリー、人物設定、人物描写、演出、演技、全てが中途半端なバラバラな状態。これでは作品として完全に破綻している。
結局、『スウィングガールズ』らに類する作品のヒットに安易に便乗し、様々な金勘定を優先させただけの、志の低い企画の時点から、面白い作品など生まれよう筈もない事は決定づけられていたのだ。監督も脚本も無名の若手なのだから尚更。
エロコメディとしてはそこそこ面白い原作が、この映画のせいで一緒くたに駄作扱いされやしないか、そちらが心配だ。
公式サイト
柏木ハルコの音楽部活エロコメディ漫画を実写映画化。
音楽に限らず部活やスポーツで皆が頑張って上手くなるタイプの作品は、一つのテンプレートとして大量に存在し、その中で如何に独自のカラーを出すか、あるいは王道を突き詰めるか、といった作り込みが求められるジャンルに、本作も位置するとして問題ないだろう。
原作の場合は、音楽で発情する少女の特異性を前面に押し出し、エロを強調する事で読者の興味を惹き、そこに部活ものとしての努力や困難を絡め、常にエロありきで展開していく、という方向性をとっていた。音楽はエロに必然を持たせるための素材にすぎないと見ても過言ではない程に、である。そこに面白さがあったのだ。
にも拘らずこの映画版は、音楽部活映画の傑作『スウィングガールズ』の成功を意識したためか、あるいは登場人物達と同世代の若年層をメイン対象としたためか、エロは導入のスパイスに留め、音楽部活青春ものとしての側面に大きく偏った方向性をとっている。この事が本作の、雑多で散漫な仕上がりの根源にあるのだろう。
いい音楽を演奏すると発情し暴走してしまう少女を、だが音楽の才能は抜群にあるため部から外すわけにいかず、どうにかして暴走を押さえるべく試行錯誤する、との展開を表向きのメインストーリーとし、それに平行して部員達の技術や精神の成長を描いていくのが、原作のスタイルである。それを行うには当然、エロい場面をエロく演じられる出演者を起用しなければいけない。
だが出演者達は総じて、アイドル的な位置づけにある者達ばかり。当の発情少女・芹生ですら、元アイドルで現在は歌手の安良城紅では、エロい場面など撮れようもないのだ。実際、芹生と主人公・白波瀬(福本有希)が出会う場面では、発情を見せると思わせておいて、空高く舞い上がっていくという、非現実的な描写に逃げているのだ。ただし、そうした非現実的なイメージ描写で最後まで通すのであれば、それはそれで一つの方向性ではあるが、次の部室での再開場面では、原作に近いかたちで芹生が白波瀬を脱がせて押し倒し、続いて村雨に抱きついてキスする場面まで用意されている。にも拘らずエロはそこ止まりで、そこから先の発情も、発情に対する主に男子のリアクションもロクに描かれなくなるのでは、中途半端にすぎる。
芹生の発情暴走と理由の解明あるいは克服などが、ストーリーのメインにあるかの様に思わせながら、特に後半からはごく平凡な青春部活もののストーリーに安定してしまい、発情に対して何ら説得力のある解答を見せないままに終わられては、楽しめるわけがない。ラストの歌いながらの指揮は、その場面単独で見れば高揚感のあるシーンとも言えるが、何故発情せず暴走もせず歌う事で演奏しきれたのかが謎のままでは、ストーリー構成から逃げて適当に終わらせただけでしかない。
原作を適当に食い散らかして羅列しただけの脚本構成は、あまりに雑で中途半端だ。名門美ヶ丘高校に行く場面などがそのピークだろう。何をどの様に、誰の立場から見せたかったのか、その後の展開にどう繋げたかったのかなど全てが曖昧で、転機として成立していないのだ。
芹生が指揮者に定着した理由もなく(『タブー』の時はホルンパートがなかったからであって、他の曲にその理由は適用されない)、そもそも演奏と指揮では発情の反応が異なるのだろうか、といった根本的な疑問もスルーのままで先へ先へと進められては、話がどこへ向かっているのかも、どこを楽しめばいいのかもわからなくなる。
後半における、他のメンバー達の努力や協調をクローズアップする展開そのものは、部活ものの王道として狙いは理解出来るが、村雨目当てで入ったのが大半と最初に説明しておいて、村雨がいるのに芹生が抜けただけで大量に辞めてしまうなど、自分で決めた話すら抑えられていないのでは、行き当たりばったりにすぎる。最初からいる3人の部員は残留して、ここにきていきなりメインキャラの様にアップを多用され始めるも、結局最初から最後までその他大勢としての扱いしか受けいていないのだから、映像にエモーションが伴っていない。これなら部員を大量に辞めさせる必要はなく、最期の演奏の不自然な吹替えの違和感も軽減された筈だ。
とにかく人物描写が記号、類型、表層的なものばかりに終始し、あまつさえ上述の様に、誰をどう動かし捉えるかすら、何の考えもないとしか思えない有様なのだから、青春群像劇として成立していない。白波瀬歩を中学時代に振った少女(南明奈)が、何の用もなく最後まで出続けているなど、あまりに作劇が雑すぎる。
怪物キャラとして周囲を振り回すべき存在である芹生もまた、中途半端な描写と演出により、良い意味での個性を出せずに終わっている。これはエロを控えめとした時点でも既に必然ではあったが、それに加えて演じる安良城紅がビジュアル演技双方ともに全く魅力や能力に欠けている事が最大要因だろう。
芹生は原作でも、「昔のエロ本に登場するインチキ女子高生」と揶揄される、とても高校生には見えない大人びたビジュアルと巨乳の持ち主ではあるが、強面ながらも美人であり、喋りさえすれば結構普通の子であるとの設定で、だからこそ発情や暴走時のインパクトが強くなるのだ。では安良城紅はどうか。中途半端な馬面の老け顔は、確かに「昔のエロ本に登場するインチキ女子高生」的ではあるが、美人には当たらない。汚らしい茶髪が老け顔の印象を強めているのも、明らかにヘアメイクの失敗だ。だいたい、マトモに日本語も喋れない人間を、普通の日本人役として起用し、台詞を喋らせている時点で、マトモに映画を作る気などない事は明白だ。ドラマ版『カバチタレ!』に出演していた頃の香里奈や、少し前の岩佐真悠子の様なイメージが、本来の芹生であった筈。
スクールカースト下位キャラを演じる福本有希や足立理あたりは好キャスティングと言えるが、近野成美はキャラ演出がチグハグで、無理から乱暴な言葉を使わされているだけにしか見えない、岡田将生などは結局どんな人だったのかすらよくわからないまま、といった具合に、ストーリー、人物設定、人物描写、演出、演技、全てが中途半端なバラバラな状態。これでは作品として完全に破綻している。
結局、『スウィングガールズ』らに類する作品のヒットに安易に便乗し、様々な金勘定を優先させただけの、志の低い企画の時点から、面白い作品など生まれよう筈もない事は決定づけられていたのだ。監督も脚本も無名の若手なのだから尚更。
エロコメディとしてはそこそこ面白い原作が、この映画のせいで一緒くたに駄作扱いされやしないか、そちらが心配だ。
2008年03月27日
デッド・サイレンス 66点(100点満点中)
震える舌
公式サイト
『SAW』の監督ジェームズ・ワンと脚本リー・ワネルが再びコンビを組んで送る、腹話術人形に込められた呪いを追うホラー映画。ジェフリー・ディーバーの小説『静寂の叫び』を原作とした、96年の同題映画とは無関係だ。
両人の出世作である『SAW』は、密室ゲームの閉塞感や、派手なギミックではなく理屈で興味を惹き驚かせるストーリーテリング、そして最後に明らかとなる真相の衝撃、と、低予算である制約をマイナスとせずむしろ活用して、ホラーやサスペンスの世界における新しいスタンダードと成り得た名作だったが、本作は、そうした特色も残しつつも、あらためて原典である王道ホラー映画に挑戦したものと見受けられる。
殺人人形の恐怖を題材とした作品としては、過去に『ドールズ』(86年、北野武作品に非ず)や『チャイルドプレイ』(88年)など、更に遡れば、68年に放送された日本の特撮番組『怪奇大作戦』内の『青い血の女』など、既にホラーの1ギミックとして定着したものだ。『SAW』に登場するジグソウ人形も、その路線上に位置する用法と言えるだろう。(本作にもコッソリ登場しているが、これは悪ノリがすぎる)
本作はそうした「人形は怖い」との一般認識を踏まえた上で、古典的欧米ホラー映画のカラーを踏襲しつつ、『リング』に代表される日本ホラーをも強く意識した作りとなっている。
始まって早々に最初の呪いを展開させ、その恐怖と衝撃で一気に観客を引きずり込んでおいて、そこから本筋である謎解きドラマが進んでいく導入部や、舞台上で恥をかいた女性がキーパーソンとなり、無念で無残な死を迎えた女性の呪いが人々を襲い、主人公は謎を追ってその女性の故郷を訪ね、いろいろあって解決し助かったと思ったら実は…とのオチに至るまで、『リング』の構成に酷似している事に気づいた人は多いだろう。
これは、日本はおろかハリウッドのホラー映画のスタイルを変貌させた『リング』なる作品が、テンプレートになり得る高い完成度を誇っている事の証であり、また同時に、『SAW』を作り出したクリエーターですら、『リング』の呪縛を乗り越える事が出来ないでいる証でもある。だがしかし、流石は『SAW』の作り手だけあって、単なる模倣には終わっていないのだから見事。
徐々に明らかとなっていく真相は実は、謎解きトリックにおいてはさして重要ではない事は、人に話を聞くだけでサクサク進んでいく展開からも瞭然である。本当の狙いは最後の最後で明らかとなる二段オチにあり、そこまでのストーリーが全てそのオチの準備であると提示される構成は、『SAW』と同様のものだ。
二つのオチそのものは、過去のホラー、猟奇作品などに同種のギミックが見受けられもするが、そこに至る直前まで真相に気づかせない様に、描写、演出が徹底されている事に注視すべきである。「途中で予想出来た」との声は、それは画面上に用意されている要素からではなく、脳内で先回りして思い描いたストーリーにおけるものに過ぎない筈。
そのオチを提示される事で、これまでの展開、描写において、オチへと導くための必然が用意されていた事にまで思いを至らせられ、納得、感心させられるべく、丁寧にフラッシュバックにて提示する手法を用いているのは、『SAW』と同様であり、作品の主目がここにあると確信出来る。
結局はそのオチの前振りに過ぎなかった本編ストーリーにおけるホラー描写も、「くるぞ、くるぞ〜」とジワジワと焦らし、緊張と期待を高めた上で急転させて驚かせ怖がらせる、という、やはり『リング』を強く意識したと思しく、呪い、幽霊ホラーとして的確な表現を巧みに重ねており、飽きの来ない様に構成されており娯楽性は高い。
『SAW』シリーズの様に、殊更に鮮血や臓物が飛び散るといった激しい残酷描写は控えめで、あくまでも呪いや人形による不気味さを主軸としつつ、全くの異形ではなく普通の人体から少し歪めた様を、呪い殺された犠牲者の姿として見せる事で、人体および人形を題材としている作品の特徴を活かした、ビジュアル的おぞましさを表現しているのも巧い。
人間を模した人形が持つ、人間でありながら人形の意匠を加えられた存在の持つ、それぞれ同じく不自然なおぞましさを同期させて観客の不快を生むべく作られている、ビジュアル的な要素をどう見るかで、本作の評価は大きく分かれそうにも思えるが、それは個々の感性の問題だろう。
刑事を悪役とし、いちいち主人公の邪魔をさせる事で、観客は刑事をイヤな奴だと思い、主人公の心情とシンクロして感情移入が果たされる事となる、人物配置や動かし方も的確だ。
ただし、いくら重要ではないとしても、何故今になって呪いが再開されたのか、完璧な人形が完成したからだとすれば、誰が作ったのかが気になるところだし、既に殺された人と生き残っている人の違いや、人形が発端となる事はわかっても、どんなシステムで呪いが発動し人を殺しているのかなど、曖昧な部分が多すぎるのは、脚本として乱暴に感じる。
惨殺死体が家族写真のごとく配置されている写真群も、視覚的なおぞましさは確かに強いが、ストーリーとしての必然が薄いのは困る。劇場の壁の隙間に主人公が入り込んで消える場面も、単に観客を驚かせたいだけとバレバレで、そう行動する必然が全くない、作為的にすぎるもので逆に興醒めさせられる。
オチを見た後にまた最初から見直したくてたまらなくなる『SAW』とは異なり、本作は確かに楽しめたが一度観たら充分と思わされてしまうのは、そうした至らなさによる部分が、あるいは大きいのだろう。
だがそんな不満も、オチからくる納得で綺麗に一掃され鑑賞後感はスッキリなのだから、作り手の狙いは充分に果たされているのだ。人によってはそれを、思うツボ、とも言うだろうが。
公式サイト
『SAW』の監督ジェームズ・ワンと脚本リー・ワネルが再びコンビを組んで送る、腹話術人形に込められた呪いを追うホラー映画。ジェフリー・ディーバーの小説『静寂の叫び』を原作とした、96年の同題映画とは無関係だ。
両人の出世作である『SAW』は、密室ゲームの閉塞感や、派手なギミックではなく理屈で興味を惹き驚かせるストーリーテリング、そして最後に明らかとなる真相の衝撃、と、低予算である制約をマイナスとせずむしろ活用して、ホラーやサスペンスの世界における新しいスタンダードと成り得た名作だったが、本作は、そうした特色も残しつつも、あらためて原典である王道ホラー映画に挑戦したものと見受けられる。
殺人人形の恐怖を題材とした作品としては、過去に『ドールズ』(86年、北野武作品に非ず)や『チャイルドプレイ』(88年)など、更に遡れば、68年に放送された日本の特撮番組『怪奇大作戦』内の『青い血の女』など、既にホラーの1ギミックとして定着したものだ。『SAW』に登場するジグソウ人形も、その路線上に位置する用法と言えるだろう。(本作にもコッソリ登場しているが、これは悪ノリがすぎる)
本作はそうした「人形は怖い」との一般認識を踏まえた上で、古典的欧米ホラー映画のカラーを踏襲しつつ、『リング』に代表される日本ホラーをも強く意識した作りとなっている。
始まって早々に最初の呪いを展開させ、その恐怖と衝撃で一気に観客を引きずり込んでおいて、そこから本筋である謎解きドラマが進んでいく導入部や、舞台上で恥をかいた女性がキーパーソンとなり、無念で無残な死を迎えた女性の呪いが人々を襲い、主人公は謎を追ってその女性の故郷を訪ね、いろいろあって解決し助かったと思ったら実は…とのオチに至るまで、『リング』の構成に酷似している事に気づいた人は多いだろう。
これは、日本はおろかハリウッドのホラー映画のスタイルを変貌させた『リング』なる作品が、テンプレートになり得る高い完成度を誇っている事の証であり、また同時に、『SAW』を作り出したクリエーターですら、『リング』の呪縛を乗り越える事が出来ないでいる証でもある。だがしかし、流石は『SAW』の作り手だけあって、単なる模倣には終わっていないのだから見事。
徐々に明らかとなっていく真相は実は、謎解きトリックにおいてはさして重要ではない事は、人に話を聞くだけでサクサク進んでいく展開からも瞭然である。本当の狙いは最後の最後で明らかとなる二段オチにあり、そこまでのストーリーが全てそのオチの準備であると提示される構成は、『SAW』と同様のものだ。
二つのオチそのものは、過去のホラー、猟奇作品などに同種のギミックが見受けられもするが、そこに至る直前まで真相に気づかせない様に、描写、演出が徹底されている事に注視すべきである。「途中で予想出来た」との声は、それは画面上に用意されている要素からではなく、脳内で先回りして思い描いたストーリーにおけるものに過ぎない筈。
そのオチを提示される事で、これまでの展開、描写において、オチへと導くための必然が用意されていた事にまで思いを至らせられ、納得、感心させられるべく、丁寧にフラッシュバックにて提示する手法を用いているのは、『SAW』と同様であり、作品の主目がここにあると確信出来る。
結局はそのオチの前振りに過ぎなかった本編ストーリーにおけるホラー描写も、「くるぞ、くるぞ〜」とジワジワと焦らし、緊張と期待を高めた上で急転させて驚かせ怖がらせる、という、やはり『リング』を強く意識したと思しく、呪い、幽霊ホラーとして的確な表現を巧みに重ねており、飽きの来ない様に構成されており娯楽性は高い。
『SAW』シリーズの様に、殊更に鮮血や臓物が飛び散るといった激しい残酷描写は控えめで、あくまでも呪いや人形による不気味さを主軸としつつ、全くの異形ではなく普通の人体から少し歪めた様を、呪い殺された犠牲者の姿として見せる事で、人体および人形を題材としている作品の特徴を活かした、ビジュアル的おぞましさを表現しているのも巧い。
人間を模した人形が持つ、人間でありながら人形の意匠を加えられた存在の持つ、それぞれ同じく不自然なおぞましさを同期させて観客の不快を生むべく作られている、ビジュアル的な要素をどう見るかで、本作の評価は大きく分かれそうにも思えるが、それは個々の感性の問題だろう。
刑事を悪役とし、いちいち主人公の邪魔をさせる事で、観客は刑事をイヤな奴だと思い、主人公の心情とシンクロして感情移入が果たされる事となる、人物配置や動かし方も的確だ。
ただし、いくら重要ではないとしても、何故今になって呪いが再開されたのか、完璧な人形が完成したからだとすれば、誰が作ったのかが気になるところだし、既に殺された人と生き残っている人の違いや、人形が発端となる事はわかっても、どんなシステムで呪いが発動し人を殺しているのかなど、曖昧な部分が多すぎるのは、脚本として乱暴に感じる。
惨殺死体が家族写真のごとく配置されている写真群も、視覚的なおぞましさは確かに強いが、ストーリーとしての必然が薄いのは困る。劇場の壁の隙間に主人公が入り込んで消える場面も、単に観客を驚かせたいだけとバレバレで、そう行動する必然が全くない、作為的にすぎるもので逆に興醒めさせられる。
オチを見た後にまた最初から見直したくてたまらなくなる『SAW』とは異なり、本作は確かに楽しめたが一度観たら充分と思わされてしまうのは、そうした至らなさによる部分が、あるいは大きいのだろう。
だがそんな不満も、オチからくる納得で綺麗に一掃され鑑賞後感はスッキリなのだから、作り手の狙いは充分に果たされているのだ。人によってはそれを、思うツボ、とも言うだろうが。
2008年03月26日
アフター・ウェディング 81点(100点満点中)
あー父さん母さーん あー感謝してーますー♪
公式サイト
デンマークの女性監督スザンネ・ビアによる、米アカデミー外国語映画賞ノミネート作品。同監督の『しあわせな孤独』にも出演していたマッツ・ミケルセンが主演となる。
幸せなラブストーリーを想起させるタイトルに反してヘヴィーな人間苦悩が繰り広げられるのは、前作『ある愛の風景』同様。基本的な作劇や演出、映像手法もまた、これまでの作品と大きく変わるところはないが、決してマンネリに陥らないのは、それだけ同監督の作家性が完成されているという事だろう。
家族を題材に、対比や対称、相似あるいは逆転の図式が描かれていく人物構図も変わらずだが、今回は特に、父親としての生き方を構図の主軸としている様に見受けられる。
主人公ヤコブ(マッツ・ミケルセン)と実業家ヨルゲンの二人が、父親像の投影として配置されている。実の子と育ての子というファクターを、二人それぞれに少し異なるかたちで背負わせながら、結果として"育ての子を手放す"同じ選択を双方に取らせるなど、比較によって人物像を彫り込み、一人の人物の感情描写から、別の人物の感情をも推測、想起させるべく作り込まれている。
ヨルゲンに生き方を左右する選択を迫られたヤコブが、今度は自分の養子(的存在)に同じく今後の人生を大きく左右する選択を迫る、相似の図式の後に、それぞれが選んだ結果は真逆のものとする、など、比較構図をパターン化せず様々に駆使する絡み合いが、単純化しないリアルなドラマを生んでいる。
序盤に娘の口から「父に本当の事を教えてもらった」と言わせておいて、終盤には、もう一つの秘密は教えてもらえなかったとし、互いに対する理想と現実の食い違いによって、愛や悲劇を単純化しないなど、似た図式をずらして反復させる手法の巧みさにより、説得力のある感動へ導かれる事となる。
判明する二つの大きな秘密自体は、大映ドラマや韓流ドラマにありがちなものであり、それそのものは特筆すべきファクターではないが、それを決してベタなメロドラマに終わらせずに、監督得意の手法にて、固執する志向と思う様にいかない現実の狭間で苦悩する人間を描いているのだから、やはり創作にとって大切なのは、題材よりも表現手法に尽きるのだと再認識させられる。
複数の人物がそれぞれの思惑を抱えて絡み合うドラマを、本作では基本的に一対一の局面を多用して事態を推移させる事で、比較構図がより明確となり観客の理解や認識も容易となるべく構成されていると見出せれば、手法が的確であると一層に感心させられるだろう。家族が集うなどの場面でも、人物関係を描く段に至っては、対峙する二人以外は背景と化してしまう程に無駄なく用いられているのだ。
監督による男性像や女性像の特徴は、『ある愛の風景』レビューにて既に書いたので重複は避けるが、二人の父親の人物像と母親あるいは娘のそれを比較すれば、本作でも変わらない事は明白。子供の使い方が優れているなども同様。それにしても毎度、娘役のビジュアルおよび演技の魅力高さには畏れ入る。
主要人物が出揃うまでの展開があまりにも出来すぎていると観客に思わせておいて、劇中にて「出来すぎだ」と言わせる事で、これは誰かが何らかの目的で仕組んだ事であると、観客に対し真相への興味を抱かせるべくコントロールするといった様に、予想を先回りして興味を持続させる作劇も秀逸。
インパクトの強い題材を選択した前作『ある愛の風景』に比べれば、確かに重くはあるものの大人しめな印象を受けるが、完成された創作テクニックは健在であり、映画好きならば間違いなく楽しめる傑作である事に相違ない。
ハリウッドデビューとなる次作『悲しみが乾くまで』への期待も高まるというもの。
公式サイト
デンマークの女性監督スザンネ・ビアによる、米アカデミー外国語映画賞ノミネート作品。同監督の『しあわせな孤独』にも出演していたマッツ・ミケルセンが主演となる。
幸せなラブストーリーを想起させるタイトルに反してヘヴィーな人間苦悩が繰り広げられるのは、前作『ある愛の風景』同様。基本的な作劇や演出、映像手法もまた、これまでの作品と大きく変わるところはないが、決してマンネリに陥らないのは、それだけ同監督の作家性が完成されているという事だろう。
家族を題材に、対比や対称、相似あるいは逆転の図式が描かれていく人物構図も変わらずだが、今回は特に、父親としての生き方を構図の主軸としている様に見受けられる。
主人公ヤコブ(マッツ・ミケルセン)と実業家ヨルゲンの二人が、父親像の投影として配置されている。実の子と育ての子というファクターを、二人それぞれに少し異なるかたちで背負わせながら、結果として"育ての子を手放す"同じ選択を双方に取らせるなど、比較によって人物像を彫り込み、一人の人物の感情描写から、別の人物の感情をも推測、想起させるべく作り込まれている。
ヨルゲンに生き方を左右する選択を迫られたヤコブが、今度は自分の養子(的存在)に同じく今後の人生を大きく左右する選択を迫る、相似の図式の後に、それぞれが選んだ結果は真逆のものとする、など、比較構図をパターン化せず様々に駆使する絡み合いが、単純化しないリアルなドラマを生んでいる。
序盤に娘の口から「父に本当の事を教えてもらった」と言わせておいて、終盤には、もう一つの秘密は教えてもらえなかったとし、互いに対する理想と現実の食い違いによって、愛や悲劇を単純化しないなど、似た図式をずらして反復させる手法の巧みさにより、説得力のある感動へ導かれる事となる。
判明する二つの大きな秘密自体は、大映ドラマや韓流ドラマにありがちなものであり、それそのものは特筆すべきファクターではないが、それを決してベタなメロドラマに終わらせずに、監督得意の手法にて、固執する志向と思う様にいかない現実の狭間で苦悩する人間を描いているのだから、やはり創作にとって大切なのは、題材よりも表現手法に尽きるのだと再認識させられる。
複数の人物がそれぞれの思惑を抱えて絡み合うドラマを、本作では基本的に一対一の局面を多用して事態を推移させる事で、比較構図がより明確となり観客の理解や認識も容易となるべく構成されていると見出せれば、手法が的確であると一層に感心させられるだろう。家族が集うなどの場面でも、人物関係を描く段に至っては、対峙する二人以外は背景と化してしまう程に無駄なく用いられているのだ。
監督による男性像や女性像の特徴は、『ある愛の風景』レビューにて既に書いたので重複は避けるが、二人の父親の人物像と母親あるいは娘のそれを比較すれば、本作でも変わらない事は明白。子供の使い方が優れているなども同様。それにしても毎度、娘役のビジュアルおよび演技の魅力高さには畏れ入る。
主要人物が出揃うまでの展開があまりにも出来すぎていると観客に思わせておいて、劇中にて「出来すぎだ」と言わせる事で、これは誰かが何らかの目的で仕組んだ事であると、観客に対し真相への興味を抱かせるべくコントロールするといった様に、予想を先回りして興味を持続させる作劇も秀逸。
インパクトの強い題材を選択した前作『ある愛の風景』に比べれば、確かに重くはあるものの大人しめな印象を受けるが、完成された創作テクニックは健在であり、映画好きならば間違いなく楽しめる傑作である事に相違ない。
ハリウッドデビューとなる次作『悲しみが乾くまで』への期待も高まるというもの。
2008年03月25日
燃えよ!ピンポン 80点(100点満点中)08-090
力士は絶滅寸前の保護動物なんだよ
公式サイト
ハートフルドタバタコメディ『ナイトミュージアム』の脚本を手がけたロバート・ベン・ガラントとトーマス・レノンの共同脚本および、ロバート・ベン・ガラント監督によって製作された、卓球コメディ映画。
導入部の展開などから、近作スポーツコメディ『俺たちフィギュアスケーター』と類似した作品であるとの印象を受けるが、実際の本筋は『少林サッカー』に近い、香港コメディ映画のテイストで作られている。
卓球が中国のお家芸である事はアメリカでも知られているらしく、インチキオリエンタル要素を前面に押し出しており、特に『燃えよドラゴン』のパロディが基調となるストーリー展開が始まってからというもの、それは顕著となる。冒頭の過去エピソードをソウルオリンピックと設定した事も、オリエンタルな方向性によるものであって、決して時代性を醸すだけの意味ではないことは明らかだ。本作の原題『Balls of Fury』が、『ドラゴン怒りの鉄拳(Fist of Fury)』のパロディであると気づけば殊更である。
アメリカ人を主人公に、卓球を題材に、『燃えよドラゴン』のパロディと、てんでバラバラな要素ながら上手い具合に渾然一体のカラーを発揮しているのは、先述の通り『少林サッカー』的ノリを採用した事による成功だろう。
その『少林サッカー』、日本では『キャプテン翼』との類似があれこれ言われていたが、漫画で喩えるならば島本和彦の諸作品がむしろ相当するものだ。力が入りすぎた大仰なアクションとリアクションおよび脱力ギャグの応酬を前面に押し出してそのギャップで娯楽性を高めておいて、シリアスな魂の叫びを堂々と謳う事で、それが真に迫る説得力を持って受け手側を燃えさせ感動させる、シリアスとコミカルがともにハイテンションに混淆した、独自の作風を誇っているのが、島本作品である。
本作も同様に、燃えるシリアスと脱力するコミカルの境界を意図的に曖昧とし、どちらとも取れるシチュエーションやネタを各所に用意している事で、単なるバカコメディでもスポ根でもない独特のノリを醸し、興味の方向性を一様とせず飽きさせない事に成功している。
ツッコミがなく(尻には突っ込んでいたが)どんどん先に進む、日本とは異なるコメディ構成である上に、「ここは笑うだけのところ」「ここは真面目なだけのところ」との割り切りを行わず、その双方を混在させたかたちで表現している本作は、頭の固い人間には理解し難いものであることも容易に想像出来る。だがそれは観る側の問題だ。
ラリーを続けながらどんどん外に出て行ってしまうクライマックスの展開を、単なるギャグとしてしか受け止められないのか、それとも白熱する勝負としても受け止める事が出来るのかでは、楽しめる度合いは大きく違ってくる。もちろんその場面は、その両方のテイストが込められており、そのギャップから生じる独自の面白さのみならず、周りが見えないかの様に勝負に熱中する二人と、周囲の大騒ぎとのギャップなど、あらゆる部分でシリアスとコミカルのギャップあるいは混淆を、作劇や演出に絡ませきっているのだ。(その意味では今川泰宏作品に通ずるところもある)
随所に挿入されるマギーQによる格闘アクションを、真面目に格闘アクションとして撮影しているのも、興味を単調としないためのもので、彼女の引き締まりすぎた肢体によるメリハリの利いた動きは、それだけで充分に娯楽足り得るものだ。肌やプロポーションを殊更に強調するコスチュームだからこそ尚更。(貧乳なのに胸筋で谷間が出来ているのが凄い)
彼女ともう一人、重要な役割にて登場する中国人少女もまた、マギーQと同じく顔は地味ながらも、衣装やヘアメイクによって、オリエンタルな魅力が最大限に引き出されており見どころ足り得ている。二人揃ってツンデレキャラなのも、心得た人物設定と評価出来る。
人体を使った壁打ちテクニックを、当初はブラックなギャグとして見せ、その時には人を死なせる事で観客に強く印象づけておき、かなり後になってその技を復活させ、今度はギャグではなく人を救うために使わせるといった様に、ギャグとシリアスの混淆が、伏線や繰り返しによるストーリー構成にも活かされるなど、単なるギャグ、パロディには絶対終わらせないとの意図が強く感じられるものだ。
だが、中盤の展開にて、修行シーンとドラゴンとの対決との間に、主人公が強さを取り戻したとの描写がないため、主人公が強くなったというよりドラゴンが弱いだけに見えてしまうのは問題だ。散々煽っていたドラゴンの正体が正体だけに、余計に弱く感じられてしまうのだから、この部分はもうひと捻り欲しかった。ドラゴンのキャラクター自体は秀逸なだけに惜しい。
もちろん、愛人メンズの鬱陶しさパンダオチ、あるいはメクラやシャム双生児ネタなど、単純にブラックなギャグとして笑い飛ばせる部分も用意されているのだから、島本和彦的なノリについていけなくとも、楽しむ事は可能だろう。
最後の脱出シーンがディズニーランドのジャングルクルーズっぽいのも小憎い仕掛けだ。これは間違いなく意図的なフリとオチの図式だろう。
『ナイトミュージアム』に続き、センスのいい作劇が楽しめる本作。この脚本コンビは今後が楽しみだ。
公式サイト
ハートフルドタバタコメディ『ナイトミュージアム』の脚本を手がけたロバート・ベン・ガラントとトーマス・レノンの共同脚本および、ロバート・ベン・ガラント監督によって製作された、卓球コメディ映画。
導入部の展開などから、近作スポーツコメディ『俺たちフィギュアスケーター』と類似した作品であるとの印象を受けるが、実際の本筋は『少林サッカー』に近い、香港コメディ映画のテイストで作られている。
卓球が中国のお家芸である事はアメリカでも知られているらしく、インチキオリエンタル要素を前面に押し出しており、特に『燃えよドラゴン』のパロディが基調となるストーリー展開が始まってからというもの、それは顕著となる。冒頭の過去エピソードをソウルオリンピックと設定した事も、オリエンタルな方向性によるものであって、決して時代性を醸すだけの意味ではないことは明らかだ。本作の原題『Balls of Fury』が、『ドラゴン怒りの鉄拳(Fist of Fury)』のパロディであると気づけば殊更である。
アメリカ人を主人公に、卓球を題材に、『燃えよドラゴン』のパロディと、てんでバラバラな要素ながら上手い具合に渾然一体のカラーを発揮しているのは、先述の通り『少林サッカー』的ノリを採用した事による成功だろう。
その『少林サッカー』、日本では『キャプテン翼』との類似があれこれ言われていたが、漫画で喩えるならば島本和彦の諸作品がむしろ相当するものだ。力が入りすぎた大仰なアクションとリアクションおよび脱力ギャグの応酬を前面に押し出してそのギャップで娯楽性を高めておいて、シリアスな魂の叫びを堂々と謳う事で、それが真に迫る説得力を持って受け手側を燃えさせ感動させる、シリアスとコミカルがともにハイテンションに混淆した、独自の作風を誇っているのが、島本作品である。
本作も同様に、燃えるシリアスと脱力するコミカルの境界を意図的に曖昧とし、どちらとも取れるシチュエーションやネタを各所に用意している事で、単なるバカコメディでもスポ根でもない独特のノリを醸し、興味の方向性を一様とせず飽きさせない事に成功している。
ツッコミがなく(尻には突っ込んでいたが)どんどん先に進む、日本とは異なるコメディ構成である上に、「ここは笑うだけのところ」「ここは真面目なだけのところ」との割り切りを行わず、その双方を混在させたかたちで表現している本作は、頭の固い人間には理解し難いものであることも容易に想像出来る。だがそれは観る側の問題だ。
ラリーを続けながらどんどん外に出て行ってしまうクライマックスの展開を、単なるギャグとしてしか受け止められないのか、それとも白熱する勝負としても受け止める事が出来るのかでは、楽しめる度合いは大きく違ってくる。もちろんその場面は、その両方のテイストが込められており、そのギャップから生じる独自の面白さのみならず、周りが見えないかの様に勝負に熱中する二人と、周囲の大騒ぎとのギャップなど、あらゆる部分でシリアスとコミカルのギャップあるいは混淆を、作劇や演出に絡ませきっているのだ。(その意味では今川泰宏作品に通ずるところもある)
随所に挿入されるマギーQによる格闘アクションを、真面目に格闘アクションとして撮影しているのも、興味を単調としないためのもので、彼女の引き締まりすぎた肢体によるメリハリの利いた動きは、それだけで充分に娯楽足り得るものだ。肌やプロポーションを殊更に強調するコスチュームだからこそ尚更。(貧乳なのに胸筋で谷間が出来ているのが凄い)
彼女ともう一人、重要な役割にて登場する中国人少女もまた、マギーQと同じく顔は地味ながらも、衣装やヘアメイクによって、オリエンタルな魅力が最大限に引き出されており見どころ足り得ている。二人揃ってツンデレキャラなのも、心得た人物設定と評価出来る。
人体を使った壁打ちテクニックを、当初はブラックなギャグとして見せ、その時には人を死なせる事で観客に強く印象づけておき、かなり後になってその技を復活させ、今度はギャグではなく人を救うために使わせるといった様に、ギャグとシリアスの混淆が、伏線や繰り返しによるストーリー構成にも活かされるなど、単なるギャグ、パロディには絶対終わらせないとの意図が強く感じられるものだ。
だが、中盤の展開にて、修行シーンとドラゴンとの対決との間に、主人公が強さを取り戻したとの描写がないため、主人公が強くなったというよりドラゴンが弱いだけに見えてしまうのは問題だ。散々煽っていたドラゴンの正体が正体だけに、余計に弱く感じられてしまうのだから、この部分はもうひと捻り欲しかった。ドラゴンのキャラクター自体は秀逸なだけに惜しい。
もちろん、愛人メンズの鬱陶しさパンダオチ、あるいはメクラやシャム双生児ネタなど、単純にブラックなギャグとして笑い飛ばせる部分も用意されているのだから、島本和彦的なノリについていけなくとも、楽しむ事は可能だろう。
最後の脱出シーンがディズニーランドのジャングルクルーズっぽいのも小憎い仕掛けだ。これは間違いなく意図的なフリとオチの図式だろう。
『ナイトミュージアム』に続き、センスのいい作劇が楽しめる本作。この脚本コンビは今後が楽しみだ。
2008年03月24日
Sweet Rain 死神の精度 42点(100点満点中)
サラリーマン死神
公式サイト
えんどコイチの名作漫画『死神くん』を彷彿とさせる、伊坂幸太郎の短編連作小説『死神の精度』を映画化。監督は『美女缶』の筧昌也。
上述の『美女缶』や近作ではTVドラマ『ロス:タイム:ライフ』など、現実世界に一つだけ有り得ない事物が投入されて起こるドタバタ劇を得意としている筧昌也だけに、"死神"という異種が現実世界へ干渉、あるいは俯瞰する事で生じるギャップをコミカルに描いている本原作とは、悪くない取り合わせとも思わされていたが、大規模公開の映画として初だからか、どうにもチグハグな出来に終わっている。
最初(『死神の精度』)と最後(『 死神対老女』)のエピソードに明確なつながりを持たせ、間に挟まる複数のエピソードとも世界観は共通させる、オムニバス形式をとっていた原作を映画化するにあたり、間のエピソードを省略し減らすのは当然の事として、省略せず選んだエピソード(『死神と藤田』)をも、最初と最後の間に挟まる意義のあるものとすべく、背景のみならず人間関係にも繋がりを持たせているのは、ストーリーをブツ切りの羅列に終わらせない、いい改変と言える。
また、死神を演じる金城武の台詞回しの不自然さが、キャラクターとしてのトボケた味となっているのも、結果としては成功だろう。毎回別人の姿となる原作とは異なり服装や髪型が変わるだけだが、これもコスプレ的な面白さを醸しており、決して悪くはない。
だが、パートナーが犬になっているのはいいとして、その犬がいたりいなかったりする意味が明確ではなく、犬である意味がビジュアルの面白さ以外に無いのでは設定負けだ。むしろ死神という存在が、組織の一構成員にすぎない設定を、わかりにくくしてはいないか。カラスとの関連なども曖昧で、中途半端に感じる。
最終話に登場するアンドロイドの存在も、監督のこれまでの仕事を見るに、趣味が先行しているだけの感が強い。
ストーリーの流れとして、富司純子演じる老美容師が、家族らしき相手と「あんたがそうしたいなら、それでいいよ〜」などと会話していた直後に手にするのがアンドロイドの取説で、続いてアンドロイドの機動シーンを見せられる。しばらく後、美容院を尋ねた子供がアンドロイドに「久しぶり!」と挨拶し、アンドロイドは「大きくなったね」と返す。これらのくだりから、このアンドロイド竹子(奥田恵梨華)の存在が、美容師の家族と何らかの関わりがあるのか、あるいはしばらくの間姿を消していた事から、死んだ家族の変わりにソックリなアンドロイドを用意したのか、といったストーリーが浮かぶも結局何もないのだから困る。
この作劇、ミスリードを誘うといった手法ではなく、単に構成が雑多なだけである。それは、命がテーマとなっている本作において、命のない存在であるアンドロイドを出しておきながら、死神と意味のある関わりを持たせないなど、何も考えていない使い方に終始している事からも明らかだ。老女が人間関係の辛さから逃避してアンドロイドとの生活を選んだとの解釈は、接客業を営んでいる設定と食い違うものだ。
前二話では背景あるいはさりげない小道具として匂わせていた時代性を、ラストに至って殊更に強調する仕掛けとして見せつけるのも、せっかくの世界観を損ねている。そもそも、死神という現実として有り得ない事物を、現実世界を舞台とした物語の中で違和感なく扱うには、それ以外の構成要素はリアルを追求したものでなければ、全てが作り事の絵空事でしかなくなってしまうとは、SFやファンタジーの基本原則である。異物は死神だけで充分な筈だ。
また、その最終エピソードにて、受け手側が安易に推測した老女の正体が、原作ではそう思わせておいて実は少し違う人だった、としているトリックをなくし、そのまんまその人というオチに簡略化してしまっている事が気にかかる。3つのエピソードに繋がりを持たせ、奇麗にまとまって終わらせたいとの意図による変更と推測されるも、伊坂作品から予想を裏切るオチを奪ってしまっては本末転倒だ。このせいで、ストーリーが極めて安易な予定調和に終わった感が強くなり、逆にその人物の人生は波瀾万丈すぎて不自然極まりない事になっている。
ストーカー(この時代まだその用法はなかったので使っていないのは上手い)の行動があまりにもストーカーすぎ、対象者がストーカー殺人で死んでしまうのかとミスリードさせるまではいいとして、だがそのせいでオチの真相から説得力が失われ、取ってつけた様な言い訳にしか感じられなくなったのでは、伏線として成立していない。
そもそも、小西真奈美はどう見ても醜い顔ではなく、声だけを聞いてその声の美しさを評価された、という物語内容と噛み合っていないではないか。そうした脚本とキャスティングの齟齬や、原作にはない「ナンパ」と「難破」のくだりの寒々しさなど、演出のクドさや冗長さが多々引っかかり、チグハグな印象の要因となっている。
原作の持ち味と監督の志向やセンスが、思惑に反してミスマッチとなってしまった結果だろうか。いろいろと勿体ない作品ではある。
公式サイト
えんどコイチの名作漫画『死神くん』を彷彿とさせる、伊坂幸太郎の短編連作小説『死神の精度』を映画化。監督は『美女缶』の筧昌也。
上述の『美女缶』や近作ではTVドラマ『ロス:タイム:ライフ』など、現実世界に一つだけ有り得ない事物が投入されて起こるドタバタ劇を得意としている筧昌也だけに、"死神"という異種が現実世界へ干渉、あるいは俯瞰する事で生じるギャップをコミカルに描いている本原作とは、悪くない取り合わせとも思わされていたが、大規模公開の映画として初だからか、どうにもチグハグな出来に終わっている。
最初(『死神の精度』)と最後(『 死神対老女』)のエピソードに明確なつながりを持たせ、間に挟まる複数のエピソードとも世界観は共通させる、オムニバス形式をとっていた原作を映画化するにあたり、間のエピソードを省略し減らすのは当然の事として、省略せず選んだエピソード(『死神と藤田』)をも、最初と最後の間に挟まる意義のあるものとすべく、背景のみならず人間関係にも繋がりを持たせているのは、ストーリーをブツ切りの羅列に終わらせない、いい改変と言える。
また、死神を演じる金城武の台詞回しの不自然さが、キャラクターとしてのトボケた味となっているのも、結果としては成功だろう。毎回別人の姿となる原作とは異なり服装や髪型が変わるだけだが、これもコスプレ的な面白さを醸しており、決して悪くはない。
だが、パートナーが犬になっているのはいいとして、その犬がいたりいなかったりする意味が明確ではなく、犬である意味がビジュアルの面白さ以外に無いのでは設定負けだ。むしろ死神という存在が、組織の一構成員にすぎない設定を、わかりにくくしてはいないか。カラスとの関連なども曖昧で、中途半端に感じる。
最終話に登場するアンドロイドの存在も、監督のこれまでの仕事を見るに、趣味が先行しているだけの感が強い。
ストーリーの流れとして、富司純子演じる老美容師が、家族らしき相手と「あんたがそうしたいなら、それでいいよ〜」などと会話していた直後に手にするのがアンドロイドの取説で、続いてアンドロイドの機動シーンを見せられる。しばらく後、美容院を尋ねた子供がアンドロイドに「久しぶり!」と挨拶し、アンドロイドは「大きくなったね」と返す。これらのくだりから、このアンドロイド竹子(奥田恵梨華)の存在が、美容師の家族と何らかの関わりがあるのか、あるいはしばらくの間姿を消していた事から、死んだ家族の変わりにソックリなアンドロイドを用意したのか、といったストーリーが浮かぶも結局何もないのだから困る。
この作劇、ミスリードを誘うといった手法ではなく、単に構成が雑多なだけである。それは、命がテーマとなっている本作において、命のない存在であるアンドロイドを出しておきながら、死神と意味のある関わりを持たせないなど、何も考えていない使い方に終始している事からも明らかだ。老女が人間関係の辛さから逃避してアンドロイドとの生活を選んだとの解釈は、接客業を営んでいる設定と食い違うものだ。
前二話では背景あるいはさりげない小道具として匂わせていた時代性を、ラストに至って殊更に強調する仕掛けとして見せつけるのも、せっかくの世界観を損ねている。そもそも、死神という現実として有り得ない事物を、現実世界を舞台とした物語の中で違和感なく扱うには、それ以外の構成要素はリアルを追求したものでなければ、全てが作り事の絵空事でしかなくなってしまうとは、SFやファンタジーの基本原則である。異物は死神だけで充分な筈だ。
また、その最終エピソードにて、受け手側が安易に推測した老女の正体が、原作ではそう思わせておいて実は少し違う人だった、としているトリックをなくし、そのまんまその人というオチに簡略化してしまっている事が気にかかる。3つのエピソードに繋がりを持たせ、奇麗にまとまって終わらせたいとの意図による変更と推測されるも、伊坂作品から予想を裏切るオチを奪ってしまっては本末転倒だ。このせいで、ストーリーが極めて安易な予定調和に終わった感が強くなり、逆にその人物の人生は波瀾万丈すぎて不自然極まりない事になっている。
ストーカー(この時代まだその用法はなかったので使っていないのは上手い)の行動があまりにもストーカーすぎ、対象者がストーカー殺人で死んでしまうのかとミスリードさせるまではいいとして、だがそのせいでオチの真相から説得力が失われ、取ってつけた様な言い訳にしか感じられなくなったのでは、伏線として成立していない。
そもそも、小西真奈美はどう見ても醜い顔ではなく、声だけを聞いてその声の美しさを評価された、という物語内容と噛み合っていないではないか。そうした脚本とキャスティングの齟齬や、原作にはない「ナンパ」と「難破」のくだりの寒々しさなど、演出のクドさや冗長さが多々引っかかり、チグハグな印象の要因となっている。
原作の持ち味と監督の志向やセンスが、思惑に反してミスマッチとなってしまった結果だろうか。いろいろと勿体ない作品ではある。
2008年03月23日
マイ・ブルーベリー・ナイツ 3点(100点満点中)
王監督と表記すると誤解される
公式サイト
王家衛監督、ノラ・ジョーンズ主演による恋愛ロードムービー。
アメリカを舞台としているがそう見えないのは、中国とフランスの合作という製作事情によるものか、あるいは王家衛の作家性と英語の台詞がミスマッチを起こしているからか。ともかく、王家衛作品に特有の中身のなさだけは健在。
もともとハードソフトの両面で、これ見よがしに押し付けがましい作風を持つ王家衛だが、本作ではカメラマンがいつものクリストファー・ドイルで無いからか、映像的な面において、その押し付けがましさが悪い方向へばかり出ている様にも見受けられる。
最初と最後およびインターミッションの舞台となるNYのダイナー場面では、店内をガラス越しに外から撮影し、ガラスに書かれている文字をピンボケで映り込ませる手法をとっているが、まずこれからして、いかにも凝ってますよと言わんばかりのあざとさ全開である。実際には単に、汚れたメガネを強制的にかけさせられている様で見辛いだけで、オマケに話されている内容が中身のない上滑りな、これまたあざとく押し付けがましい禅問答でしかないのだから、楽しみどころが全く見当たらない。大体、外からの視点なのに音声だけは内側のままなので、余計に違和感が生じ見辛くなるのだ。
標題のブルーベリーパイを超アップにした映像をところどころに挿んでいるが、内蔵にザーメンをぶっかけている変態グロ画像にしか見えず、隠喩のエモーション映像として全く成立していない。そもそも、ただでさえ甘ったるいパイに更にアイスを添えるなどという、いかにもアメリカンらしい品のなさをオシャレ材料としている時点で、本来オシャレに求められる上品さとは程遠いのだが。
走る電車のスローや、人物の動きをコマ落としにするなどの、王家衛が多用する映像演出も、ストーリー的にも心情的にも何の意味もなく、またまた押し付けがましいあざとさに辟易させられるだけ。香港の街並を捉えた過去作でもそうだが、人工的なケバケバしさを美しさと勘違いしているとしか思えないセンスのなさが、本作では殊更に顕著に露呈してしまった模様。いい仕事と感じたのは、エンドロールの進行がやたらと速く、苦痛に耐える時間が少しは軽減された事くらいだ。
主演がノラ・ジョーンズなのは、いろいろな力関係が働いたのだろうが、彼女はあくまでも歌い手としての存在価値があるだけであって、見た目的には平凡どころかブスに類するサル顔でしかなく、とても正統なラブストーリーのヒロインに相応しくはない。
実際に、インターミッションに登場する相手役ジュード・ロウの元彼女に、ノラよりも更にブサイクな女性がキャスティングされているのは、彼がブス専であるとの設定にする事で吊り合いの取れなさを言い訳しているのだろうか。一方でノラが旅先で出会う二人の女性が、美人女優の中でも特に美人と誰もが認めるレイチェル・ワイズとナタリー・ポートマンなのは、あるいは何らかの意趣返しなのだろうか。などと邪推させられる次第。
映像はオシャレを気取って見辛いだけ、ダイアローグもオシャレを気取って中身カラッポときて、ストーリー自体もまた何の中身もないのだから呆れる。80年代からバブル期にかけて、日本にて漫画や小説、ドラマなどで粗製濫造された類いの、当時からすでに恥ずかしく、今見れば恥ずかしいを通りこして怒りすら覚えるゴミの山と大差ないものを、今作ってどうしようというのか。
偶然出会ったイケメンがいい人で、でもそんな彼をおいて自分勝手に自分探し(笑)の旅に出て、自分の感情の捌け口として男に手紙を出し続け男の側からの返事は求めない一方通行、と、完全に自分の都合しか考えず、卑怯にも逃げ場所を確保してその自覚すらない最低バカ女(しかもブス)を、それでも男は恋いこがれて待ってくれている、などと、子供向け少女漫画レベルな幼稚極まりない主人公のストーリー。更に旅先の二つのエピソードでも、登場する女性二人はそれぞれ大切な男性に死なれながらも、自分だけは強く生きていこうとする、と、やはり男を踏み台、利用しているだけのストーリーばかり。自分大好きで未熟で愚かなスイーツ女くらいしか、こんなアホな話は面白がれないだろう。
散々旅しておいて、NYに帰ってきて最初に確認するのが振られた元カレの部屋では、結局何も成長しておらず、旅先での出会いの意味がないではないか。たまたま既に出払っていたから話が進んだのも都合が良すぎるというもの、これではジュード・ロウは本当に都合のいい逃げ場所でしかない。これで愛を描いているなどと、大人をバカにするにも程がある。
この種の映画を好きと称する事で、何の取り柄もない自分までもがオシャレセンスになった気がしてしまう、未熟な自分大好き人間向けの幼稚なオシャレぶりっ子映画にすぎない。
ノラ・ジョーンズの歌と同様、睡眠導入剤としては最適だが、それ以外の価値は特に無い。
公式サイト
王家衛監督、ノラ・ジョーンズ主演による恋愛ロードムービー。
アメリカを舞台としているがそう見えないのは、中国とフランスの合作という製作事情によるものか、あるいは王家衛の作家性と英語の台詞がミスマッチを起こしているからか。ともかく、王家衛作品に特有の中身のなさだけは健在。
もともとハードソフトの両面で、これ見よがしに押し付けがましい作風を持つ王家衛だが、本作ではカメラマンがいつものクリストファー・ドイルで無いからか、映像的な面において、その押し付けがましさが悪い方向へばかり出ている様にも見受けられる。
最初と最後およびインターミッションの舞台となるNYのダイナー場面では、店内をガラス越しに外から撮影し、ガラスに書かれている文字をピンボケで映り込ませる手法をとっているが、まずこれからして、いかにも凝ってますよと言わんばかりのあざとさ全開である。実際には単に、汚れたメガネを強制的にかけさせられている様で見辛いだけで、オマケに話されている内容が中身のない上滑りな、これまたあざとく押し付けがましい禅問答でしかないのだから、楽しみどころが全く見当たらない。大体、外からの視点なのに音声だけは内側のままなので、余計に違和感が生じ見辛くなるのだ。
標題のブルーベリーパイを超アップにした映像をところどころに挿んでいるが、内蔵にザーメンをぶっかけている変態グロ画像にしか見えず、隠喩のエモーション映像として全く成立していない。そもそも、ただでさえ甘ったるいパイに更にアイスを添えるなどという、いかにもアメリカンらしい品のなさをオシャレ材料としている時点で、本来オシャレに求められる上品さとは程遠いのだが。
走る電車のスローや、人物の動きをコマ落としにするなどの、王家衛が多用する映像演出も、ストーリー的にも心情的にも何の意味もなく、またまた押し付けがましいあざとさに辟易させられるだけ。香港の街並を捉えた過去作でもそうだが、人工的なケバケバしさを美しさと勘違いしているとしか思えないセンスのなさが、本作では殊更に顕著に露呈してしまった模様。いい仕事と感じたのは、エンドロールの進行がやたらと速く、苦痛に耐える時間が少しは軽減された事くらいだ。
主演がノラ・ジョーンズなのは、いろいろな力関係が働いたのだろうが、彼女はあくまでも歌い手としての存在価値があるだけであって、見た目的には平凡どころかブスに類するサル顔でしかなく、とても正統なラブストーリーのヒロインに相応しくはない。
実際に、インターミッションに登場する相手役ジュード・ロウの元彼女に、ノラよりも更にブサイクな女性がキャスティングされているのは、彼がブス専であるとの設定にする事で吊り合いの取れなさを言い訳しているのだろうか。一方でノラが旅先で出会う二人の女性が、美人女優の中でも特に美人と誰もが認めるレイチェル・ワイズとナタリー・ポートマンなのは、あるいは何らかの意趣返しなのだろうか。などと邪推させられる次第。
映像はオシャレを気取って見辛いだけ、ダイアローグもオシャレを気取って中身カラッポときて、ストーリー自体もまた何の中身もないのだから呆れる。80年代からバブル期にかけて、日本にて漫画や小説、ドラマなどで粗製濫造された類いの、当時からすでに恥ずかしく、今見れば恥ずかしいを通りこして怒りすら覚えるゴミの山と大差ないものを、今作ってどうしようというのか。
偶然出会ったイケメンがいい人で、でもそんな彼をおいて自分勝手に自分探し(笑)の旅に出て、自分の感情の捌け口として男に手紙を出し続け男の側からの返事は求めない一方通行、と、完全に自分の都合しか考えず、卑怯にも逃げ場所を確保してその自覚すらない最低バカ女(しかもブス)を、それでも男は恋いこがれて待ってくれている、などと、子供向け少女漫画レベルな幼稚極まりない主人公のストーリー。更に旅先の二つのエピソードでも、登場する女性二人はそれぞれ大切な男性に死なれながらも、自分だけは強く生きていこうとする、と、やはり男を踏み台、利用しているだけのストーリーばかり。自分大好きで未熟で愚かなスイーツ女くらいしか、こんなアホな話は面白がれないだろう。
散々旅しておいて、NYに帰ってきて最初に確認するのが振られた元カレの部屋では、結局何も成長しておらず、旅先での出会いの意味がないではないか。たまたま既に出払っていたから話が進んだのも都合が良すぎるというもの、これではジュード・ロウは本当に都合のいい逃げ場所でしかない。これで愛を描いているなどと、大人をバカにするにも程がある。
この種の映画を好きと称する事で、何の取り柄もない自分までもがオシャレセンスになった気がしてしまう、未熟な自分大好き人間向けの幼稚なオシャレぶりっ子映画にすぎない。
ノラ・ジョーンズの歌と同様、睡眠導入剤としては最適だが、それ以外の価値は特に無い。
2008年03月22日
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 88点(100点満点中)
僕たちは、実は革命という言葉の格好良さだけでついてきたんです!
公式サイト
若松孝二監督が自ら資金と人材を集め、私財を投げうって製作(ついでに別荘も破壊)。連合赤軍の黎明からあさま山荘事件までの"道程"を、当の活動家達からの視点で追う、"実録"映画。
あさま山荘事件やその前段となる山岳ベース事件を題材とした映画は、これまでにも『光の雨』『鬼畜大宴会』そして『突入せよ!あさま山荘事件』らが存在する。
だが、人物名を実名と変えたフィクションの体裁である『光の雨』、事件そのものの描写のみを切り取った『鬼畜大宴会』、官憲側の外からの視点で事件を描いた『突入せよ!〜』といった風に、当事者のリアルに拠った作品は、本作が初と言っていいだろう。
実際に事件前から重信房子や遠山美枝子と交流があり、現在に至るまで存命の当事者達への取材を繰り返し、事の善悪ではなく事実を事実としてただ見せつけ、判断を観る者に委ねる"勇気"ある方向性をとった本作、まさに若松孝二でなければ成し得なかった仕事と断言出来る、極めて貴重な作品である。
実録、道程、のタイトル通り、ただ事件のみを描くのではなく、そうなるに至った社会的背景と、その中で個々人が辿った運命とを、多数の活動家達にそれぞれ視点を振り、時代そのものを描こうとしている事がまず、本作の評価点だろう。点ではなく線として、歴史の帰結として事件を捉えているのだ。
序盤では、実際の報道映像や記録映像を多用し、60年安保闘争から活発になり始めた、組織化する学生運動の成り立ちを、再現ドキュメントの体で提示し、事情をよく知らない観客でも、ある程度の流れを掴める様に説明すると共に、低予算で撮られた事から画面に現われるチープさが、ドキュメントの体を成す事であまり気にならなくなる効果ともなっている。
もちろん、それに甘えて映画としての演出や作画を怠っているなどは決して無い。演説を聞いている重信房子(伴杏里)を画面の中心に据え、フルショットから徐々にクローズアップしていき、彼女がこの時点でのメインであると知らせた上で、そのアップ画面の手前に遠山美枝子(坂井真紀)がフレームインして2ショットとなり、活動に参入する二人の邂逅を印象的に描いているシーンなど、若松孝二の持ち味であるアナーキーさとは異なるが、要所要所に絵になるドラマティックな映像を用意しているのは流石。
実はあさま山荘よりこちらが主目ではないかとも思わされる、山岳ベース事件の描写は、有りようを極めて生々しく、執拗な言語と肉体の暴力を長回しを多用して見せ、リアルな臨場感を醸して観客を多いに戸惑わせ不快にさせる、入念な演出が恐ろしいほどに決まっている。
特に監督にとって思い入れのあるであろう、遠山美枝子が追い詰められ死んでいく様は、本作のクライマックスと称して過言ではないものに。特殊メイクによる、腫れ上がり変わり果てた面相のビジュアル的な凄惨さだけでなく、その顔をわざわざ鏡で自身に見せつける、永田洋子(並木愛枝)のとことんの鬼畜ぶりなど、精神面での追い詰めによる絶望と、今際の際に彼女が回想する、運動に加わった当初の希望に満ちた顔とのギャップにより、観客のテンションは地の底まで叩き落とされる事となる。
その永田洋子、実録を謳う作品ながら、次なるターゲットを背後から冷たく見据えるシチュエーションを多用するなど、サイコサスペンスに登場する悪女のごときキャラクター描写が徹底されており、腹が立つ程に恐ろしい名演技である。だが、彼女がそうなるに至る変容がさして描写されておらず、連合赤軍結成以前の段階から既に、冷酷に仲間を制裁、処刑する様を強調するなど、やはり監督の私情が入ったのか、本来の作品意図からは外れている感もある。
もう一人の指導者である森恒夫(地曵豪)は、一度逃亡した過去を持つ返り咲きである事を、時系列に沿って各所に挿入しているため、その過去への自身の中での後ろめたさが背景となり、殊更に地位と権力に固執する様になったと容易に理解出来るだけに、永田の背景が作中であまり語られなかったのは惜しい。3時間を超える長尺を持ってしても描き足りないだけの事実が、一連の事件にはあるのだと気づかされはするが。
「女を捨ててない」と粛正相手に突きつける永田自身が実は、その時その時のリーダー格に擦り寄って地位を確保しているなど"女"を利用し、他の女性に対しては明らかに嫉妬からとしか思えない難癖をつけて死に至らしめていくのは、中国史における呂后や西太后、江青らを彷彿させるものだ。悪女が権力を握ると、男の独裁者より歯止めが利かなくなる、歴史の必然がまさに再現されている様で興味深い。
メンバーの性愛関係を咎め、街に下りた際に銭湯に行った者を咎めておいて、自分達はきれいな布団の上でセックスしている描写を、暗く閉塞した山岳ベースの光景と対称の様に見せつけ、実は最も総括、共産主義化から程遠いのは誰なのかを明示するなど、直球と皮肉を入り混ぜた、森と永田の自覚無き非道ぶりは、観客をいちいち不快にさせるものだ。でありながら、最期まで己の内なる弱さに負け続けた森の末路と、現実を生き続ける永田の差異など、決して一面的なカテゴライズを行わない姿勢は見事。
彼らの情熱や志が空転し落ちぶれていく理由として、総じてあまりに未熟であった事が見て取れるのは、作り手の意図したものだろう。真面目で高学歴で、自分を捨てて世の中を良くするためと思って立ち上がった彼らが、内へ内へと向かい殺し合い、世間から見捨てられ、ただの犯罪者に成り果てていくという図式は、この事件に限らず、あるいは右左など関係なく、真面目で未熟な人間あるいは己を持たず一方的な価値観に寄り添う人間であれば簡単に起こりうるとは、オウム真理教などを例に挙げるまでもなく、あらゆるコミュニティにおけるイジメや差別を見れば瞭然である。
だからこそ、その必然があまりに極端なかたちで噴出してしまったこの事件を、単なるバカの内輪もめと切り捨てずに、本作の様に真っ正面から見つめ直す必要が、あらゆる人間に存在するのではないか。日本人なら必見の力作と断言する。
ただし、重信房子を演じる伴杏里の台詞回しがあまりに拙かったり(おまけに美人すぎる)、どこ出身だろうと全員が標準語を話す中、何故か一人だけ不自然な関西弁を話す男がいて興醒めさせれるなど、演技、演出面での不備がところどころで気になるのは、製作環境に恵まれなかったとは言え問題だろう。原田芳雄が総じて「ひ」を「し」と発音しているのも、ナレーターとしては失格。
公式サイト
若松孝二監督が自ら資金と人材を集め、私財を投げうって製作(ついでに別荘も破壊)。連合赤軍の黎明からあさま山荘事件までの"道程"を、当の活動家達からの視点で追う、"実録"映画。
あさま山荘事件やその前段となる山岳ベース事件を題材とした映画は、これまでにも『光の雨』『鬼畜大宴会』そして『突入せよ!あさま山荘事件』らが存在する。
だが、人物名を実名と変えたフィクションの体裁である『光の雨』、事件そのものの描写のみを切り取った『鬼畜大宴会』、官憲側の外からの視点で事件を描いた『突入せよ!〜』といった風に、当事者のリアルに拠った作品は、本作が初と言っていいだろう。
実際に事件前から重信房子や遠山美枝子と交流があり、現在に至るまで存命の当事者達への取材を繰り返し、事の善悪ではなく事実を事実としてただ見せつけ、判断を観る者に委ねる"勇気"ある方向性をとった本作、まさに若松孝二でなければ成し得なかった仕事と断言出来る、極めて貴重な作品である。
実録、道程、のタイトル通り、ただ事件のみを描くのではなく、そうなるに至った社会的背景と、その中で個々人が辿った運命とを、多数の活動家達にそれぞれ視点を振り、時代そのものを描こうとしている事がまず、本作の評価点だろう。点ではなく線として、歴史の帰結として事件を捉えているのだ。
序盤では、実際の報道映像や記録映像を多用し、60年安保闘争から活発になり始めた、組織化する学生運動の成り立ちを、再現ドキュメントの体で提示し、事情をよく知らない観客でも、ある程度の流れを掴める様に説明すると共に、低予算で撮られた事から画面に現われるチープさが、ドキュメントの体を成す事であまり気にならなくなる効果ともなっている。
もちろん、それに甘えて映画としての演出や作画を怠っているなどは決して無い。演説を聞いている重信房子(伴杏里)を画面の中心に据え、フルショットから徐々にクローズアップしていき、彼女がこの時点でのメインであると知らせた上で、そのアップ画面の手前に遠山美枝子(坂井真紀)がフレームインして2ショットとなり、活動に参入する二人の邂逅を印象的に描いているシーンなど、若松孝二の持ち味であるアナーキーさとは異なるが、要所要所に絵になるドラマティックな映像を用意しているのは流石。
実はあさま山荘よりこちらが主目ではないかとも思わされる、山岳ベース事件の描写は、有りようを極めて生々しく、執拗な言語と肉体の暴力を長回しを多用して見せ、リアルな臨場感を醸して観客を多いに戸惑わせ不快にさせる、入念な演出が恐ろしいほどに決まっている。
特に監督にとって思い入れのあるであろう、遠山美枝子が追い詰められ死んでいく様は、本作のクライマックスと称して過言ではないものに。特殊メイクによる、腫れ上がり変わり果てた面相のビジュアル的な凄惨さだけでなく、その顔をわざわざ鏡で自身に見せつける、永田洋子(並木愛枝)のとことんの鬼畜ぶりなど、精神面での追い詰めによる絶望と、今際の際に彼女が回想する、運動に加わった当初の希望に満ちた顔とのギャップにより、観客のテンションは地の底まで叩き落とされる事となる。
その永田洋子、実録を謳う作品ながら、次なるターゲットを背後から冷たく見据えるシチュエーションを多用するなど、サイコサスペンスに登場する悪女のごときキャラクター描写が徹底されており、腹が立つ程に恐ろしい名演技である。だが、彼女がそうなるに至る変容がさして描写されておらず、連合赤軍結成以前の段階から既に、冷酷に仲間を制裁、処刑する様を強調するなど、やはり監督の私情が入ったのか、本来の作品意図からは外れている感もある。
もう一人の指導者である森恒夫(地曵豪)は、一度逃亡した過去を持つ返り咲きである事を、時系列に沿って各所に挿入しているため、その過去への自身の中での後ろめたさが背景となり、殊更に地位と権力に固執する様になったと容易に理解出来るだけに、永田の背景が作中であまり語られなかったのは惜しい。3時間を超える長尺を持ってしても描き足りないだけの事実が、一連の事件にはあるのだと気づかされはするが。
「女を捨ててない」と粛正相手に突きつける永田自身が実は、その時その時のリーダー格に擦り寄って地位を確保しているなど"女"を利用し、他の女性に対しては明らかに嫉妬からとしか思えない難癖をつけて死に至らしめていくのは、中国史における呂后や西太后、江青らを彷彿させるものだ。悪女が権力を握ると、男の独裁者より歯止めが利かなくなる、歴史の必然がまさに再現されている様で興味深い。
メンバーの性愛関係を咎め、街に下りた際に銭湯に行った者を咎めておいて、自分達はきれいな布団の上でセックスしている描写を、暗く閉塞した山岳ベースの光景と対称の様に見せつけ、実は最も総括、共産主義化から程遠いのは誰なのかを明示するなど、直球と皮肉を入り混ぜた、森と永田の自覚無き非道ぶりは、観客をいちいち不快にさせるものだ。でありながら、最期まで己の内なる弱さに負け続けた森の末路と、現実を生き続ける永田の差異など、決して一面的なカテゴライズを行わない姿勢は見事。
彼らの情熱や志が空転し落ちぶれていく理由として、総じてあまりに未熟であった事が見て取れるのは、作り手の意図したものだろう。真面目で高学歴で、自分を捨てて世の中を良くするためと思って立ち上がった彼らが、内へ内へと向かい殺し合い、世間から見捨てられ、ただの犯罪者に成り果てていくという図式は、この事件に限らず、あるいは右左など関係なく、真面目で未熟な人間あるいは己を持たず一方的な価値観に寄り添う人間であれば簡単に起こりうるとは、オウム真理教などを例に挙げるまでもなく、あらゆるコミュニティにおけるイジメや差別を見れば瞭然である。
だからこそ、その必然があまりに極端なかたちで噴出してしまったこの事件を、単なるバカの内輪もめと切り捨てずに、本作の様に真っ正面から見つめ直す必要が、あらゆる人間に存在するのではないか。日本人なら必見の力作と断言する。
ただし、重信房子を演じる伴杏里の台詞回しがあまりに拙かったり(おまけに美人すぎる)、どこ出身だろうと全員が標準語を話す中、何故か一人だけ不自然な関西弁を話す男がいて興醒めさせれるなど、演技、演出面での不備がところどころで気になるのは、製作環境に恵まれなかったとは言え問題だろう。原田芳雄が総じて「ひ」を「し」と発音しているのも、ナレーターとしては失格。