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福井日銀総裁退任 金利正常化は道半ば

2008年03月19日21時50分

 戦後初の空席となった日本銀行総裁。19日で退任した福井俊彦総裁は任期中、量的緩和やゼロ金利政策終結という金融政策転換を果たしたが、超低金利政策の脱却は途上に終わった。福井総裁の5年間を振り返る。(堀篭俊材、中川仁樹、富田祥広)

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贈られた花束を手に車に乗り込む福井俊彦・日銀総裁=19日夜、東京都中央区の日銀本店で、代表撮影

 「公務の電話です」。7日午前、日銀本店。福井総裁最後となった金融政策決定会合の最中、福井総裁と武藤敏郎副総裁に相次ぎ、秘書からメモが入った。

 会合は2度中断、福井氏に続き武藤氏が部屋を出て官邸から電話を受けた。幻に終わった「武藤総裁」の政府案を告げられた瞬間だった。

 「変な人選ならば、空席の方がよっぽどマシだ」。福井氏は直前、こう漏らしていた。

 03年の就任時、当時の小泉政権が自身に背負わせた政策課題の「デフレ脱却」には道筋をつけた。だが、政局に翻弄(ほんろう)される総裁ポストの「軽さ」を目の当たりにして、いら立ちが募っていたのかもしれない。

 「金融政策決定会合は臨時に開けるのか」。福井氏は就任直後、日銀幹部に確認すると、「理由がない」という内部の異論を押し切り、史上初めて臨時の会合を開いた。会見で福井氏は政策を総動員してデフレ脱却を目指す考えを強調した。

 政府や国会との関係がギクシャクした速水優前総裁と対照的な、福井氏の政府との協調姿勢について、当時の審議委員は「福井氏一流のパフォーマンス」と振り返る。

 「理論的に説明できないものはやらない」というのが伝統的な日銀の考え方。だが、福井流は違った。「何もしないよりも何かやるべきだ」

 福井氏が積極的に取り組んだのは、量的緩和の拡大だった。当座預金残高の目標を就任当初から1年余りで、ほぼ倍増となる30兆〜35兆円まで引き上げた。「ゼロ金利という制約がある以上、量をいくら増やしても景気刺激の効果はない」という意見は日銀内に根強く、量の拡大にひた走る福井氏と日銀幹部が対立することもあった。

 03年秋の会合直前。「どう考えても意味はない」と反対の意向を伝えた当時の審議委員に対し、福井氏は「協力してほしい」と直談判で根回しに動いた。当時、急激な円高で政府・日銀が空前の円売り介入を続けていた。「量的緩和の拡大による『円安誘導』を狙った」とこの元審議委員は振り返る。

 福井氏の「デフレファイター」の姿勢に対して、海外からは「最も優れた中央銀行総裁」と最大級の賛辞が送られた。

 「総裁に勢いがなくなった」。日銀内から福井氏の「神通力」の陰りを指摘する声が漏れ始めたのは、0.5%に金利を引き上げた07年2月の追加利上げの直後だった。この決定会合では、岩田一政副総裁が反対票を投じ、正副総裁の票が割れた。

 前年の8月、5年ぶりに基準改定された消費者物価指数(CPI、生鮮食品除く)の前年比伸び率がプラスから再びゼロ%近くまで下がり、景気や物価に対する認識が日銀内で微妙に分かれ出していた。

 0.5%への追加利上げ直後、福井氏は「まだ3合目。日本は経済より金利がずっと低い水準にある。今は、それを取り戻す過程だ」と周囲に語り、戦後最長の景気拡大を背景に金利正常化への意欲を見せていた。

 だが、昨夏のサブプライムショックで頼みの米国経済は減速。原油や資源高の影響でCPIは1%目前まで上昇したが、内需拡大の原動力となる賃金は伸び悩んだ。

 「金利が低いからと言って、何が何でも上げなければならないということはない」。今月7日の会見で、福井氏は正常化の「旗」を降ろした。

 「完全なデフレ脱却」は果たせず、福井氏は金利正常化の「3合目」で表舞台から降りた。その悲願は、まだ決まらない新総裁へと受け継がれるのだろうか。

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