2008年03月21日
犬と私の10の約束 65点(100点満点中)
きさま、額の文字どおり犬になりさがる気かっ!?
公式サイト
インターネット上にいつしか広まった、作者不明の怪文書『犬の十戒』を題材に書かれた、同名の子供向け書籍をベースに映画化。
かなり前に話題となった『世界が100人の村だったら』と同様、神の視点のごとき高所から、弱い立場の存在を見下している事が明白な、カルト宗教めいた押しつけがましい作為に満ちた文章ではあるが、犬がそんな事を思っているわけがない事はともかく、動物を飼う上での心構えとしては至極真っ当な内容である事には相違なく、人間関係においても適応しうる心がけではある。
だが本当は、そんな事は人としてわかっていて当たり前の常識、良識であり、それすらも言われないと気づかない様な、自分の事すらままならない人間に、動物を飼う(=支配する)資格などあろう筈も無いのだが。
そして、この種の"真っ当な正論"をわかりやすく提示する、それを行う者の真意として考え得るのは、最初に正しい事を並べ立てて感心、信用させ、スッカリ相手の信頼を得た上で、本来の目的である嘘をつき、その嘘すらも信用させて相手を騙し、利益をかすめ取る、詐欺師の典型的手法そのものだ。
これは細木数子や江原啓之らが堂々と行っているオカルト詐欺においても同様の、自分の頭でものを考えようとせず、他者に寄りかかる事に疑問を抱かない愚衆を騙す必勝法である。閑話休題。
話を映画に戻して、要するに「飼っていた犬が死んで悲しい」との内容である事は、予告の段階どころか犬の十戒を見せられた時点で明白であり、そんなもの、わかっていても悲しいに決まっている、家族が死ぬ話以上に卑怯な題材である。たとえストーリーなどに多少の、いやかなりの無理や問題があったとしても、死ぬ場面さえ感動的に押さえておけば、観客の期待に応える事が出来るのだから。
実際に本作、物語としての作劇や展開においては、疑問やツッコミどころが連発するもので、とても評価出来たものではない。まあ、他人のフンドシどころか誰ものものでもない材料で一儲けを目論む輩が作る話など、この程度のもので当然なのだろうが。
重要となる犬との出会い関連からして迷走気味な有様で、本当に最後は泣けるのかと、いきなり不安にさせられてしまうのだから困る。母(高嶋礼子)が父(豊川悦司)に、「娘が犬を飼いたがってるみたい」と話し、父が「犬か…」とつぶやいて場面が変わり次の日、主人公(福田麻由子)が帰宅すると、誰もいない家の庭に子犬がいる。と見せられれば、父が子犬を入手してきて、娘を驚かせるために黙って庭に離しておいた、と考えるのが普通だろう。
しかし、いったいどういう経緯で子犬が庭にいたのか明かされるのはずっと後で、その点は放置されたまま、母親が入院するなどして家庭が混乱し、放ったらかしの子犬は庭を抜け出して外に出て、ゴミ箱を漁ったりしているのだ。ここで観客は先述の考えを翻し、「野良犬の子が庭に紛れ込んでいただけ?」などとも考えてしまう事となる。実はそれも違うのだが、違うと判明するのはかなり後で、やはりこの時は良くわからないまま話が進み、ハッキリしない気持ち悪さがずっと続くのだ。
どう考えても引張る様な"謎"ではない、そんな事情を不明瞭にする狙いこそが不明瞭で、ドラマを素直に楽しむ足を引っ張っているだけだ。というかこの犬、その後も何かと放浪させられ、あまり大切にされていると思えないのは問題だ(笑)
父の仕事の都合で、犬を友人宅に預けなければいけなくなった展開でも、犬を飼える家が見つかるまで一時的に、と言っていた筈が、新居を探している体もなく長々と犬を飼えない寮に住み続け、あまつさえ仕事を辞めてからもその寮に住み続けているなど、意味がわからない。
預けた先でも、子供の海外留学に親が付き添って行っている風なのに、犬を外に繋いだままで放置しており、リードが外れて逃げ出したから結果的に無事だったものの、繋がれたままなら大変な事になっていた筈だ。どういうつもりか意味がわからない。
そもそも、他人の家に大きめの犬を預けるという、ある意味でかなりの迷惑をかけておきながら、親同士で話合いが行われた風もなく、ただストーリーを進める事のみが優先されて、気にかかる事情やディテールは全て放置、上滑りに終始しては、物語としての魅力は無いに等しい。
犬小屋を10年以上も洗っていなかったり、母からの手紙が混入した経緯も不明瞭だ。大人が他人の家に勝手に上がり込んではダメだろう。
"10の約束"を、死んだ母との約束とも設定する事で、犬に母を投影させる構造は理解出来るものの、物語に有為に活かしきれていたとは思えない。かつて父が家族より仕事(手術)を選んだ事を前段とし、主人公が家族(犬)と仕事のどちらを選択するのか、と突きつける構成も、意図はわかるものの、効果的な盛り上げには使い切れていない。どうせベタなドラマなのだから、父にその事を語らせ、「あの時父さんは間違えたが、お前は間違えるな」とでも言わせておけば、ベタに感動出来るだろうし、構成の意味もよく伝わっただろうに。
そんな低質なドラマを観続けられるのは、各成長段階を見せられる犬達の可愛さや、前半部に主人公の少女時代を演じる福田麻由子の無防備な魅力、およびそこからあまりに自然にシフトする、後半部の主人公を演じる田中麗奈の、童顔とエロスが入り交じった魅力に負うところが大半である。
犬のビジュアルや動作、鳴き声などの演出、演技が的確な事は大前提として(尻尾ふりのCGはどうかと思うが)、福田麻由子が田中麗奈になるという、今まで散々言われながら実現しなかったキャスティングが遂に具現化された事は、本作の魅力に大いにプラスとなっている。
これまでに福田麻由子が演じた少女時代としては、『白夜行』の綾瀬はるか、『LittleDJ』の広末涼子など、とても同一人物には見えないものばかりだったため、今回の企画の意義は大きい。この共演の実現はあるいは、『ドラッグストア・ガール』や実写版『ゲゲゲの鬼太郎(2007)』などで田中麗奈と仕事経験のある、本作の監督・本木克英による仕事だろうか。
とは言え、映画が終わりに近づくに連れ、どうなるのかがわかりきっているからこそ、外の世界へと出て行く主人公と、家で老いていく犬との距離感が離れていく展開に差し掛かってからというもの、勝手に最期を想像して既に半泣きとなる事は、人として当然の事であり、別れのシーンで大いに泣かされるのは、人として未熟か性根が歪んででもいない限り、コーラを飲んだらゲップが出るのに等しい道理である。
そこで終わらせず、あくまでも主人公の人生物語として、前向きな未来を示唆するところまで展開させたのは正解だろう。とは言えそのラストシーン、母と犬の遺影で泣かせつつ、布施明の熱唱で笑わせるなど、狙いが良くわからないのが困りものだが。(キリスト教としての意匠を殊更に強調する様な演出、映像から、最初に述べたカルト臭を感じてしまうのも、考えすぎだろうが困る)
正直なところ、普通の映画としては駄作と断言出来る。だが泣くべきところでは素直に泣けるのだから、恐いホラー、笑えるコメディ、抜けるAVらと同様、主目的は充分に果たされており、存在価値は全く損なわれていないのだ。そんな映画があってもいいだろう。
公式サイト
インターネット上にいつしか広まった、作者不明の怪文書『犬の十戒』を題材に書かれた、同名の子供向け書籍をベースに映画化。
かなり前に話題となった『世界が100人の村だったら』と同様、神の視点のごとき高所から、弱い立場の存在を見下している事が明白な、カルト宗教めいた押しつけがましい作為に満ちた文章ではあるが、犬がそんな事を思っているわけがない事はともかく、動物を飼う上での心構えとしては至極真っ当な内容である事には相違なく、人間関係においても適応しうる心がけではある。
だが本当は、そんな事は人としてわかっていて当たり前の常識、良識であり、それすらも言われないと気づかない様な、自分の事すらままならない人間に、動物を飼う(=支配する)資格などあろう筈も無いのだが。
そして、この種の"真っ当な正論"をわかりやすく提示する、それを行う者の真意として考え得るのは、最初に正しい事を並べ立てて感心、信用させ、スッカリ相手の信頼を得た上で、本来の目的である嘘をつき、その嘘すらも信用させて相手を騙し、利益をかすめ取る、詐欺師の典型的手法そのものだ。
これは細木数子や江原啓之らが堂々と行っているオカルト詐欺においても同様の、自分の頭でものを考えようとせず、他者に寄りかかる事に疑問を抱かない愚衆を騙す必勝法である。閑話休題。
話を映画に戻して、要するに「飼っていた犬が死んで悲しい」との内容である事は、予告の段階どころか犬の十戒を見せられた時点で明白であり、そんなもの、わかっていても悲しいに決まっている、家族が死ぬ話以上に卑怯な題材である。たとえストーリーなどに多少の、いやかなりの無理や問題があったとしても、死ぬ場面さえ感動的に押さえておけば、観客の期待に応える事が出来るのだから。
実際に本作、物語としての作劇や展開においては、疑問やツッコミどころが連発するもので、とても評価出来たものではない。まあ、他人のフンドシどころか誰ものものでもない材料で一儲けを目論む輩が作る話など、この程度のもので当然なのだろうが。
重要となる犬との出会い関連からして迷走気味な有様で、本当に最後は泣けるのかと、いきなり不安にさせられてしまうのだから困る。母(高嶋礼子)が父(豊川悦司)に、「娘が犬を飼いたがってるみたい」と話し、父が「犬か…」とつぶやいて場面が変わり次の日、主人公(福田麻由子)が帰宅すると、誰もいない家の庭に子犬がいる。と見せられれば、父が子犬を入手してきて、娘を驚かせるために黙って庭に離しておいた、と考えるのが普通だろう。
しかし、いったいどういう経緯で子犬が庭にいたのか明かされるのはずっと後で、その点は放置されたまま、母親が入院するなどして家庭が混乱し、放ったらかしの子犬は庭を抜け出して外に出て、ゴミ箱を漁ったりしているのだ。ここで観客は先述の考えを翻し、「野良犬の子が庭に紛れ込んでいただけ?」などとも考えてしまう事となる。実はそれも違うのだが、違うと判明するのはかなり後で、やはりこの時は良くわからないまま話が進み、ハッキリしない気持ち悪さがずっと続くのだ。
どう考えても引張る様な"謎"ではない、そんな事情を不明瞭にする狙いこそが不明瞭で、ドラマを素直に楽しむ足を引っ張っているだけだ。というかこの犬、その後も何かと放浪させられ、あまり大切にされていると思えないのは問題だ(笑)
父の仕事の都合で、犬を友人宅に預けなければいけなくなった展開でも、犬を飼える家が見つかるまで一時的に、と言っていた筈が、新居を探している体もなく長々と犬を飼えない寮に住み続け、あまつさえ仕事を辞めてからもその寮に住み続けているなど、意味がわからない。
預けた先でも、子供の海外留学に親が付き添って行っている風なのに、犬を外に繋いだままで放置しており、リードが外れて逃げ出したから結果的に無事だったものの、繋がれたままなら大変な事になっていた筈だ。どういうつもりか意味がわからない。
そもそも、他人の家に大きめの犬を預けるという、ある意味でかなりの迷惑をかけておきながら、親同士で話合いが行われた風もなく、ただストーリーを進める事のみが優先されて、気にかかる事情やディテールは全て放置、上滑りに終始しては、物語としての魅力は無いに等しい。
犬小屋を10年以上も洗っていなかったり、母からの手紙が混入した経緯も不明瞭だ。大人が他人の家に勝手に上がり込んではダメだろう。
"10の約束"を、死んだ母との約束とも設定する事で、犬に母を投影させる構造は理解出来るものの、物語に有為に活かしきれていたとは思えない。かつて父が家族より仕事(手術)を選んだ事を前段とし、主人公が家族(犬)と仕事のどちらを選択するのか、と突きつける構成も、意図はわかるものの、効果的な盛り上げには使い切れていない。どうせベタなドラマなのだから、父にその事を語らせ、「あの時父さんは間違えたが、お前は間違えるな」とでも言わせておけば、ベタに感動出来るだろうし、構成の意味もよく伝わっただろうに。
そんな低質なドラマを観続けられるのは、各成長段階を見せられる犬達の可愛さや、前半部に主人公の少女時代を演じる福田麻由子の無防備な魅力、およびそこからあまりに自然にシフトする、後半部の主人公を演じる田中麗奈の、童顔とエロスが入り交じった魅力に負うところが大半である。
犬のビジュアルや動作、鳴き声などの演出、演技が的確な事は大前提として(尻尾ふりのCGはどうかと思うが)、福田麻由子が田中麗奈になるという、今まで散々言われながら実現しなかったキャスティングが遂に具現化された事は、本作の魅力に大いにプラスとなっている。
これまでに福田麻由子が演じた少女時代としては、『白夜行』の綾瀬はるか、『LittleDJ』の広末涼子など、とても同一人物には見えないものばかりだったため、今回の企画の意義は大きい。この共演の実現はあるいは、『ドラッグストア・ガール』や実写版『ゲゲゲの鬼太郎(2007)』などで田中麗奈と仕事経験のある、本作の監督・本木克英による仕事だろうか。
とは言え、映画が終わりに近づくに連れ、どうなるのかがわかりきっているからこそ、外の世界へと出て行く主人公と、家で老いていく犬との距離感が離れていく展開に差し掛かってからというもの、勝手に最期を想像して既に半泣きとなる事は、人として当然の事であり、別れのシーンで大いに泣かされるのは、人として未熟か性根が歪んででもいない限り、コーラを飲んだらゲップが出るのに等しい道理である。
そこで終わらせず、あくまでも主人公の人生物語として、前向きな未来を示唆するところまで展開させたのは正解だろう。とは言えそのラストシーン、母と犬の遺影で泣かせつつ、布施明の熱唱で笑わせるなど、狙いが良くわからないのが困りものだが。(キリスト教としての意匠を殊更に強調する様な演出、映像から、最初に述べたカルト臭を感じてしまうのも、考えすぎだろうが困る)
正直なところ、普通の映画としては駄作と断言出来る。だが泣くべきところでは素直に泣けるのだから、恐いホラー、笑えるコメディ、抜けるAVらと同様、主目的は充分に果たされており、存在価値は全く損なわれていないのだ。そんな映画があってもいいだろう。