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編集者たちへ!

週刊誌ジャーナリズムよがんばれ!(下)

元木 昌彦(2008-03-17 10:04)
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前回のつづき)

 そのことを考える前に、私の平凡だった雑誌屋人生を振り返ってみたい。

 入社したのは’70年だから、学生運動の余韻がそこここに燻っていた。「週刊現代」はもちろん、私が配属された月刊「現代」にも、運動家崩れで大学中退した記者たちが、新米編集者を睥睨(へいげい)しながら闊歩していた。

 “キツネ目”の宮崎学、事件ライターの朝倉喬司、ノンフィクション作家の橋本克彦、軍事評論家の小川和久などがほぼ同時代に音羽村に在籍していたのだ。

 週刊誌の草創期、「女性自身」や「週刊新潮」を舞台に活躍していた「トップ屋」草柳大蔵、梶山李之、竹中労らが作家や評論家になり、第2世代に移っていた。

 酔っては「お前は中核だ、革マルだ」と殴り合っていたが、世間では“首輪のない猟犬”と恐れられていた記者も多くいた。

 3年経って待望の「週刊現代」に異動になり、猟犬たちとの週刊誌屋生活が始まるのだが、これほど面白い仕事はないのではないかと、今でも思う。

 まず、遊びと仕事の区別がないのがいい。学生時代から好きだった競馬をきっかけに、山口瞳さんを籠絡して著名人との「競馬真剣勝負」を1年間連載してもらった。これで、おおっぴらに土日、競馬通いができた。

 会いたかった高倉健や萩本欽一にも会えた。親子二代の由緒正しい巨人フアンだから、長嶋茂雄の引退試合は絶対見たかった。会社の年間パスを取材の名目で借りて、バックネット裏でじっくり見られたし、記者会見にまで出て、後ろで泣きじゃくっていた。

 広岡敬一というトルコ風呂の専門家(今のソープランド)で、トルコロジストなる肩書きがついた先輩記者からは、トルコのタダ券をずいぶんもらったものだった。

 当時、「週刊現代」の前編集長を引き抜いて創刊した「週刊ポスト」が、「プロ野球の黒い霧」や「衝撃の告白」で売り上げを伸ばしトップだった。編集長によってはバッタ屋のように「ポスト追い抜け!」「トップ奪還」などとアジビラをベタベタ貼る人もいたが、編集部員はそんなことに関心はなかった。

 毎晩人と会い、浴びるように酒を呑み、ゴールデン街や2丁目に入り浸った。読者が何を読みたいかよりも、自分が会いたい人のインタビューや知りたいことをプランにすればよかったのだから、企画を考える苦労などなかった。

 今のように情報が溢れていた時代ではなかった。ネタを取るには人脈を広げ、生の情報をもらうしかなかったのだ。親しい新聞記者たちから、朝夕刊の出る前に面白そうな事件情報を仕入れ、デスクに「やりますよ」といえばそれですんだ。

 「たかが週刊誌、されど週刊誌」と嘯(うそぶ)きながら、野良犬のように町をほっつき歩いていた。あの時代は週刊誌を作る側が読者よりも楽しんでいたのではないか。それが誌面から滲み出ていたから、読者も面白がって手に取ってくれたのだと思う。

多様な言論が死に絶えていいのか

 大学で学生たちに雑誌ジャーナリズムについて話すとき、「ものいわぬ新聞、ものいえぬテレビ」にできないことをやるのが雑誌の役割だと話すと、ポカンとした顔をしている。

 では、もし雑誌がなかったら「田中角栄の金脈問題」も「創価学会の言論弾圧」も、「桶川ストーカー殺人事件での警察の怠慢」も、山崎拓元幹事長があんなにスケベなことも、これだけ沢山の人が知ることはなかった。「噂の真相」が休刊しただけで作家たちのゴシップを知ることができなくなったと話すと、少し納得した顔をする。

 週刊誌がかつての輝きを失ってしまった理由は様々に考えられよう。メディア規制法や名誉毀損などでの賠償額の高額化、それに伴う雑誌不信層の増加などがあげられよう。報道被害への対応も、「雑誌人権ボックス」はあるが、他のメディアと比べて遅れていることは否めない。

 昔通りの「無邪気でやんちゃ」な時代へそのまま戻ることはできないだろうが、週刊誌の原点に立ち返り、役割を再認識し、誌面化することから始めるしかないのではないか。 自分の編集長時代の反省を込めて、部数だけを追及する時代は終わったのかもしれない。しかし、週刊誌が果たすべき役割は終わってはいない。

 時代は週刊誌を求めていると、私は思う。アメリカを見るまでもなく、大メディアは大企業や権力に取り込まれ、まともな批判さえできなくなっている。

 警察腐敗、自民党長期政権、憲法改正、増税問題など様々な問題が山積している。ジャーナリズムの現場にいるならば、週刊誌が先頭に立ってやらなくて誰がやるぐらいの気概を持ってほしい。

 私を「日本で一番危険な編集者」と評してくれた田原総一朗は私との対談で、「取材は刑務所の塀の上を走っているみたいなものだ」といった。「板子一枚下は地獄」の覚悟をもつことも場合によっては必要なのだ。

  「暮らしの手帖」の花森安治は、「われわれの武器は、文字だよ。言葉だよ。文章だよ。それについて、われわれはどれだけ訓練しているか。それで言葉はむなしい、文章は力の前によわい、なんて平気で言うんだ。ぼくは、そう思わんよ。僕はやはり、ペンは剣に勝つと思うんだ。思っているだけじゃ、だめだ。剣が訓練している何倍も、ペンも、トレーニングしなくちゃ、だめなんだ」(唐沢平吉著「花森安治の編集室」より)といったそうだ。

 多様な言論があり、それを国民が知った上で、判断を下す。そのためにも週刊誌ジャーナリズムは死んではいけないのだ。(文中敬称略)

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