今年は、張作霖爆殺事件からちょうど80年目に当たる。時の総理は田中義一。昭和天皇誕生の直後から2年2カ月余り、張作霖事件処理の甘さから天皇の不興を買い辞職するという、珍しいケースを残した宰相だ。今や、911をはじめとする謀略論議かブログ上を行き交っているが、田中内閣当時はまさに謀略全盛時代といってよく、その後の暗い世相と戦争への道を予告するかのようである。
張作霖や日本の関東軍(日露戦争以後、中国がロシアに与えていた租借地や鉄道利権を奪い、その防護を目的に派遣されていた)について語ると膨大なものになるので、陰謀の内容と関東軍の思惑のサワリだけ紹介しておくことにしたい。
なお、文末に当ブロ区前身の「反戦老年委員会」で記事にした<「田中上奏文」の怪>を、謀略多発の例として再録する。また、その中で「張作霖謀殺はソ連諜報機関のしわざ、と主張する人」と書いた部分があるが、それは櫻井よしこ氏のことで、こういった主張は、秦郁彦氏などの反証のせいか最近ほとんど聞かなくなった。
当時の中国は、国とは名ばかりでちょうどアフガニスタンが地域ごとに軍閥が実権支配しているのをもっとひどくしたような状態で、それぞれの実権者を日、米、英、仏、ソなどがひそかに支援したり買収したりしていた。そのため交戦や権力の移動が絶えず、裏切りも日常茶飯事のことだった。
満州に地盤を持つ張作霖には日本のてこ入れがあり、一時は北京を支配する勢いを持っていた。しかし、国民東軍の北征の勢いに抗しきれず満州への撤退を覚悟する。その途次、列車爆破事件が起きたのだ。関東軍も張を支持するように見せかけておき、実は当時の市民の反日意識に配慮しはじめていた張を消して、満州を全くの傀儡政権か関東軍の直接支配に移そうとした。
謀略はこのように進んだ。モルヒネ患者のならずもの2名と王某の3名を100~150円を与え、散髪と入浴をさせてサッパリした服に着替えさせた。移動の途中で王某は逃走した。残る2名に「爆弾を投げる役だ」と告げ、国民政府要人に対する密書を持たせた。現場に着くと両名は日本軍兵士に斬り殺され、かねて用意の爆弾を遺体とともに橋梁下にセットされた。爆薬は某大尉のスイッチで爆発し、張の乗る車両を粉砕した。
関東軍はシラを切って遭難事実だけを発表したが、あまりにもあまりにも多くの物証を残している。また爆薬も人が投げるにしては大量すぎる。逃亡した王某の証言や実行前に寄った風呂屋の証言もある。そこらは、日頃傍若無人になれている軍人の浅知恵計画だったかも知れない。新聞は、軍に遠慮して「満州某重大事件」と報道したが、関東軍の謀略であることには気づいていた。
田中首相が天皇に責任者の厳罰を約束していたのにもかかわらず、関東軍の反発をさけ、首謀者の関東軍高級参謀河本大作大佐を退役処分にしただけのあいまいな処分しかできなかった。潔癖な天皇に、「やめたらどうだ」といわれた所以である。そういった軍部の独走はその後も続くが、どこから始まるのだろう。島田俊彦『関東軍』(講談社学術文庫)から引用する。
元来陸軍には、明治三十三年(一九〇〇
年)の義和団事件鎮圧を目的とする中国
出兵のときから、国外出兵の場合は閣議
での経費支出の承認と、奉勅命令の伝宣
を必要とするという慣例があった。だが一
方『陣中要務令』では、日本陸軍は上、軍
司令官より、下、一兵にいたるまで、独断
専行、機宜に応ずるための修養訓練が極
度に要求され、いたずらに命令がくだるの
を待って機を失するようなものは天皇の統
率する軍隊の列に加えることができない、
と教えている。
【再録】
「田中上奏文」の怪
昭和のはじめ、中国は幾多の軍閥、政治勢力が覇を競い合い、恒常的な内戦状態にあったといっていい。曰く蒋介石、汪兆銘、張作霖、毛沢東、張学良などなど、そしてそれぞれの勢力は時には手を結びあるいは反発しあい、諸外国に援助を求めたりまたは特権の放棄を要求するなど、文字通り「麻のように乱れていた」といえる状態だった。
その中で、日本は遼東半島と満鉄などを足ががりに「満蒙は日本の生命線」と称してじわじわと勢力範囲を拡張し、居留民保護などの名目で山東省への出兵を3回も繰り返した。当然、中国人民の激しい抵抗や反発を受け、衝突による死傷者の増大は避けることができなかった。
鉄道爆破による張作霖爆殺事件が起きたのはこういった時期のことである(1928年・昭和3)。また、これが関東軍の謀略であるということも時を経ずしてわかった。時の田中義一首相といえば、この事件の責任追及を完遂できなかったため天皇の不興を買い、内閣総辞職するはめになったことで有名である。
今回のテーマ「田中上奏文」はこれと関係ない。最近1史料をもとに、張作霖謀殺はソ連諜報機関のしわざ、と主張する人がでてきた。あとで1史料が出てきたからといって、歴史が書き換えられるわけではない。史料の普遍性や幾多の傍証に支えられるものでなければ、創作か怪文書扱いである。
怪文書とは、ある目的をもって偽造、捏造された文書のことを言う。最近は文書に限らず映像までこれに加わった。怪文書はあくまでも怪文書であり、「歴史」とは無関係である。9.11の爆破自作自演説なるものもあるらしいが、通常ならこれは歴史になり得ない。しかし、世界各国の多くの人がこれを真実と信じるようであれば、その現象の背景にあるものを探索する意味はある。
「田中上奏文」も、これと似た位置に置かれている。日本では戦前すでにこれが偽作であるということで決着しており、東京裁判でも「にせもの」という判断が下されている。歴史書でも全然触れないか触れてもわずかでしかない。そこでまずその概略を説明しておこう。
昭和2年4月田中内閣が成立し、6月に外務・陸海軍当局者で構成する東方会議を開催して、対中国強硬策を決めた。その内容を天皇に上奏するためと称する厖大な文書がそれある。これには宮内大臣宛の代奏要請書簡がついているが、元来その任務は内大臣の担当であり、これが偽書説の有力な理由となっている。
文書の内容は、満蒙政策を中心に21項目2万6千字にわたるもので、もし本物なら異例のボリュームと内容になる。そして問題になったのは、「支那を征服せんと欲せば、先ず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲すれば、必ず先ず支那を征服せざるべからず」という文言があり、その後の日本の行動がほぼその線に沿って進んだことである。
このような露骨な征服野心丸出しの方針が、天皇を含めて昭和のはじめからあったとすれば、「追い込まれたためやむをえず戦争にまきこまれた」などという口実などスッ飛んでしまう。そして間もなく中国語、英語、ロシア語に訳されたものが出回りはじめ、各国の新聞にも掲載されだした。
無論、日本の外務省はその存在を否定し、米国などでは偽作であることが次第に理解され始めたが、中国、ロシアでは本物とする向きが多く、仮にそうでないにしても、日本のしかるべきところで作成された指針には違いないという解釈が根強く残っている。
この文書の作成者や流出ルートなど、いろいろ研究されているが、これにもソ連の諜報機関関与説や中国人商人の暗躍など、怪文書にふさわしいいろいろな情報が交錯している。日本でも、その文脈から、日本人の手になる部分があることを否定しきれないと考えられている。
張作霖爆殺後、期待?に反して後継者の張学良などが冷静で、反日騒動などの動きに出なかったことを陸軍の中枢が残念がった、という話があるぐらいなので、あるいは軍部の過激派が中国を挑発するために偽作したという線もなきにしもあらずである。陸軍出身の田中でさえ陸軍を抑えきれないという現象は、この時期に始まる。
いずれにしても、日中両国の研究者にとってこの文書の持つ意味は大きく、今後、両国関係史を検討する中で単なる怪文書として捨てきれないものになると想像される。(参照文献『国境を越える歴史認識』ほか)
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