− 東トルキスタンの独立運動 - | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
東トルキスタンの独立運動は中国の植民地になった日から続いています | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1949年中国共産党は布靴を履き掃討しながら東トルキスタンにやって来ました。 「我々は古い漢人とは違う。古い漢人等は東トルキスタン人民に残酷な圧迫を した。国民党の残りの勢力を排除しに来たのである。3ヶ月間、東トルキスタン に滞在し国民党の勢力の掃討の手伝いをして中国に帰る」と誓っていました。 50年後の今日、誓いを忘れ武器を持ち、当時彼らに食べ物と住まいを提供したウイグル人を傷をつけ、 漢人の嘘と本質を暴露するあらゆる発言・行動をしたウイグル人を非難し、財産を没収・逮捕・弾圧して います。 中国は帝国主義のテロ国家である。 東トルキスタンを侵略し植民地にしている中国政府は100万人に及ぶウイグル人を 逮捕し正当な裁判もなく処刑し、拷問し、財産や土地や資源を奪ってきました。 殺されたウイグル人の中にはリーダー・将軍・学者・インテリ・農民・商人・学生・婦女・ 乳飲み子までいました。 この事実を海外に告発しようとしたり、公正な待遇を求めたりした人達は弾圧され、 処刑や無期懲役、労働改造、軟禁などに回されました。また処刑や収監を免れても 職場を解雇されるなど、社会的地位を奪われたのです。
「ヤルタ会談」でソ連から中国に東トルキスタンにおける権益が譲渡されました。 ソ連共産党・中国共産党の共産党思想普及と中央アジアの権益を守るための密約が 結ばれたのです。当時独立国であった東トルキスタンを中国共産党の支配下に、モン ゴル北部をロシア共産党の支配下にするためでした。 1949年8月「ヤルタ会談」での中ソ密約実行のため、ソ連共産党総書記スターリン は東トルキスタン共和国の指導者グループを北京の会議に参加させるとの名目で モスクワ経由の飛行機に乗せモスクワのKGBの刑務所で殺害しました。 |
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1950年代〜60年代にかけ東トルキスタン国民の耕地・草原・地主の土地・財産・灌漑 用水などが中国共産党により没収されました。これらは“生産建設兵団”と呼ばれる軍隊 に与えられました。これに抵抗した東トルキスタン国民は労働改造所や刑務所に入れら れ殺害されました。 河川流域部などの肥沃な土地・財産なども漢人に与えられ、灌漑用水の使用権も握られ ました。 1980年代にはケ小平の指示により“農村改革”が行なわれました。“家庭連産請け負い 制度”を実施され、土地の使用権が農民に与えられました。しかし土地が肥沃で年間 降水量が250mmを超える天山北側の広い土地・草原・河川は中共が管理しました。 豊かな地域は漢人に独占され、東トルキスタン国民に還元されることはありませんでした。 1981年5月までに東トルキスタンの77県で不満を持つウイグル農民が各地の政府に 平等分配するように要求しました。要求は無視され、逆に当局は漢人の利益を守る ためにウイグル農民の逮捕に及んだのです。これに堪え兼ねた農民・牧民は棒、鎌、鍬、 斧などの農業道具で漢人を襲撃しました。多くの漢人・ウイグル・カザフ人がこの衝突中 に負傷、死亡しました。 事件後、多数のウイグル人、カザフ人が逮捕され、漢人の利益は保護されました。 東トルキスタンの土地や水・石油・石炭・天然資源・電気などの全てを漢人が独占。 ウイグル人は漢人から購入しなければならず、どんどん貧しくなっていったのです。
1950年代から今日まで土地、草原、灌漑用水に関する闘いが絶えない。 漢人のウイグル人に対する一方的な搾取、それに反対したウイグル人への暴力・ 弾圧という悪のスパイラルが続いています。
1989年4月〜6月 北京師範大学のウイグル人学生だったオルケシ(Orkesh ウアルカイシ と呼ばれるがウイグル語の正しい名前はオルケシ)らの指導下で民主を求める大規模の デモが起こった。 中国の各地から北京に集まった青年は100万人にのぼった。 天安門広場に集まった学生は“静座”、“絶食”など続け、中国国民の応援を得、民主政権を 成立しようとしたが、6月4日中国共産党の解放軍(戦車、射撃)によって鎮圧された。 死者は公式には32人と公表したが、実際はその百倍もの学生が犠牲になった。報復で逮捕、 殺害された学生や市民はもっと多い。当時、北京、上海、南京、西安、蘭州の大学に在学 していた300人以上のウイグル人学生も北京に集まりデモに参加した。 東トルキスタンでは、5月の後半学生組織が成立し、デモをはじめていた。 天安門での弾圧後、東トルキスタンでも徹底した弾圧が行なわれた。 |
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グルジャ惨劇事件 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウイグル太郎 |
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東トルキスタンの50年の独立運動史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
東トルキスタンの50年の独立運動史1 http://www.uygur.org/japan/et/2004/0329.htm 東トルキスタンの50年の独立運動史2 http://www.uygur.org/japan/et/2004/0330.htm 東トルキスタンの50年の独立運動史3 http://www.uygur.org/japan/et/2004/0331.htm 東トルキスタンの50年の独立運動史4 http://www.uygur.org/japan/et/2004/0401.htm 東トルキスタンの50年の独立運動史5 http://www.uygur.org/japan/et/2004/0402.htm 東トルキスタンの50年の独立運動史6 http://www.uygur.org/japan/et/2004/0403.htm (東トルキスタン情報センター・ウイグル太郎) |
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東トルキスタンでは毎年数百人ものウイグル人が政治犯として死刑となり 銃殺されています |
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参照:東トルキスタン情報センター、Wikipedia |
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