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'08.03.14 (金)

教皇パウロ六世 「替え玉」 説 (3)

 

Warnings From Beyond より

下のように言われた内容だけを続けて書くとあたかも彼らは淡々と話しているようですが、実際は映画 「エクソシスト」 さながらだったようです。
私は以下の内容を、ほぼ、信じますが (昨日と一昨日に見た写真によって)、同時に、今の教皇様がこれほど酷い状況には置かれていないことを天主に感謝します。
〔パウロ六世教皇様在位期間:1963〜1978年〕〔強調は管理人〕

お前達は、天主の聖名において、ローマの中に詐称者がいることを世に告げなければならない。彼は本物の教皇とは少し違った顔をしている彼の目は教皇のそれほどは窪んでいない[1]。本物の教皇は弱く病的である。教皇の目は青いが、詐称者のそれは緑である。詐称者は神学を学んだ。彼は周到に準備された。彼は巧みな演技者である。罪を犯したのは彼だけではなく、彼を準備し据え付けた他の者達が最も重大な罪を負う。外交団はこのイタズラに気づいてるが、しかし彼らの多くはただそれを知りたくない。しかし平信徒達までがそれに気づかないのは不思議なことだ。彼らは彼の出来栄えの良くない時にハッキリと気づいてもいい筈だ彼は本物の教皇に完全に似ているというわけではない彼を投入した数人の枢機卿達がいる。しかしそれは聖書が言うように、善人でさえ過ちに導かれるような方法で為された。しかし昨今では、人々はそれほど聖書を参照しない。

彼女が〔上を指す〕私に言わせる。ああ! ああ! 教皇を取り巻いている枢機卿達の何人かは狼である。そして... もし彼らがそうでないならば、そのような高度の技術、すなわち一人の男を使って第二の教皇の役-----あるいは真の教皇は後ろに置かれているから、これは 「第一の教皇の役を」 と言うべきか-----を演じさせるということをもって状況を掌握する、などということはできないだろう。

彼らはそのようにしていると言われている。何故なら、彼らはそのようにして、真の教皇に多くの容赦ない苦しみを、本来彼には耐えねばならぬ所以などない苦しみを与えているからだ。

しかしながら我々は、そこに第二の教皇の働きがあるということを人々に気づかせないように、あらゆることをしている。我々は全人類をひとまとめにしたものよりも賢い。我々はそれを隠しておくために、あらゆることをしている。

私は、彼らは高度の技術をもってそれを隠しおおせる、と言っているのだ。そして、「伝統主義者」 の司祭達や平信徒達でさえそれを信じたくない、認めたくないと言っているのだ。それが現実だ、残念なことに。お前達にとって残念という意味だが。彼らは言う。「そんな筈はないですよ。そんな可能性はありません。そこにはただ一人の教皇がいるだけですよ。」

こう言われなければならない。「聡くあれ。蛇のように抜け目なくあれ! 」
蛇のように聡く、抜け目なくあれ。しかし偽りを証明しようと焦ってはならない。何故なら...〔言葉が途切れる〕 何故なら、そこには実際に支配が〔大声で言う〕あるからだ。偽教皇、教皇の替え玉による支配があるからだ。人々が徐々に目覚めさせられることが重要である。何故なら、彼らは皆ほとんど寝ているからだ。

我々は今、平信徒達、司祭達、そして司教達を混乱させている。そして、他の者に関しては神のみぞ知るだ! 我々はあらゆる人間をあらゆるところで混乱させようとしている。彼らの耳に囁こうとしている。我々はヴァチカンに出入りしている枢機卿を盲目にすることさえできる。我々はこのようにして、人々が初めのうちは全く気づきさえしないように、物事を手配することができる。

現在、手術の技術は非常に進歩している。それ故、やがて、手術を受けた当人までがそう感じるほどに、一人の人間を他人そっくりに作り変えることができるだろう。呼吸に関しては難しいとしても。そして、一人の男が偽物としてヴァチカンに住む時、枢機卿達は暇を見て彼と話し、真の教皇の全ての習慣と特徴を彼に教え込むことができる。それ故、彼がこれら全てを模倣することには何の困難もない。ただ、時々は、彼は小さなミスを犯す。しかし、誰もそれに気づかない。

モダニズムは間違いだ。モダニズムは全く拒絶されなければならない。それは我々が仕掛けたものだ。それは地獄から来ている。モダニズムを広める司祭達は彼ら自身の間でさえ一致していない。誰一人、他の誰かに同意しない。その徴候だけでお前達のためには十分でなければならない

教皇は枢機卿達によって、彼自身の枢機卿達によって苦しんでいる。彼は狼達に囲まれている。そうでなかったなら、彼はもっと多く話すことができるだろう。彼はいわば麻痺している。彼はもはや多くのことができない。嘘ではない。彼は、お前達がお前達の心の中で 「これは為されねばならない」 と感じていることを、もはやそれほど行なうことができない。

彼はもはや自分の文書を公布することができない。何故なら、それは歪められ、また偽造されるからだ。
お前は私がこれらのことを言うことを自ら望んでいると思っているのか?

教皇... 彼は殉教者だ。あるやり方で、彼は全く抑圧されている。彼は死を願っている。彼はこれらの状況下で生き続けたいとは願わない。彼は、彼の言うことが全世界に向けて公表されず、枢機卿達が公表するものは全く彼の望むものではないことを知って苦しんでいる。全ての出来事において、多くの、全てではないが、多くの枢機卿達が関わっている。教皇はひどく裏切られている。彼はどんな実際の刑務所よりもきつい刑務所の中にいる。我々悪魔達が彼の上に強大な圧力を加えている。我々は、我々ができるあらゆることをしている。既に多くのことをし遂げた。

彼は自由を奪われている。それ故、彼はもはやいかなる重要なことも為し得ない。これが、我々が彼のことを 「のろのろ動く虫」 と呼ぶ理由だ。それは地面を這うことによってしか痛みなしに動くことができない。彼は、右を見ようが左を見ようが、前を見ようが後ろを見ようが、言うべきことを持たない。これは、彼が去るのを見たがっている偽りの者達が起こしたことである。

お前達は教皇のために祈らなければならない。彼はどんな殉教者達よりも悪い状態にある。彼はほとんどステファノのように石で打たれるだろう。彼は沈黙を強いられているが、偉大な教皇である。彼は十字架を運んでいる。彼の卓越性は僅かには達成される。しかし彼は小さく、また力なく見える。最初に彼は幾つかのミスをした。彼はかなり前にそれに気づいた。しかし今、彼の手足は縛られ、そして彼の舌さえ縛られている。彼は天に向かって、古い典礼を回復したいと、トリエント・ミサを回復したいと、叫んでいる。彼はそうしたい。だが、彼の手足は縛られている。彼は何もできない。

お前達には教皇パウロ六世がトリエント・ミサの再導入を望んでいることが分かる筈だ。お前達がテレビで見る時にはいつでも、また、これらの新しい事柄の何かを見、あるいは読まなければならない時にはいつでも、これが教皇から来たものではないことを確かに知ることができる筈だ。

彼らは教皇と共に、しかし自分達が望むようにする。彼らは強風の中で吠えている狼のようなものだ。それが彼らが望むこと、そして「現代の」人々、一般大衆が望むことである。だからそれは人気がある。全く近年においてのことだが、今まで教皇の考えに疑いを持つことを知らなかった善き「伝統主義者」である人々までが、誤謬に導かれた。そして今後も、今既にそうであるように、公表される教皇の考えはもはや彼自身のものではないだろう。今、この恐ろしい無秩序の時代にあって、もはや教皇はほとんど何もできない。今、天主自身が介入することが必要である。そして、彼は遠からず、間もなく、介入するだろう。

教皇にとって最悪なのは、彼が 「伝統主義者」 達さえ彼の考えと望みに疑問を持っていることを見ることだ。彼は何もできない。彼がするあらゆることが妨害される。彼が外部に手紙を出したいと思ったとしても、その手紙は元の内容のまま相手に届くことはない。それはポストに投函される前に修正される。[2]

(司祭: 何故、彼は聴衆に向かって、広場にいる彼の聴衆に向かって、このことを暴露しないのだ? 彼は広場では自由に話せる筈だ。)

多くの場合、彼はもはやそうすることができない。もはやそうすることができないのだ。多くの場合、彼は自分が何を言っているのか、ほとんどわからない。これが、いかにこれらの恐ろしい誤謬と混乱が作られたかだ。彼は不運な教皇だ。聖母は彼を憐れんでいる。キリストもだ。しかし、彼は自らの殉教を生き抜かなければならない。彼は非常に長い間、このような生き方を続けるよりも彼自身の枢機卿達によって暗殺されることを望んできた。彼は彼らが自分に対立していることを知っている。彼はとても敏感にそれを感じ取っている。彼の神経は苛立っている。彼は力強い教皇ではない。が、彼らは今は力強い教皇を欲していない。そんなものが立ったら、それをもう一度倒すには長くかかり過ぎるからだ。

状況が今このようであるのも、その聖務において謙遜で、従順で、無私な一人の教皇を持つための、天主の計画の一部である。聖書の言葉は成就されなければならない。これが、この時代に教皇パウロ六世が選ばれた理由である。彼は事実上この目的のために選ばれた。彼らだけは〔上を指す〕彼を憐れんでいる。しかし、これら全てはそう長くは続かないだろう。彼の殉教は間もなく終わる。しかし彼自身にとっては、これはとても長い時間だろう。彼にとって一日は一週間のようだ。否、それより悪く、一ヶ月のようだろう。お前達は彼のために祈らなければならない。たくさん祈らなければならない。あらゆるものが滅茶苦茶になり教会が崩れ落ちていくのを見るのは、彼にとってはゾッとすることだ。お前達は、彼が全てのことが昔通りのやり方でされることを望んでいるということを知らなければならない。それが、もし公会議が召集されていなかったらば、彼が望んだだろうことである。彼は公会議からどういうことが起こったか気づいている。その恐ろしい、破壊的な、壊滅的な結果は、止めることができない。それらは止めることができない。祈りによってでさえも[3]

全ての司教達が、教皇は教会を指揮していないということを知らされなければならない。しかし彼らは信じないだろう。彼らは盲目である。もし彼らが盲目であり信じないなら、彼らの博士号と知性は何の役に立つのか! 我々はそれについて更に多くを知っている。司教達が知っている以上に更に多く知っている。

彼らは互いに恐れ合っている。彼らは皆人々を恐れている。人々によって困難を与えられることを恐れている。彼らは人々がひくバイオリンの調子に合わせてダンスを踊っていたい。たとえその弓が美しい曲を奏でなくても。

もし教皇が孤立していず、四方から監視されていなければ、彼はまだ彼の言葉を外界に届かせるために十分なコントロールを持っていただろう。しかしここ最近の数ヶ月において、状況は更に悪化した。実際、彼の言葉は何一つ公衆に届かない。そして、彼がまだ公布したいと望んでいるものは即座に否定され、修正され、ほとんど偽造と言ってもいいくらいまで変えられる。そうだ、それは偽造される。

枢機卿達にとって、世界中に向けて彼らの考えを公布する極めて簡単な方法など何一つない。何一つ簡単でない。何故ならこれは終わりの時だからだ。もし我々が彼らを操ってこの道に誘っていなければ、また我々が現にそうしているように彼らを我々の支配下に置いていなければ、彼らはもう少しはよく自分自身を省みていたことだろう。しかし我々は全員忙しく走り回っているし、極めて多くの黒魔術に通じた者達が我々の道に従っているから、枢機卿達は現在完全に我々の支配下にある。お前達がすべき一番良いことは、聖霊に向かって多く祈ることだ。私自身とアカボルが従順について既に言ったように、私、ユダが言ったように、従うことはもはや義務ではない。従順が今日ほど大きな声で言われた時代はかつてなかったことは、笑える。今、突然、従順が重大事になった〔皮肉っぽく笑う〕。全く突然に、彼らは全ての人々に従うことを要求している[4]。今、そうすることは実に簡単だ! 私が今言ったことは天の承認のあることである。我々は憎むべき真実を言うことを強いられている。現在、どのようにしてか、現代的な展望を持った人々、また多くの金やその類を持った人々にとって、従うことは非常に、非常に簡単なことになっている。今や「従順」は砲弾のように、地平線を越えて突進しつつ戻って来る。以前はもはやニュースとはならなかったものが、今再び大ニュースとなったのだ!

全ての人々が問題を司教に照会する。司教が彼らの問題を教皇に照会できない時にだ。何故ならば、彼らに答えるのは教皇ではないからだ。

[1] 管理人: 昨日の写真をもう一度見て下さい。この悪魔の言葉には嘘はないような気がしませんか? (もっとも、一昨日の最下段のような他の写真もあるので、"替え玉" は一人ではないかも知れないけれども。)
[2] 管理人: ここで思い出すのは、かつてパリ外国宣教会の司祭ヨゼフ・マリ-ジャック神父様が、1969年に公布された手による聖体拝領についてのパウロ六世教皇様の教令メモリアーレ・ドミニについてお書きになった舌の上に受ける御聖体拝領の弁護(1982年) です。神父様はその教令が持つ 「内的矛盾」 について、こう書いています。「急に文書は "調子" と、"文体" と、"内容" と、"思想" をさえ変えます。まるで、筆者が変わったかのように…。突如として、"真のパウロ六世" が、その考えを表明するのです。急に、断固たる権威をもって、また、明確な理由をもって彼は、いわば、最初の部分すべてに、反駁するのです。」 「878年のルアン公会議以来、再び、あらたに "手" による聖体拝領は、教皇パウロ六世の聖座の権威をもって、厳かに禁じられたのです。ところで、教書 "メモリアーレ・ドミ" はこの結論をもって終わるはずであるのに、最後に数行の取り急ぎの "追伸" のような補遺がついています。」 「力強く確認されたことが、今度は破棄され、断乎として拒否されたことが、今度は受容され、パウロ六世の明確な "ハイはハイ、イイエはイイエ" の後に、小さな加筆。」
私達がここで自らに言わなければならないのは、次の言葉ではないでしょうか。「その徴候だけで私のためには十分でなければならない。」
私達は 「教会」 の言うことをあまりに良心的に見たいために-----「教会」 の中に (しかもその全くの中心部に) 「完全な悪」 が実際に立ち働いているなどとは仮定すらしたくないために-----「ただ信じたくない」 ために-----『メモリアーレ・ドミニ』の多少奇妙な情景を見ても、「まあ、少し奇妙だが、基本と適用との間で物事のこんな置き方もあるのかな」 ぐらいについ思ってしまうのだけれども、やはりヨゼフ・マリ-ジャック神父様のような読み取り方が正しいのではないでしょうか。
[3] Warnings From Beyond の注: 祈りだけではなく、犠牲がなければならない。天主の犠牲 (真のミサ聖祭) と人間の犠牲 (殉教でさえも) である。
[4] 管理人: 人は 「そんなことはない。それは "突然" ではない。従順は古来からのカトリックの伝統だった」 と言うかも知れない。しかし、見よ。今の教会では 「一致」 の名の下にどれほど従順への白雉的な勧めがあることか。どれほど私達を幼稚園児扱いするような、あるいは北朝鮮人民扱いするような?、もっともらしく、しかし実はペラペラと薄っぺらな形で、従順の価値が称揚されていることか。そして本当の従順、従うことが難しい本当の従順がいかに 「どちらでもいい」 ことになっており、「それは昔の話です」 ということになっていることか。
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