「温故知新」を知る町
オペラ歌手 澤武紀行(さわぶのりゆき)旧新湊市出身。
現在、ドイツ・フォアポンメルン州立劇場専属テノール歌手
早いもので、渡欧してかれこれはや12年の月日が流れようとしている。12年の間に本当に色々なところで舞台に立ってきた。ヨーロッパにいるという事実も、空気の様に当たり前の事になり、ヨーロッパ生活という実感も薄れ、気が付けば今は北ドイツの港町にいる。今振り返れば、がむしゃらに突き進んできたような気がする。その間に日本とヨーロッパを30回程往復し、丸一日かかる帰国の途も今ではあまり苦にならなくなった。そのお陰だろうか、自分は本当は何処に所属しているものか分からなくなることが多々ある。人に言わせれば、それは外国生活を鼻にかけてるようにも聞こえ、ある人にとっては、憧れの象徴の様にも聞こえる。しかし、本人にとってはとても重要なことだ。
私の職業はオペラ歌手である。はっきり言って外国産の職業だ。日本で歌舞伎にヨーロッパ人が出るような感覚だろうと思う。しかし、私はこの12年間、ヨーロッパで日本人オペラ歌手として戦って来た。コネも金もないところから自分の道を切り開いてきた。正に開拓者精神である。学生時代、よく仲間から「澤武はどちらというとヨーロッパ人の感覚に似ているから、早く日本を出て、ヨーロッパに渡った方がいい」とよく言われた。私もまだ20代はじめ、すべての事が可能に思えるお年頃である。お恥ずかしいながら、私もその気になっていた。しかし、世の中はそう甘くないのであると、所詮日本人は日本人でしかありえないのである。渡欧した第一日目で大目玉を食らった。日本でもカルチャーショックと言う言葉を聴くが、日本で我々が考えてるようなカルチャーショックは、「ショック」の内に入らないであろう。飛行機から降り立った地は、国際ロータリー財団奨学生として送り込まれた、モーツアルト生誕の地”ザルツブルク”であった。それからザルツブルクに5年間住む事になるのであるが、それはさておいて、到着した日は、日曜日の夜10時30分。真っ暗である。フランクフルトから乗り継いできたが、飛行機の中も数人の搭乗者しかおらず、一抹の不安を抱きながらの着陸だった。空港のお店は既にしまっており、到着ロビーにも、迎えに来た数人しかおらず、私はあっという間に一人取り残されてしまった。タクシーでホテルに向かおうとするが、そのタクシーも空港には、一台もおらず。途方にくれた。泣きたい気分であった。捨てる神あれば拾う神ありで、一人の男性が助けてくれ、タクシーを呼んでくれ、無事にホテルに着いたのであるが、日本であれだけドイツ語を褒められ、自身たっぷりだったはずなのに、時差ぼけや長旅の疲れもあったのだろうが、ドイツ語が出てこない。出てこないというより、気後れして話せないのである。私ははじめてそこで、「自分は日本人」であることを認識した。それじゃ、その前は「日本人」だとは思ってなかったのか思われる人もお出でになるかもしないが、わたしはその時点まで自分が「日本人」であるというそういう意識は持っていなかった。日本で、日本人の両親から生まれて、日本で育てば、誰だって自分は「日本人」だと当たり前に思って生きてるでしょう。しかし、わたしははじめて一人で異国の地に立って、自分は「外国人」であると言うことを認識させられたのである。そのショックは良きにつけ、悪しきにつけ、生涯忘れることの出来ない物になったのである。また、そのショックはヨーロッパで生きていく上での覚悟をさせたといっても過言ではないと今は思う。
外国生活に慣れるためには、そこの国のものを食べ、日本を忘れること・・と誰かに言われたことがある。が、これは私の経験から言うと、益々その国の事を分からなくする事である。なぜなら、比較がなくなるからである。どこか忘れたが、何処そこの大学の図書館の前に、「外国語を知らないものは、母国語を知らないものある」というような事が書かれてあると本で読んだことがあるが、なるほど・・・と考えさせられた。確かに、外国語をしらなければ、母国語が果たして本当はどう言うものか・・なんてわからないだろうと。他の状況をしらないと、今置かれた状況も冷静には判断できないであろうと。世の中は全て比較の世界である。新しいものがあるから古いということが判るし、美しいと思うものがあるから、醜いというものも生まれてくる。そうではなかろうか。
ヨーロッパ生活5年を過ぎた辺りから、日本に帰国するたびに、何となく違和感を覚えるようになった。何故かと考えたが最初は分からなかった。しかし何度か帰国しているうちに、あることに気が付いてきた。それは、日本の昔からのものが無いということである。毎回帰ってくるたびに、昔からあった古いよき建物は壊され、新しいマンションや住宅地になっていたり、古き良き日本がなくなってきていることであると。ところがヨーロッパの町は違う。古いものがそのまま残っているのである。私はなにも、音楽や絵画のみが文化とは思っていない。その国の町並みや郷土品も重要な人類の文化であると思っている。ヨーロッパ、特にドイツ人の素晴らしいと思うところは、自分たちの町に誇りを持っており、昔からあるものをとても大事に守り続けることである。それは、新しいものを寄せ付けないということではなく、古いものを生かしつつ、守りつつ、新しいものを融合させていくというものである。「温故知新」とでも言ったらいいだろうか。日本だったら直ぐにアスファルトにしそうな町の中の石畳の道を大事に守り続けているのである。でこぼこして女性など絶対ハイヒールでは歩けそうにもない道を残しているのであるそれはなぜか、町の文化であり誇りだからなのである・・・と私は思う。日本人は新しいもに、何か時代の先端を感じ、何かの希望を見出そうとしているのであろうが、果たしてそれが本当に良き日本を作り出すことになるのであろうかと考えことがある。
先日の帰国の際、富山市・岩瀬のライトレールに乗ってきた。射水市の万葉線も久しぶりに乗り、新しい「赤い電車」で高岡まで出た。やはり、電車から眺める外の景色は、車から見る景色とまったく違って見える。電車は時速何キロで走っているのか知らないけれど、ちょうどいいスピードで景色が流れていく。「米島口」までは実にほのぼのとした景色が見られて、時間を忘れさせてくれる。新しい家もたくさんあるが、小さいころにいつも電車で高岡に行っていた幼い頃の時間にタイムスリップする。しかし、岩瀬のライトレールはもっと時間の交差点がある。富山駅前から約30分で昔の時間にタイムスリップするようだ。少し町を歩いてみたが、古い昔から建物、町並みが残っていて、なんとも落ち着いた感じがある。しかし、その中に新しいものを取り入れた町並みは、ヨーロッパを髣髴させる。きっと町をあげて景観の保存に徹していられるのではないかと痛感した。電車の通る道も両脇にまだ田んぼがあったり、小川が流れていたり・・・しかし、電車は時代の先端を行くハイテクの車両。このコラボレーションがとてもいいと思った。私が乗った時はちょうど週末で、家族連れで電車は大賑わいだった。その風景を眺めていたら、綺麗に着飾った女性と、タキシードに蝶ネクタイのご夫婦を思い出した。ドイツのデュッセルドルフも街の中をライトレールのような電車が走っているが、演奏会後にホテルに戻る時に乗った電車の情景だ。初老のご夫婦は、オペラを見て帰る所だと話してくれた。また私個人的には、富山オーバードホールの目の前に駅があるというのがなんとも嬉しい。市電が発達しているヨーロッパの街は、コンサートホールやオペラハウスの目の前にちゃんと駅がある。だから、聴衆は渋滞を心配することもなく、鑑賞後にお酒を飲んでも帰りの心配もすることがなくゆっくりと時間を楽しむことが出来る。その配慮に私は感激した。電車が聴衆と劇場を結んでいるかのようだったから。以前、「万葉線に乗ってコンサートに行こう!」という企画を思いついたのだが、高岡市も射水市も、電車からコンサートホールがちょっと遠い。残念だったけれど、これはもう少し検討の余地ありと断念したのだが、富山オーバードはそれが出来そうだ。
「温故知新」。私はこの言葉が大好きだ。
ライトレールが走る道筋は「温故知新」の重要さと時間の贅沢を再確認させてくれた気がする。
オペラ歌手 澤武紀行(さわぶのりゆき)旧新湊市出身。
現在、ドイツ・フォアポンメルン州立劇場専属テノール歌手