'08.01.04 (金)
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佐世保散弾銃乱射事件 |
世の中のスピードがあまりに早過ぎるために、「今頃」の感もありますが...
先月14日に起きた長崎県佐世保市での名簿上のカトリック信者による散弾銃乱射事件について、私達は何を思うべきだろうか?
「実は馬込は、高校時代、黒ミサとか黒魔術にすごく興味を持っていました」
と、独特な世界観、宗教観を持っていたことを証言するのは、ある同級生。
「不良っぽい奴から、からかわれたりすると、馬込は、相手に聞こえないくらいの小声で妙な言葉をつぶやいていました。それが黒ミサとか黒魔術に出てくる呪いの言葉だったのです」
(中略)
奇妙なことに、小柄な倉本さんに対し、長身の馬込は下から上に向けて発砲し、天井には大量の血痕が付着していたという。天に叛き、禍々しいシンボルを創作したようにも思えるのだ。(週刊新潮 12月27日号)
まず、この事件の被害者の方々のご冥福をお祈り申し上げます。
また、「犯人」と呼ばれるに至った霊魂のご家族(特に親御さん達)にも、主の御憐れみを願います。
上の記事にみられるように、自殺した犯人が高校生当時から黒魔術に関心を持っていたことは確かなようである。彼の同級生らの証言として、複数の報道が伝えている。 私達はこのことに何を見るべきだろうか?
このような事象の「原因」に関して、私は昨年11月7日の日記で書いた言葉をもう一度繰り返す必要を感じる。
> 「原因は多く、そして複雑です」 その通りです、ブニーニ大司教様。
> この世の現象はどれも、その「目に見える原因」を拾えば、
> 「それは多く、そして複雑」です。
「目に見える原因」について一般人が言えば、「彼はキ印だったんだ」で終わるかも知れない。あるいは精神科医が言えば、「彼は統合失調症だった」ということになるのかも知れない。けれど、私は私の個人的確信として、「そこには悪魔・悪霊の存在がある」 と信じている。ごく当り前のことように信じている。精神病の(そしてあらゆる「犯罪」の)背後のかなりの部分に、それらの働きがあると思っている。それはちょうど紙の表裏のようなものだ。精神科医が紙の表を見て言うことも間違ってはいない。でも、それだけではない。まして「患者」が自ら黒魔術に関心を持っていたなら、そこにはなおさら疑いの余地はない。
しかし、カトリック司祭の果たして何割が、悪魔・悪霊のワルサについてはっきりとした意識があるだろう? この犯人の所属教会の神父様がニュースにちらりと出ていたが、彼は自分の信者が黒魔術に何らかの傾倒を持っていたことを知って、今、何を思っていらっしゃるだろう? 何かハッキリしたことをお考えになっているのか。それともぼんやりなさっているのか。
私が以前関東に住んでいた時、ある教会で司祭が殺害されたことがあった。それも御聖堂の中でである。確か、一人の信徒が朝聖堂を訪れると、そこで神父様が殺されているのを発見した、ということではなかったかと思う。その後何も聞かなかったから、あるいは迷宮入りになったのかも知れない。
私は、このようなことを見る時、「カトリック信者はこれらを単に "事件の一つ" と思うべきではない」と常に思う。つまり、何と言うか、この世的な目ばかりで「事件の一つ」と受け止めるべきではない。一般にも世間のあらゆる犯罪は「人間と悪魔・悪霊との共同作業」と言えるが(もちろん人間側は無自覚である)、中でも教会がらみの事件や犯罪は悪魔が特に狂喜するところである。
私が以前別の信仰を持っていた時-----それはもちろん異教であるが-----ご神前のご神体(信仰の的)を傷つけようとして暴漢などが押し入って来そうになった場合、上長から「何をしているのですか!」とドヤされるのは私達信徒であった。神の教会にそのような暴漢が入りそうになったこと自体、それを許したこと自体において私達の信仰が責められるのである。曰く、「祈りが足りないからです! 御用が足りないからです!」
もちろんそれは異教の話である。われらの天主の唯一の真の宗教ではないところの話である。何の正当な根拠もない。しかし、いちおう宗教文化的に比較して言わせて頂ければ、「悪魔・悪霊というものに対する認識において、カトリック教会には何という "甘さ" あるものか」と思わずにはいられない。聖堂内部で神父が殺害されてさえのんびりしている。まずまず世間一般の事件の一つだと思っている。「残念だけれど、教会と言えども人間の世界だから、こういうことも時にはあるのだ」とまとめている。「悪魔・悪霊の働き」などほとんど思わない。私達の祈りの不足を思わない。祈りを「防備」だと思わない。
果たして現代の(否、過去においてだって意外とそうだったかも知れないが)カトリック司祭は、「悪魔」 「悪霊」 「黒ミサ」 「黒魔術」 というものに関して、どれだけの "現実感" を持っているだろうか? エクソシズムを苦笑する人達ばかりなのか?
また、信者にしてもそうである。もしこの事件の犯人の身内がそれらについて認識があり、彼の所持している書物やアクセサリーなど(もしそういうものがあれば)に敏感に気づいていたなら、この事件は阻止できていたかも知れない。(事実、これら「黒ミサ」や「黒魔術」が決して少なくない西欧では、少なくとも日本よりは警戒心があるようである。)
また、それ以前の問題もある。これの方がより重大に違いない。たとえば、現代のカトリック教会においては主日のミサが実際には(つまり教会文書上でどうであるかは別として司牧の現場で)「掟」にはなっていないことである。ある信者が教会に来なくなっているのに気づいても、司祭は「まあまあ、長い人生には色々なことがありますよ。しかしそれでも神様はその人のこともお気にとめていらっしゃるのです」などとまとめて、迷った羊を立ち返らせるための積極的な働きかけなどチッともしようとしない。しかし、もし現在の教会において文字通りの「掟」があり、「掟」に背くことが文字通りの「大罪」になっており、「大罪」の状態がそのままでは「地獄行き」を意味していることに文字通りなっており、そしてもし自分の息子のことで親が司祭に相談をしており、司祭がその彼が年に数度しか教会に来ないのを知っていたならば、司祭が家族に「今度一度私のもとに彼を来させなさい」と言うぐらいのことは、司祭としてごく当然のことだったと言えるだろう(しかし、今、そんな動きは教会の中に「100%ない」と言ってもいい)。司祭は、聖ピオ十世の公教要理の始めにある「本当のカトリック信者とは」という古い言い回しに固執することによって、「名簿上のカトリック信者」を救うこともできたのではないか。そしてもちろん、この事件の被害者達をもである。
しかし、現在の教会では、「掟」も、「大罪」も、「救霊」も、「地獄」も、何もかも薄く伸ばされてしまっている。
悪魔は狂喜している。
主の御聖櫃の前で神父が殺害されても(もちろん聖徳の司祭であった場合、殉教の可能性もあるけれども)、御聖堂の横で悪魔に犯された哀れな信者が散弾銃で自分の頭を吹き飛ばしても、「主に申し訳ない」と思わない、「私達の罪だ」と思わない、「教会をあげて償いをしなければ」と思わない。ただひたすら「事件だ」と思ってぼんやりしている。
恐れながら申し上げますが、これは何という霊的盲目でしょうか。
私自身天主の「ふるい分け」の前に置かれた人間なので、恐れながら言いますが...
それ故に...
「われわれ暗黒の王子達は、王子、高位聖職者、霊魂の牧者、お前達に感謝する。お前達の怠慢によって多くの信者達が地獄に落ちているからだ。」
悪魔は狂喜しています。
これはあまりに明らかなことではないでしょうか?
主よ、われらを護り給え!
聖母よ、われらのために祈り給え!
天軍の総帥大天使聖ミカエル、われらを戦いにおいて勝たしめ給え!