元木昌彦 プロフィール

元木 昌彦(2008-03-12 15:34)
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1945年
 3月の東京大空襲の後、読売新聞に勤める父親は東京に残り、身重の母親だけ新潟へ疎開。11月24日に私が生まれる。

1948年
 新潟から横須賀へ移り、3歳の時、東京・中野へ戻る。そのとき中野駅から眺めた一面の焼け野原が忘れられない。

1950年頃
 読売新聞の野球部に所属していた父親に連れられて多摩川のグラウンドへ、父親たちの試合を見に何度か行った。その隣は巨人軍の練習場だったが、ある日、私がベンチに座ってボンヤリしていると、巨人軍のユニホームを着たおっちゃんが寄ってきて、「坊や何してるの?」と聞くので、「お父さんの野球を見てる」と答えると、当時としてはもの凄く珍しいキャラメル(12個入りの森永キャラメルだったと記憶しているのだが)を10個以上手渡してくれた。嬉しくて、練習を終わって戻ってきた父親にそのことを話すと、「その人は誰だ?」と聞かれ、柵越しに指をさすと、「あれは川上(哲治・野球の神様と言われた)と言って、巨人軍の4番だ」と教えてくれた。それ以来、父親に続いて二代目の熱烈な巨人フアンになってしまった。

1967年
 早稲田大学商学部に入学するが学生運動真っ盛りでほとんど学校へは行かず、昼は映画館に入り浸り、高倉健、藤純子のヤクザ映画にしびれ、夜はバーテン稼業で青春を謳歌し過ぎる。

1970年
 読売新聞と講談社に合格するが、東京を離れるのが嫌で講談社を選ぶ。しかし、就職が決まっても単位がとれず、4年の3学期まで2年生に混じってドイツ語の授業を受けてかろうじて卒業する。

 1ヶ月研修の後に月刊『現代』に配属。いきなり、3月31日に起きた連合赤軍による「よど号事件」で一躍有名になった「I機長独占インタビュー」をとれと編集長から厳命される。毎晩ラブホテルに泊まって機長宅に夜討ち朝駆けするも一度も本人に会えず。後から聞けば、I機長には愛人がいて別宅にいたとのこと。

1972年暮れ
 ベトナム戦争最中のサイゴン(現ホーチミン市)へ初めての外国旅行。メコンデルタの夕日の美しさとジョニ黒の味が忘れられない。

1973年
 『週刊現代』に配属。トルコ風呂(今のソープランド)取材から事件、芸能まで何でもこなすが、一番熱心だったのは競馬取材。土、日になると作家の山口瞳さんと日本中の競馬場巡りに精を出す。

1980年
 某芸能プロダクションのスキャンダルをやって大騒ぎになり、『婦人倶楽部』に島流しになる。やることがないので、小説雑誌で編集長を殴って飛ばされてきた先輩と、当時流行り出したカラオケ・スナックを毎晩ハシゴして過ごす。

1981年2月
 零下40度のミネソタ州ミネアポリスにホームステイ、20日間。

1982年
 月刊『現代』に戻る。

1986年
 たった一人で北朝鮮に1ヶ月滞在。アル中寸前に帰国。

1990年

 『FRIDAY』編集長。

1991年

 新興宗教団体・幸福の科学とのトラブルで、景山民夫(作家・故人)や小川知子(元歌手)たちの「元木辞めろ!」のシュプレヒコールを毎日聞かされノイローゼ寸前。

1992年
 組長夫人の記事に怒った広域暴力団・山口組の鉄砲玉2人が、早朝、編集部を襲い、副編集長を特殊警棒で殴って逃走。当の編集長は小椋桂氏(歌手・当時は第一勧業銀行の浜松支店長)とカラオケを歌うために出張中で不在。この後、講談社の警備が厳しくなり、社員証を提示しなくては入館できなくなる。

1992年11月
 『週刊現代』編集長。「ヘア・ヌード」なるジャパングリッシュを生み出して世の顰蹙(ひんしゅく)を買い続ける。編集長在任中の5年間に増えたのは白髪と告訴の山だけ。

1995年
 『週刊現代』編集長兼第一編集局長

1997年
 ビジネス誌『エルネオス』で「メディアを考える旅」を連載開始。

1997年9月
 週刊現代の記事「早稲田大学はついに三流大学に成り下がった!?」に早稲田大学から激しい抗議を受ける。奥島総長は『文藝春秋』誌上で「元木」の名前を再三挙げて批判する。

1999年6月
 世界初のインターネット・マガジンと謳って「Web現代」を立ち上げ、“ITの旗手”ともち上げられる。「回転寿司占い」「立川談志の世相放談」「宮澤正明写真館」「アイドルCD販売」「ニュース放送」「オンデマンド出版」など手当たり次第にやってみる。そこでわかったのは、当たり前だが、編集の基本はアナログでもデジタルでも全く同じだということ。違うのはオンペーパーで読むかディスプレーで読むかの違いだけ。本人はあくまでも紙媒体一筋人間。

2001年
 講談社の関連会社「三推社」(『ベストカー』や『FENEK』を出版)の専務取締役。

2001年秋
 講談社から「編集者の学校」を出す。三刷になるが印税はゼロ。

2002年
 4月から新宿住友ビルの「朝日カルチャーセンター」で「編集者の学校」講義。

2002年7月
 早稲田大学とのトラブル以来、二度とお呼びがかからないと思っていた早稲田大学の人間科学部から講演依頼があり、所沢の校舎で2時間話す。感激!

2003年3月
 「日本のルールはすべて編集の現場に詰まっていた」(夏目書房)を出版。

2006年5月
 「週刊誌編集長」(展望社)を出版。

2006年11月
 講談社を定年退職。

2007年2月から、
 鳥越俊太郎さんに頼まれて「オーマイニュース」編集長代理に就任。6月編集長就任。12月から代表取締役社長に就任。法政大学、大正大学、上智大学講師。

 これからの夢は、酒と競馬を極めることと、英語の勉強のためにアメリカへ語学留学すること。

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