2008年03月13日

魔法にかけられて 58点(100点満点中)

ぶっかけパラダイス
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アニメ世界のお姫様が、実写の現実世界へ迷い込んで起こる騒動が、おとぎ話アニメーションの本家であるディズニー自身の製作により、セルフパロディ的に描かれる、実写アニメ混合映画。

フィクション世界の住人が現実世界へ現われて、認識のギャップにより騒動が起こるといった話そのものは、古今東西に数多く存在するものであり、アニメ(絵)をそのまま実写に置き換えたビジュアルギャップでまず、ファーストインパクトとしてのおかしさを表現する手法も同様。

フィクション世界の荒唐無稽さを現実と照らし合わせてギャグとし、現実はそんなに単純なものではないとフィクションキャラクターに突きつけつつ、現実側の人間もまた、フィクションキャラの純粋さに感銘を受けて自分自身や現代の価値観を見つめ直す、と展開するのもまた、同ジャンルにおける定番パターンである。

本作、基本的にはそのパターンを忠実に踏襲しているため、意外な事は何一つ起こらず、笑いもまた極めて予定調和的なものばかりで、大枠自体は特段に評価すべきところはない。だが本作を製作したのが他ならぬディズニーである事で、細かい部分での仕事の徹底には、目を見張るものがある事も確かだ。

冒頭に展開するアニメーション世界のパートの、エフェクトとしてCGを使いながらも、基本的にはセルアニメーションで作られた、古き良き時代のディズニーを再現した映像は、本作の狙いに沿ったものとして上質。画面内の動物達の細かい動きの演出や、意図的にステレオタイプに作り込まれた人間キャラクターの造形、演出等、セルフパロディ作品として的確な仕事と言える。

一方の実写パートでは逆に、現代のCG特撮技術の粋を尽くした映像にて動物やモンスターを登場させ、見た目よりまず製作手段の違いを見せつけられる事で、両世界のギャップおよび作品のあり方を提示している。

現実世界で動物を操る事、いきなり歌って踊り出す事などを、当初は奇異な現象、ふるまいとして、リアリスト弁護士の視点を通じて見せつつも、それはあくまでも彼からの一面的な観点によるものでしかないのだとすべく、弁護士の恋人のロマンティストぶりや、セントラルパークでのミュージカルシーンを配置している、このバランスの取り方は秀逸。

その場で歌や踊りに違和感を抱いているのは弁護士のみであり、それ以外は皆喜んでミュージカルに参加している光景を、パロディを交えて時間をかけて見せる事で、"アニメを現実に持ち込むとおかしい"なる単純で底の浅いものの見方ではなく、決しておかしいだけではないと表現している。これは、現実世界に夢の国であるディズニーランドを作り出した、ディズニーならではの解釈と表現と言える。

姫の影響で愛や夢を尊重する事を受け入れ始める弁護士と、弁護士の影響で現実を受け入れ始める姫を、両端から接近していく図式として用い、その過程として離婚夫婦の和解を用いるなど、あくまでも両方の価値観を尊重しながら物語を進めているあたりに、単純な自虐パロディに終わらせようとしない、ディズニーの矜持が見られる。

舞踏会をキーファクターとし、姫はそれをアニメ世界に帰りたくない言い訳として用い、衣装や髪型も現実的なものと変える様で、彼女の思想、価値観の変化を表現し、一方で弁護士の恋人ナンシーは、舞踏会をロマンティックな場として素直に受け入れ、王子の言葉を評価する、と、二つのカップルが交錯していく起点を、わかりやすすぎるながら上手く描いている。ナンシーの顔がいかにもディズニーアニメ調な時点で、最初から彼女がどうなるか予想出来てしまうのは、笑えつつも惜しいが。

ドリームワークスの『シュレック』の様な、ディズニーアニメの価値観や様式を悪意を持って皮肉るブラックパロディとは異なり、価値観を嘲笑うわけでも、逆転させるわけでもなく、おとぎ話の単純構図化された"真理"を尊重し、その上で現実を生きる事が、幸せに繋がるのだとしている本作、分別ある大人に向けた夢物語として心地いいものだ。

「いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」に疑問を投げかけるパターンかと思わせつつ、結局最後は現実アニメの両方がそれで終わってしまうあたり、ディズニーとしての頑なコダワリを感じられもする。

と言っても、やはり特別な事が何も起こらなすぎる、予定調和に徹しすぎたストーリーは、パロディや小ネタのディテールだけで楽しみつくすには苦しく、これで満足とはいかないが。

それにしても、『X-MEN』『スーパーマン・リターンズ』そして本作と、ジェームズ・マースデンが恋人かっ攫われキャラに定着してしまっているのが何とも笑える。『ヘアスプレー』とも併せ、古臭いイケメン顔としても定着しつつあり、もはや彼自身が出オチと化す勢いだ。

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2008年03月12日

子猫の涙 64点(100点満点中)

素直でいれたら (いいね)
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ボクシング好きなら知らぬ者はいない、関西を代表するボクシングジムのひとつ"森岡ジム"の創設者にして、1968年メキシコオリンピックにてバンタム級銅メダルを獲得した伝説のボクサー・森岡栄治の人生を、彼の甥である映画監督・森岡利行が綴った追想記『路地裏の優しい猫』を原作に、同氏の脚本・監督により映画化。

森岡栄治を描くための作品でありながら、彼を主人公とするのではなく、彼の幼い娘・治子(藤本七海)の視点をメインとしているのが、本作の特徴であり成功要因だろう。

この治子を、リアル『じゃりん子チエ』とも言うべき"ダメ父に呆れ返る醒めた子供"としての一面を基本とし、いじめっ子男子を一撃必殺でKOするなど『リングにかけろ』の菊姉ちゃんを髣髴とさせる、心身ともにやんちゃキャラとしてまず描き、キャラクターとしてわかりやすい魅力をストレートに提示して、観客の視点を彼女の側に振る事に成功している。(姉が強気で弟が甘ったれという図式が『リンかけ』そのもので笑える)

その上で、親に対する愛憎入り混じった心情の機微や、好きな男子に対するほのぼのでツンデレな恋模様への感情移入や共感を生み、素直な笑いと感動に繋げるべく機能している。

森岡監督は、リアルとディフォルメを巧妙に混淆させて魅力ある少女キャラクターを作り出す能力に長けている事は、本作にも出演している黒川芽以主演の『問題のない私たち』の頃から顕著であり、今回の治子の造形にも、そのセンスは如何なく発揮されている。

森岡栄治のボクサーとしての"栄光の日々"は早々に説明だけ済ませ、その後の転落していくダメ人間人生を物語の中心に置いている本作、筋書きだけ追えばかなり悲惨で救いのない(人も死ぬ)話にも拘わらず、むしろユーモア溢れる感覚が全編を支配しているのは、先述した『じゃりん子チエ』にも共通する、大阪という土壌や大阪弁の持つ、ポジティブな空気のなせる業だろう。

その絶妙な空気を作品内に再現出来たのは、監督自身が大阪で生まれ育った事に始まり、藤本七海や紺野まひる、あるいは山崎邦正、喜味こいし師匠、赤井英和ら、大阪ネイティブの出演者を多く揃え、それ以外の俳優達にも、監督自身がこだわりぬいて"大阪人"を演じきらせた、最近の関西発映画に共通する徹底した姿勢があってこそとは言うまでもない。(ちなみに広末涼子は高知出身ながら何故かデビュー当初から関西弁トークが上手い)

犯罪者の肉親やヤクザのパトロンといった、普通は隠してしまう様な"裏"の部分さえも、それにまつわり起こる悲劇や惨劇さえも、引くどころか笑えてしまうべく徹底した作劇は、自虐ギャグを恥と思わずむしろ好んでやりたがる、関西人特有のお笑い気質が存分に活かされたもので、決して不幸自慢に終わらないそれが、本作の独自性を強め面白さとしている。そうして繰り広げられる、「アホ」「死ね」の言葉が家族間でも普通に交わされる"自然な光景"が何より微笑ましく、不幸な話が全くそう見えないのだから素晴らしい。

先述の、治子がいじめっ子をKOする場面や、栄治の試合場面だけでなく、高校時代の栄治が番長グループ(笑)と乱闘するシーンなどアクション映像の迫力は、バイオレンスVシネを手がけている監督だけに手馴れたもので、その中にも決してコミカルさは忘れない配慮も徹底されており、似た時代の京都での不良のケンカを題材とした逆ギレ映画などよりも、ケンカ場面としての完成度は大幅に上だ。

その高校時代の描写にて、武田真治やケンカ相手の唐渡亮がそのまま高校生役を演じているのも、笑えるが違和感はさほどなく、紺野まひるのセーラー服姿に至っては、彼女の美しさを再確認出来る貴重な映像と言える。ファンならずとも必見。(子供を置いて別れる前妻、という役どころが『暴れん坊ママ』と同じなのも面白い。と言うより、家族の構造そのものが『サイドカーと犬』と非常に似ているのは偶然だろうか。何せこちらは実在家族である。閑話休題)

のだが、基本的には治子の視点をメインとしつつ、後妻(広末涼子)や兄(山崎邦正)とのエピソードなど栄治の視点で描かれる場面がところどころに挿入される事で、物語がどこに向けて進んでいるのかが曖昧、散漫となっている感が強く、全体としてのまとまりに欠け、興味が最後まで持続し辛いのが難。肉親だからこそいろいろなエピソードや人物を詰め込みたかったとは思うが、一歩引いた非情な"取捨選択"が欲しかったところ。

ずっと治子の視点のみで通していれば、刑事の口から語られる"取調室"のエピソードの特異性が引き立ち、その場面を後出しにした意味が充分に活きた筈だ。

その取調室シーン、やたらとカルシウム不足な柔道刑事の、オーバーすぎるリアクション演技に興醒めさせられるマイナス点も気にかかり、せっかく素直に泣かされた葬儀場面の感傷が目減りしてしまうのも勿体ない。笑いから泣かせのギャップを作ろうとして、やりすぎてしまったか。

と、いろいろと気になる部分もあるが、総じては大阪らしい優しい笑いで幸福感に包まれる、良質の人情コメディ映画であり、森岡栄治や森岡ジムを知らずとも、誰が観ても楽しめる一品だ。

藤本七海、黒川芽以、広末涼子、紺野まひる、宝生舞らにとどまらず、担任教師役の長澤奈央、同級生役の市川美織など、子供から大人までビジュアルと演技力を兼ね備えた豪華女優陣が揃っているあたりにも、『問題のない私たち』同様の監督のこだわりを強く感じさせられる。

後は谷村美月さえ出ていれば、大阪の人情映画として完璧だっただろうに(笑

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2008年03月11日

バンテージ・ポイント 65点(100点満点中)

「答えはCMの後!」→ CM明けはまた出題から
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大統領狙撃事件の真相を複数の視点で追う、サスペンスアクション映画。

監督がTVドラマ出身だからか、『24』に代表される、とにかく後出し後出しで興味を惹き続けるタイプの作風となっているが、その手法そのものが本作の特色である事には相違ない。と言うよりも、情報を後出し後出しにする事のみで作品を成立させていた『メメント』同様、その構成トリックだけが見ものと評しても過言ではないだろう。

同じ数十分を別の視点で何度も繰り返す構成をとっている、本作の手法自体は、最近の邦画でも『XX 魔境伝説』や『東京少年』などに用いられている、既に定着したものであり、特別に斬新というわけではない。また、あくまでも現実の事象に対し、主眼を置くポイントを変えて繰り返していくもので、最近のアニメ映画『リトル・レッド』など、いわゆる『羅生門』スタイルすなわち各人物の"主観"による"証言"にて真相が露呈していく手法とは、ジャンルとしても意味合いは異なる。

基本的には、先に決めておいたストーリーを、興味の惹きどころを考えながら、大切な情報が後回しになる様に並び替えたものだ。だから時間軸の相互関係に破綻がないのは当然だが、その並べ替えによる興味の持続は的確で、少なくとも、劇中に登場する犯人グループが全員出揃うまでは、飽きる事はないだろう。

時間を巻き戻す時、視覚的にもそのまま巻き戻しの映像を見せるなど、テレビ出身監督ならではの、わかりやすさを重視した演出や作劇もありがたく、短い時間に多くの人物が登場しバラバラに慌ただしく動くストーリーながら、誰が誰かわからなくなる事がない配慮も感じられる。ただ、わかりやすさを考慮するあまり重複が多い事が気になるが。

各人物における、中途半端に言及される過去や背景にはあまり意味がなく、あえて多くを語らない事で破綻を無くす工夫もまた、わかりやすさと想像の余地を両立させたもので、政治的なイデオロギーは控えめに、あくまでも娯楽に徹する姿勢の一環だろう。下手に人物を掘り下げ始めると収拾がつかなくなり、その分ツッコミどころも増大するのだから、劇中時間のみに焦点を絞りきった方向性は正解。

テロ側だけでなく大統領側にもあった秘密が明らかになる展開は、それを明かすタイミングも併せて上手く、愛しあっていると見えた男女が、視点が変わるごとに意味も変わっていくシチュエーション設定などは、構成トリックを最も効果的に活かしており秀逸。背景説明がない事も効果的だ。

正義を気取るテレビレポーターが、実は野次馬の代表でしかないのだとでも皮肉る様に取り乱し、アッサリ死ぬくだりなどからは、ブラックな狙いが感じられ楽しい。ソニーのカメラが大活躍するのは露骨で苦笑ものだが。

とは言え、警備やカメラにおける御都合主義な展開など、肝心の犯行においてツッコミどころが残されているのは、悪い意味でテレビ的な安易さとも言え、良くしたものとは言い難い。実行犯がコントローラを持ち込むトリックは見せたのに、爆発物が持ち込まれる段取りが不明なのはアンフェアだろう。

そして、後半のクライマックスとして用意されているカーチェイス場面だが、これは評価し難い。後出し情報で引張ってきたストーリーは、この時点でほぼ全て、結末以外は終わっているのにも拘らず、延々とカーチェイスを続けてしまうのは、ストーリーを停滞させているとしか感じられず、画面内の慌ただしさとは正対に極めて退屈でしかない。自爆シーンの様な、事件の事象そのものを、それが起こるとわかっていながらそれに至る描写から目が離せなくなるといった場面演出は上手いだけに、そうした方向でクライマックスを盛り上げるべきだったろう。

これが『ボーン・アルティメイタム』のカーチェイスの様に、それ自体が緊張感と娯楽性を増幅させるだけの映像演出がなされているのなら別だが、ただ走り回っているだけでは「いいから話を進めろ」と思うだけで少しも盛り上がれない。もちろんこのカーチェイスは、結末に結びつく一つの構成要素ではあるが、それだけの役割にしては無駄に長過ぎるのだ。この冗長さがなければもっと評価は上がっていただろうから、欲目をかいてしまった事が惜しまれる。

とは言え、ノンストップ娯楽アクションとしての完成度は、先述の『ボーン〜』には到底及ばないものの、二線級のお手軽娯楽作品として、『24』や『LOST』でも観るのと同様に臨めば楽しめる筈だ。あまりハードルを上げない方がいい。

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2008年03月10日

映画 クロサギ 1点(100点満点中)

シロサギさんたら読まずに食べた
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黒丸原作(夏原武:原案)の同名詐欺バトル漫画を実写ドラマ化した、山下智久主演によるTVドラマシリーズの劇場版。

TVシリーズは、当該クールにおいてドラマ視聴率戦に惨敗したTBSとしてはマシな数字ながら決して大人気、好評とは言えず、それでも大々的に映画を作ってしまうあたりの強引さから、業界の力関係が否応無しに匂ってきて辟易する。と言っても、ドラマ放送前から映画製作まで決めてしまい、完全に引っ込みが付かなくなった『スシ王子!』よりはマトモだが。

金貸しではなく詐欺師が主人公となり、絵がスッキリした『ナニワ金融道』とでも言った趣の原作漫画は、金に翻弄され騙し騙される人間をステロタイプに描いて愚かしさを表現し、詐欺師がカモを騙す手法と同じ手法で詐欺師を騙す主人公の"手口"に焦点を当てた作劇によって、『必殺シリーズ』や『ワイルド7』などのにも類する、「毒をもって毒を制す」ピカレスク勧善懲悪ストーリーが小気味よい良作と言える。

その原作、かなりの御都合主義やあざといまでの登場人物の頭の悪さなどツッコミどころは多々ありつつも、ディフォルメされた絵で描かれている漫画だからと、所詮は"作りごと"である事前認識のため大して気にはならず、むしろ現実では有り得ないからこそ割り切って楽しむ事が出来るものだったが、これが実写になると途端に、見た目のリアリティがアップしながら荒唐無稽さだけが残される事で、子供騙しのマンガストーリーにしか感じられない状態となってしまうのだ。

ドラマ版ではその問題点に何ら対策を施さず、ひたすらに原作をベースとした詐欺合戦を繰り返すのみに終始し、とても大人の視聴に堪えうる内容足り得ていなかったものの、毎回の1話内に原作のお題を一つから三つ放り込んでサクサクとテンポよく話を進めた事で、何も考えずに観ている分にはお手軽な楽しみは得られるだけの、刹那的な娯楽作としてはツッコミも含めてそれなりの出来ではあった。

しかし今回の映画版、贈答品詐欺から連鎖倒産詐欺に発展するストーリーの大枠は原作そのままだが、TVシリーズであれば1話(約45分)で済む程度のボリュームを、無理から二時間に引き延ばしているだけなため、先述したテンポの良さは完全に消え、冗長感だけが強まったものに終わっている。これでは楽しむところが無い。

とにかく総じてテンポが悪く、カット毎の尺も間も無駄に長い。長く間を取る事で情感や情緒を表現したり、観客に考える猶予を与えるといった手法で用いるならともかく、そうではなくただ長いだけ、ただダラダラしているだけなのだから退屈極まりない。

自分の詐欺が原因で人死にが出て、グダグダと悩み続ける主人公の描写を延々と続け、主人公の顔アップをやたらと長く映し続けるなどは、完全にドラマの流れを停滞させているだけの無駄時間でしかない。悩みの内容が変遷していったり、解決や解消へ向けてのビジョンが見えてくるならともかく、ただただ同じ事で悩んでいるだけでいつまでも引張り続け、結局解決はないのだから、ただダラダラしただけの時間稼ぎとしか思えない。

同じく本筋とは無関係にやたらと尺を割いているシーザーとブルータスの逸話も、主人公と桂木(山崎努)の関係や、人の信用につけ込んで裏切る詐欺師そのものの存在などの比喩のつもりなのだろうが、やはり延々と同じ様な事ばかりを言葉で説明し続けるのみでは、比喩にすらなっておらずあまりに陳腐。劇中で行われる学生演劇と同レベルの幼稚なアイディアだ。これまた無駄な時間稼ぎでしかない。映像的な工夫や面白さがあって、画面を見ているだけでも退屈しないならともかく、ひたすらテレビ的な近くて狭い画面に終始されては、一瞬見れば充分で、つまらない構図をずっと見させられるのは苦痛だ。

そうした時間稼ぎ要素ばかりが多く、肝心の本筋もいちいちテンポが悪く間ばかりとっていては、詐欺バトルの緊張感も、スムーズに作戦が展開していく気持ちよさも、ピンチにハラハラする事もなく、ただ退屈なだけだ。暗いエピソードだから照明も暗いという安易さに至っては、ただ暗くて見るのが嫌になるだけでしかない。

映画用に話を大きくしたいのなら、敵の詐欺のスケールを大きくするだけではなく(それも出来ていないが)、主人公側をいつもの単独行動に終わらせず、手段は異なれど似た過去と目的を持ちながら、"似た者同士"である事をそれぞれ認めたくはない関係にあるレギュラーキャラ、白石(加藤浩次)や神志名(哀川翔)と"結果的に共闘"する事となる様に人物を絡ませて、映画ならではのお祭り感を出すと共にバトルを盛り上げていくといった王道展開にでもすべきだろう。

だが実際にはそんな工夫は特になく、適当に原作をなぞり適当に変えた適当な仕事に終始しているため、「現金で600万」を要求した事が、詐欺としてもストーリーとしても、結果に特に絡まないなど、中途半端な"改悪"ばかりが目立つ有様だ。白石の"仕事"がダンボール組立て補助だけなど、正気とは思えない。

警察の捜査と主人公の詐欺とが平行して目的が一致し、裏と表の両方からターゲットを追い詰めていくという構図にしたかったのだろうが、警察側のドラマにおいて、独自に証拠を固めるなどの展開もなく、ただ署内で演説しているだけでは成立していないしストーリー的な面白さも皆無だ。主人公が警察すらも利用してシロサギを罠に嵌める戦術を用いるなども描ききれていない。

映画だから金をかけたかっただろうか、警察の指揮本部(?)のセットが、ハリウッド映画にありがちな司令室の劣化コピーなあたり、作り手のセンスの陳腐さが象徴されている様で苦笑させられる。あんなに暗かったら日常の事務仕事に支障が出るだろうに。

入院中の子供(吉田里琴)が大金入ったズタ袋を引きずってきても怪しまない周囲の大人達、あまつさえ、ついさっきまで見捨てようとしていた背広男まで拍手しているに至っては、感動どころかツッコミまくりとなり、バカがバカを対象に作ったバカ作品だとつくづく思い知らされる次第だ。

笑福亭鶴瓶の出番や扱いも取ってつけた様なもので、何故コインランドリーにいたのか説明がないのでは、話として成立していない。堀北真希と市川由衣は完全に不要。岸辺シローが詐欺師の親玉なのは笑えるが、笑えてはダメだろう。

"テレビ局映画"の悪い部分が全て寄り集まった究極の作品であり、テレビ放送された際に早送りしながら観るだけで充分だ。

年内に公開を控えている、同じくTBSドラマの映画版『花より男子 ファイナル』も監督が同じというのがあまりに不安。

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2008年03月09日

ドラえもん のび太と緑の巨人伝 13点(100点満点中)

大きな事はできません
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新生ドラえもん映画の第三弾。初期映画(大長編)のリメイクだった前二作とは異なり、今回は短編『さらばキー坊』をベースにスケールをグレードアップさせた内容となっている。

短編『森は生きている』もベースだと言及している一部媒体もあるが、特に内容的な関わりはない。むしろ緑に侵されていく地球の描写などはSF短編『みどりの守り神』や大長編『雲の王国』の大洪水を意識したものだろう。

そもそも第一作目『のび太の恐竜』が既発表の中編の長編化である事からも、その企画意図自体は決して誤りではない。だが、オリジンを"第一話"とし、その"もしも帰した先が間違っていたら"としての続きを、非日常への冒険ストーリーとして発展させた『恐竜』に対し、メインストーリーは出会いから別れまで終始、あくまでもオリジンに沿ったものである今回は、短くて済む内容、いやむしろ簡潔に短編としてまとめられているからこそ含蓄や完成度が優れていたものを、無駄に水増しし膨らませただけの印象となっているのは問題だ。

様々な事物、事象がことごとく"その場限り"でしかない事が、その印象の元となっている。ところどころで挿入されるオーバーリアクションなギャグに関しても同様、ドラえもんが鉄塔に激しく頭をぶつけるギャグ場面では、キー坊が登場するだけでなく全体的な構図やテーマが似通っている『雲の王国』における"壊れたドラえもん"を想起させ、これがピンチの伏線になるのかと思わせておいて結局何もなく、変顔で笑わせる事と特定地点に墜落させる場面転換との、やはりその場限りの要素でしかない。

そうして、ブツ切りの単発要素が羅列されるばかりで、全体としての構成が極めて散漫に尽き、原作に準拠するエピソードと、オリジナルで追加したそれとが上手く絡み合わさっていないのだ。

全体的な演出および展開のテンポが悪く、冗長でダレを禁じ得ない事もまた、先述の水増し感の要因となっている。"その場限り"にも通ずるものだが、例えば植物自動化液を拾った苗木にかける場面にて、やたらと大きい瓶が取り出され、それを持ち上げようとドラとのび太が二人掛かりでヨタヨタする演出がやたらと長く、それをドバドバと苗木にかける動作もこれまた長く、かけすぎて溢れまくっている事を印象づけておきながら、結局そうした一連の行動が、ただ"薬をかけた"以上の意味、意義、あるいは効果とは全くなり得ておらず、ただ無駄に時間をかけただけでしかない。

そうした無駄なもたつき、無駄な反復が全編通して詰め込まれているため、レギュラー番組枠で済む話を2時間に引き延ばしただけとしか感じられないのだ。

今回、ドラえもんの使える道具が大きく制限されている事自体は、『大魔境』や『雲の王国』など、ドラえもん自身や道具の使用に制限を課す事で、冒険の必然やバトルのピンチを盛り上げ、そんな状況でも可能な範囲で工夫をこらし局面を打破させて物語を盛り上げた前例があるだけに、狙いは決して悪くない。にしても、現実として、単にドラえもんがあまり道具を使わない言い訳に用いられているだけで、そのマイナスをどうにかして解決する肝心の展開がないため、ただ大局的な流れに翻弄されているだけの、局面に能動的に挑めない無力な傍観者としての立ち位置に陥りがちとなり、これではドラえもんの映画である意味すら極めて希薄だ。

何をどうすれば最終的な事態が解決するのかの指針が不明瞭なまま、事象のスケールだけが無闇矢鱈と拡大し、ますます一個人にすぎないドラ達には手出しが出来なくなってしまう、クライマックスの展開そのものがその要因となっているのだから、盛り上がるべきクライマックスは当然、観客もまた"蚊帳の外"となってしまい全く盛り上がる事が出来ないハメに陥ってしまう。これは致命的。

先述の"指針"や、前半に登場した"緑アンテナ"など、その場における重要ファクターと思わせながら、それが具体的に何かという肝心な説明を充分に行わない事が、冗長感や内容の薄さ、観客置いてけぼり状態を更に推し進めているのだから、何よりもまずわかりやすい事が大命題となる、子供を中心とした家族向け映画としては完全に失格だ。

タンマウォッチの発動も偶然なら停止も偶然で、そこに何の人為も絡まないなどは究極だ。大長編では、早い段階でさりげなく提示されていた秘密道具に関する伏線が、後に事態の解決法として再び活きてくる、観客の納得とカタルシスを生む構成が王道であり、それを踏まえないなら代わる工夫が必要な筈が、何も無しとは呆れる。(桃太郎印のきびだんごで恐竜を手なずけ遊んでいた場面 → 恐竜ハンターがけしかけたティラノがその恐竜で大逆転『恐竜』、「全ての道具には効力時間がある」の台詞 → 処刑寸前にスモールライトの効力が切れて大逆転『宇宙小戦争』、などが相当)

ドラやのび太達が"異世界"へと冒険する、大長編ドラの定型パターンは、まず最初は遊びの延長線上として、冒険やキャンプの"楽しさ"を秘密道具の活用と併せて描き、観客の子供心をワクワクさせて作品世界への導入や共感、感情移入を図る上手さがその必然であった筈ながら、今回と監督が同じ『恐竜2006』で犯した失敗をまた踏んでしまい、そうした"楽しさ"を充分に描かないまま、異世界の恐さや苦しさばかりをクローズアップされては、観ている側は疲れるだけだ。

藤子原作のシンエイ動画作品なのに、何故か宮崎駿アニメの安易な模倣としか感じられない表現やキャラクター、展開、テーマが多用されている事も、作品の陳腐さをかさ上げしている要因だ。森の民の子供達や長老の棒読み演技や、彼らのビジュアルも明らかに藤子調ではなくジブリ調なあたり、何のアニメを観ているのかわからなくなってくる。

脚本の大野木寛は、TVシリーズのドラえもんも手がけているが、本作は過去にシリーズ構成を担当した、行き当たりばったりで思わせぶりにスケール大きいばかりのネガティブで苦痛な展開が延々続くエコロジーアニメ『地球少女アルジェナ』を彷彿とさせるもので、環境破壊が原因の地球滅亡の危機に際し、地球とシンクロするキャラクターの暴走と、それに振り回される無力な少年という構図まで同じなのはどうか。他作品を鑑みるに決して能力は低くない筈だが、環境問題を扱うと暴走する人らしい。

恒例のタレント声優。先述した長老役の三宅裕司は、過去の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『バットマン』で酷評された棒読み健在で興醒めだが、ヒロイン(?)リーレ王女を演じた堀北真希は流石の演技力、表現力を見せ、声質的にジブリアニメ臭の助長となっている嫌いはあるものの、心を閉ざして強がっている孤独な少女をよく演じきっていると評価出来る。くりぃむしちゅー有田は「いたの?」という印象(笑

『恐竜2006』が面白かったのは原作が面白かったからだけか、とすら思わされる程の失望に終わった今回、偉大なる天才藤子・F・不二雄に勝負を挑んで敵う人材などそうそういるわけもないのだから、素直に原作の微調整再生産に務めるべきではないか、というのが正直な感想だ。

子供に見せるにしてもあまり勧められない失敗作。大人なら尚更退屈なだけだ。家で旧作でも観ている方が有意義だろう。

エンドロール後の次作予告にて、一瞬だけ原作版のチャミーが見切れた事から、次は『宇宙開拓史』とほぼ確定か。ギラーミンとのび太の決闘場面が映像化される事を期待したい。

『のび太の恐竜2006』レビュー
『のび太の新魔界大冒険 7人の魔法使い』レビュー

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2008年03月08日

風の外側 40点(100点満点中)

少しは外に出て世間の風に当たれば?
監督公式

奥田瑛二監督作の第四弾。前作『長い散歩』では、本人、妻(安藤和津)、娘(安藤サクラ)と一家総出で脚本製作を行ったが、今回はそのメンバーが出演者として総お目見えしている。

監督の奥田瑛二、前作でも幼女を全裸に剥き、その姿をストレート映し出すといった具合に、年齢を問わず女性の裸体にこだわりを見せる姿勢が、映画だけでなく写真や絵画などでも通して提示され続けてきた。

そして今回も、自身の娘が女優デビューにして主演し、更に劇中で裸体を披露するという、リアルエスパー魔美のごとき父娘関係が話題性となっている。の筈が、服を脱いで全裸になるカットでは、画面手前にわざとらしく遮蔽物を配置して見えなくし、次のカットでは背面のみでオシマイと、自分の娘だからと"手加減"している事が瞭然で呆れてしまう。

もっとも、そのシチュエーションが置かれているクライマックスに至る以前に既に、母親安藤和津の劣化コピーにしか見えない彼女を、美少女ヒロイン役で起用している時点で、親バカ極まりないのだが。

合唱部の活動としての歌唱シーンが重要な見せ場のひとつとなる本作において、歌っている時の顔つきが魚にしか見えないのは致命的だ。夢に向かうヒロインが立っている舞台上から、彼女の顔をアップで大きく映し、視線の先として夢を失くした男が客席で行う愚行を切り替えして見せ、それに対する彼女の反応を、自身と男の双方への解答として、歌と表情で表現する狙いが込められている、作品テーマのひとつである"夢"に対する主人公二人の落差が一箇所に交錯して悲劇を生むクライマックスシーンも、変顔ではそもそも伝わらない。

ヒロインとソロの座を争う同部員を演じる岡本奈月の方が明らかに可愛い時点で、完全なキャスティングミスだろう。そして岡本奈月が演じる役どころも、当初は仲のいい友人として一緒に下校していたが、ソロパート選別がきっかけで距離が生まれるという関係変化はいいとしても、彼女がそれに対してどう考えていたのかがあまりに描写不足なため不明瞭で、ヒロインが復帰した際に唐突に憎まれ役的なセリフを言い、その事がその場かぎりに終わって後に続かず、結局最後は都合よく消えてオシマイでは、キャラクターとしての立ち位置も描写も、あまりに中途半端に尽きる。当然ながら、ヒロインが彼女に対しどう考え心情的にどう決着づけるのかも中途半端に終わるため、主人公二人の出自によるネガティブ思考というギミックも、物語の必然として活かされきったとは思えない。

その、二人の出自が明らかになっていく展開も、あまりに唐突すぎ、作為臭さばかりが前に出てしまうのは問題だ。一応は、「だから鉄砲玉に」「だからソロになれない」と自虐的になるシンクロを見せようとしているが、構図として成功しているとは感じられない。

だが、この種の題材を大きく取り上げた作品の常として、やたらと「歴史認識が〜」「強制連行が〜」などと、完全に物語から脱線した押し付けがましいプロパガンダとはならず、むしろ逆に、出自やコンプレックスを自分が駄目な事の言い訳に利用している主人公達の思いを、それは単なる逃避であると言い切り、自分が良くなるためには何にこだわるべきかと告げる方向性は、映画に偏向政治思想を持ち込まない姿勢を素直に評価出来る。

昼間から飲んだくれている親父を印象付けたり、ヤクザを人間のクズとして美化せず愚かしく描くなども同様に、出来はともかく"現実"を描こうとする、作り手の矜持が強く感じ取れるものだ。

そうして"差別"という要素を綺麗事として用いないながら、実際に監督自身が自分の娘をエコヒイキしているのが本作なのであって、この起用も、現実として人間は決して平等ではないのだから、拗ねたり嫉妬しても仕方ないのだとの、痛烈なメッセージと受け取る事も可能だ。

ファーストシーン、チンピラ役のあまりに陳腐な演技、演出にクラクラさせられながらも、カバンが海に落ちた後に男がどうするか、との展開では少し斜め上の意表を突いて、ヒロインの戸惑いや驚きと観客のそれを同期させようとする狙いは少なからず成功しているだろうが、チンピラと男が仲間である事を、観客としていつ認識すればいいのかの、決め手となる段が不明瞭なため、作劇の狙いが絞りきれていないと感じられるのは問題。

狭い路地や裏道、坂道を好んで設定し構図を決めているのは、これまでと同様であり監督の好みによるものだろうが、どうにも大林信彦のデッドコピー臭が感じられ、独自の雰囲気を出せているとは思えない。一方、主人公二人の"距離感"や"格差・落差"を視覚的に表現する事を意図した、横並びのツーショット構図の多用は効果的で、坂道や立ち座りを絡めて二人の心情や関係性を観客に伝える事に成功していると言える。

本来伝えたかったもの、描きたかったものは確かに感じ取れるが、監督の親バカに起因する様々な破綻や齟齬がその魅力を大きく減じてしまっている、残念な一作。逆に言えば、その点を慮って観れば、見るべきところは多々あるのだが。

蛇足:
柴俊夫、高橋英樹、黒澤年雄、松本幸四郎、ビートたけしらの娘達の様に、父親に似てしまったからビジュアルに問題がある七光り娘は大勢いるが、母親に似ているのに残念というのは珍しくはないか。少なくとも鼻が父親に似なかったのは幸い。

巨乳熟女かたせ梨乃のエロフェロモンに定年はないのだろうか。

tsubuanco at 17:14|PermalinkComments(0)TrackBack(1)clip!映画 

2008年03月07日

ゼロ時間の謎 50点(100点満点中)

に…人間の顔で笑った!?
公式サイト

アガサ・クリスティのミステリー小説『ゼロ時間へ』を原作に、同氏の『親指のうずき』の映画化である2005年の『アガサ・クリスティーの奥さまは名探偵』に続き、パスカル・トマ監督によりフランスにて映画化

まるで等々力警部の様に「よし、わかった!」と安易な証拠で容疑者を逮捕しては実は違った、を繰り返し、最後は金田一耕助の様に全員の前で滔々と全容を講釈、と、これまでの作品では名探偵の引き立て役だったバトル警視が、堂々の一本立ちを果たし活躍する最初で最後の作品が、本原作である。

イギリス人であるクリスティがイギリスを舞台に作り上げた作品世界を、場所もフランス、人物も全てフランス人へと改変し、携帯電話が登場するなど現代の物語とされながらも、色使いや背景、語り口などから、原作当時の時代的雰囲気を醸し出しているのは、前作同様の特色であり評価点と言える。

物語は原作にほぼ忠実に進むため、既読の観客にとってはあまりのストレートさに逆に驚かされもするが、それだけ原作の完成度が高く、下手に弄ると破綻してしまうという事なのだろうか。

だが、真犯人が事前に綿密な計画を立てている、原作序盤の導入場面や、バトル(本作ではバタイユ)警視の娘の冤罪エピソードにて、警視が娘の無実を見抜くだけでなく真犯人を即座に見破るくだりなど、伏線や作品構成のキモとして必要であろう要素がカットされているのも気にかかる。娘の表情とオード(原作のオードリィ)の表情をオーバーラップさせ、その真相を観客に伝える展開はそのまま用いているのだから、何食わぬ顔でその傍らにいる真犯人、という相似も活かすべきではないか。

事件解決の鍵を握る自殺未遂男の描写も、かなり省略されている。クリーニングの取り違えをするくだりがカットされたのでは、彼が事件に関わる流れが唐突すぎるし、最終的に彼が迎える結末も完全にカットでは、どうして雨なのに月夜とウソをついたのか、その理由が明らかとならず、オチのための伏線になっていない。

メリーゴーランド楽団によるイメージ映像を、事態の転機を印象づけるべく用いていた事も、それ単独で見ればシュールでミステリアスな雰囲気をかもして、予兆の不安を強調する狙いは果たされ、うって変わってラストの脳天気な演奏とのギャップも面白い。

が、そうして強調される"転機"は、犯人にとってはあくまでも"過程"にすぎず、タイトルにある"ゼロ時間"とはいったい何時なのか、こそが本原作最大の興味点であり、本作以前のミステリー小説の定型を覆す新機軸だったのだから、この演出は、果たして本作の作り手はそれを理解していたのかと疑問に思わされるものだ。わかった上でミスリードを狙っているとしても、あまりに作為的すぎやしまいか。

その一方で、窓を閉めるフックなど、怪しいキーアイテムをいかにもとクローズアップする親切すぎる配慮が感じられたり、断崖や岩場の海岸、船の上での真相開示など、いつ片平なぎさや船越栄一郎が登場するのかと思わされる様な場面の多用など、これは原作通りなのだから仕方ないし、まさか作り手が日本の2時間ドラマなど観てはいないだろうが、ストーリーへの興味よりそうした邪念が浮かばされてしまう部分が多いのは困りものだ。

ただしストレートな王道ミステリーとして、極めて真面目に語られる原作に対し、二人目の妻キャロリーヌ(原作のケイ)の、これでもかとディフォルメされてキチガイ寸前のヒステリックな人物描写や、使用人男女によるフリーキーなエロネタの挿入(エロだけに)など、王道ではない歪んだ笑いを醸すギミックが用意されている事で、単なる原作の再現に終わっていないのは有り難い。

冒頭の断崖場面にて、岩陰でいちゃつくカップルから始まり、大きくカメラが回り込んで崖上の男に焦点を当て、ワンカット内の同じ地点ながら印象が様変わりするなど、これは2時間ドラマではなく映画なのだだと主張している本作、カタカナの長い名前ばかりで誰が誰かを認識するのに時間がかかるタイプの人なら、原作よりもこちらで観た方が楽しめるだろう。全ての登場人物が、顔つき、体型、髪型や色など、ことごとく明確な視覚差別化がなされた、キャスティングとヘアメイクも極めて親切。そう言う点を2時間ドラマ的と言われればそうかもだが。

原作の出来がいいだけに、大きな変更のない本作もまた、観て損はない出来ではある。2時間ドラマ好きなら必見か。

tsubuanco at 20:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!映画 

ヴィットリオ広場のオーケストラ 10点(100点満点中)08-070

今度はイタリア抜きでやろう
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イタリア・ローマのヴィットリオ広場に数多く居住する移民からメンバーを集め、地元劇場の復興を目的に楽団を結成しようとする、5年間の活動を追ったドキュメンタリー映画。

歴史ある劇場の保護や、多民族の融合による友好メッセージを目的としていると見せかけているものの、実際には政治、思想的な偏向や誘導が、作品のそこかしこに見え隠れしている。日本での公開に朝日新聞が関わっているあたりも、その本意の裏付けと言えなくもない(笑)

戦後闇市の延長線上として雑多なマーケットが築かれている広場において、当時の大きな国内問題のひとつであった移民問題をクローズアップし、右派による移民排斥運動の映像をこれ見よがしに採り上げて、「移民達は政治利用されている」とナレーションを被せている。

この序盤の説明部分から既に、そういう自分達こそが、左翼的な政治活動に移民達を利用し、そのPRとしてこの映画を作っている事実から目を背けさせるための、偏向、作為的な構成であるとは明白であり、苦笑する他ない。

劇場の復興を命題に掲げつつ、楽団を作る事よりも多国籍の人間を集める事に苦心する、本末転倒な展開を見せる前半のメンバー集め始めの展開からも、国籍や人種、宗教や民族などの壁を越え、同じ人間としての友好を築こうと謳いながら、その実"異人"である事にこだわって"差別、選別"を率先して行っているのだから呆れる。

中国マフィアが秩序や治安を乱しているのだと言及し、結成された楽団には、移民の中での割合が高い筈の中国人が一人もいない状態と、これまたあからさまな差別、作為的な思惑が一目瞭然だ。カメラを向けられた中国人のリアクションなどで、殊更に彼らに対する悪印象を与えようと映像を選択している事も同様。

メンバー集めの際にも、練習の際にも、どんな音楽を志向しているのかという、本来最も大切な事はさておき、相も変わらず移民排斥運動の現場を映し続けるなど、結局のところ自分達の思惑に移民、貧民を利用しているだけでしかなく、偽善、欺瞞にもほどがある。

彼らの活動からは、こんな事より先にすべき事はいくらでもあるのではないか、との感想しか生まれず、プロ市民団体は世界共通なのかと認識出来た事が、辛うじての収穫か。

ラストに披露される初公演の様子も、ラテンやインドなどの民族音楽とクラシックが混合された音楽は興味深く、それ自体を聴いて楽しむ事は可能。

とはいえ、画質の悪いビデオ撮りによる散漫な映像と編集の完成度は決して高くはない。興味があってもレンタル待ちで充分だろう。日本人なら外国の移民問題よりも、日本の移民問題を考える方が前向きだ。

tsubuanco at 19:46|PermalinkComments(0)TrackBack(1)clip!映画 

明日への遺言 75点(100点満点中)

それでもボクがやりました
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極東軍事裁判にてB級戦犯として死刑判決が下された、元東海軍司令官・岡田資中将の法廷闘争を題材とした、大岡昇平のノンフィクション本『ながい旅』を、小泉堯史監督により映画化。

小泉監督が黒澤組の助監督だった時代に、低予算、短時間で撮影出来る作品をとの狙いで書いた習作脚本が元となっているだけに、作品の約80%が法廷内の場面で構成されているのが、本作の大きな特徴と言える。

残りを占めるのは巣鴨プリズン内での描写および、本作の論点として重要となる空爆・空襲を記録したドキュメント映像であり、全体を通し極めて淡々とした語り口となっているが、それは単に、先述の製作上の都合を優先させただけの結果ではなく、主張、テーマをより的確に観客に伝える意図が込められたものだ。

ほとんどがスタジオ内に組まれたセットにて撮影されている事で、随意な照明設計が可能となり、人物の動線を見据えて構築される光と影の多層的表現が、各人物の表情を実際以上に多彩、敏感な表現とし、伝わる情感までもコントロールされる程に完成された映像の美しさは秀逸。

それによって、延々と論戦が繰り広げられ、固定、限定された人数それぞれにカメラを振り続ける、ともすれば単調、退屈になりがちな法廷場面が、その長尺にも拘らず視覚的な興味は全く失われず、むしろ食い入る様に各人物の微妙な変化に注視させられる事となる。

もちろん撮影だけでなく、主演の藤田まことを始めとする出演者達の、自然体に徹すべく行われた演技が、自然体でありつつも間とメリハリは疎かにせず踏まえる、確かな理解と表現があってこその結果であるとは間違いない。

藤田まことの力量は言うに及ばず、"台詞"が無いにも拘らず、その立ち居振る舞いだけで画面の空気をキリリと締めてしまう、富司純子の凛々しい演技は白眉。出番は少ないがそれだけに強い印象を残す蒼井優の、やはり極めて自然に"自然"を演じきった力量にも目を奪われる。

そんな素晴らしい"自然な凛々しさ"が目白押しなだけに、田中好子の力みが空回りした過剰演技によって、再現ノンフィクションの体裁をとっている本作が"作りもの"であると現実に引き戻される、悪い意味での印象深さまでもが際立ってしまうのは皮肉か。

比較的知られている史実をストレートに扱っているだけに、その過程も結果もわかりきっている内容を、しかもほぼ固定された舞台設定ながら飽きさせない要因は他にも、言葉による情報量と情報内容の的確さと、それを伝える段での間の確かさにあるとも見受けられる。

冒頭のドキュメント部より適宜挿入される饒舌なナレーションと、岡田資の妻としての富司純子によるモノローグによって、その場の状況説明だけでなく前提となる事前認識までもが、大映ドラマ以上に親切に行われ、たとえ題材に関して詳しくなくとも、教育ビデオの様に理解を進める事が出来るのは、例に挙げた大映ドラマの過剰なドラマティックさとは正対する、ただ事実を伝えるべく抑制された本作の有りようには適したものだ。(もちろん創作はある)

そして法廷内で行われる論戦もまた、日本語と英語が入り乱れ同時通訳を介して質疑応答がなされていた事実を、ただ再現として用いるだけでなく、言葉と言葉の間に生じる間の存在によって、観客がひとつひとつの言葉を己の内にて確実に噛み砕き認識する猶予が与えられる事となり、可能な限り難解な言葉を選ばず理解を易くしたダイアローグ選択の配慮と併せ、わかりやすさと興味の持続を共に目指したものとして的確。

こうした間と言葉の確かさは、小泉監督の過去作にも見て取れるもので、監督の得意とするところなのだろう。

とは言え、決して本職ではない竹之内豊によるナレーションは、中学生が意味を理解出来ていない文章を朗読させられているかのごとき、力みが上滑りした違和感溢れるものに終始しており、田中好子の過剰演技と同様、作品の完成度を大きく損ねているのが残念。富司純子による語りと比較されるために却ってそれが顕著となっているのも不幸か。今後学校などで上映される機会が多いであろう作品なのだから、DVD化の際にでも、プロによる再録をあらためて行うべきだ。

大仰な演出、過剰なBGMなど昨今の日本映画が押し進めるお涙頂戴を拒否し、あくまでも自然体で通す方向性は最後まで一貫され、死ぬ直前まで手ぬぐいをきちんと畳む、跡を濁さない、それでいて"決死"を匂わせない演出、演技により殊更な感動ではなく、自然な感慨を想起させられるに至り、作り手の本懐は達せられたとして問題ないだろう。

風呂場で岡田資が『ふるさと』を歌い始め、いつしか合唱となる場面にて、その場では歌詞を2コーラス目までにとどめ、この段階でまず柔らかい郷愁を醸しておいて、刑場へ向かう終盤に再びこの歌を登場させ、岡田を見送る部下達に3コーラス目を合唱させる事で、歌詞に含蓄される想いが、風呂場面の前段により何倍にも増幅されて観客の胸を打つ仕掛けも、過剰さとは正対する自然さで尚感慨を深めさせられる、秀逸な手法と言える。

岡田と家族とが"交流"を行う描写をやはり法廷内に留め、回想シーンなどを用いない事で、逆に岡田と家族の有りようの縮図化を行い、過去も未来さえもその場から想像させられるべく配されている事も、法廷を主舞台とした本作ならではの、見事な設定、作劇と高く評価出来るものだ。

幾人かの力量不足な演者に足を引っ張られてながらも、脚本、映像、演出、演技の確かさによって、一人の当事者の姿から、戦争の不毛さを痛感させられる、歪曲や偏向、押しつけを可能な限り排除した、"戦争映画"として紛れも無い傑作である。

物事の上辺しか見ない人や、人の話をよく聞かない人など、映画以前に人として疑問な層には退屈な睡眠導入作品としか映らないだろうが、映画好きならば作り手の確かな仕事を見て取れる筈だ。

tsubuanco at 18:55|PermalinkComments(0)TrackBack(6)clip!映画 

レンブラントの夜警 67点(100点満点中)

「13か…聞いただけで勃起するわい」
公式サイト

17世紀のオランダを代表する画家の一人、レンブラントが遺した名画『夜警』に隠された真相に、イギリスのアーティスト、ピーター・グリーナウェイ監督が独自の解釈で迫った、ヨーロッパ製コスチューム・プレイ映画。

名画に秘められた謎を追う物語、と聞いてまず浮かぶのは『ダ・ヴィンチ・コード』だろうが、本作はそうしたオカルトミステリーではなく、かと言って99年の『レンブラントへの贈り物』の様な伝記映画でもない、天才を紙一重突破したグリーナウェイ監督による、偉大なる先達レンブラントに対する挑戦状とも言うべき、シュール且つアーティスティックな"芸術作品"となっている。

そして、これまでにも狂気が底流にある"芸術作品"としての映画を数多く発表してきたグリーナウェイだが、『夜警』を描いた意図、描きあげられた『夜警』の意味、などが徐々に明らかになり、それを主軸としてレンブラント自身の人生や、背景としての当時のオランダの世相をも切り取っており、過去作と比べればストーリーの筋は通っている。

『夜警』を描くまでのレンブラントの趨勢と、書き上げた後の凋落の原因が、絵画の意味として結びいていく謎の解釈は、創作とはいえ興味深い。

とは言え、その背景となる当時のオランダの世相や、レンブラントの生涯や作品についての事前知識がない事には、最初からあって当然のものとして不親切に描かれている本作の世界に、まず入り込む事すら困難であり、何がどうなっているのかわけがわからないまま2時間超を過ごすハメに陥ってしまう事も確かで、一般向けの娯楽作とは到底呼べない代物だ。

スペインの支配から脱した直後、市民政治によって市場経済が急速に発展(江戸時代の日本との交易もその一端)し、商業によって得た金がすなわち権力と化したオランダにて、『夜警』のモデルとなる市警団(民兵)とはどの様な位置づけなのか、何故レンブラントな彼らを忌み嫌ったのか、など、レンブラント側の論理は一応語られるものの、彼のエキセントリックな人格によりそれが本当に正しいのか疑わしくなってしまうものでしかなく、深い知識や認識が試される事となる。

ファーストシーンの争乱や受難が、レンブラントが見ている夢の表現である事は誰にでもわかるだろうが、それが彼が描いた『ペリシテ人に目を潰されるサムソン』を演劇化したものだとは、元となる絵を知っていない事には理解出来るわけがない。最初から観客は試されているのだ。

ただし、その夢から醒めていながらも、場面どころかカットすら切り替わらずそのままの構図で現実パートに移行するに至って、この映画が絵画を舞台化し、それを映画としての体裁にまとめあげているのだとは、知識と関係なく気づく筈だ。この事は終盤になって、『夜警』の絵に対し「これは絵画ではなく舞台の一場面だ!」との批判がなされるに至り、監督の意図するところであると確定する。

それに留まらず、屋内の場面にも拘らず、カメラが据えてある側(画面手前)には壁というものが存在しないかの様に人物が出入りするなど、舞台劇というスタイルすら凌駕して"スタジオ撮影"をも匂わせていくなど、様々な手法にてスクリーンに映る光景をメタファーとして提示する手法は、極めて慌ただしく休む暇を与えられない。唐突に人物がカメラ目線で語り始めるなどはその究極だろう。

だが、序盤の食事場面にて、食卓の全景を見せながらそこでの会話を聞かせ、各所に話している人物のアップを同ポジションの画角で挿入するという手法が用いられているが、この時、当のレンブラントが観客に対し背中を向けたままなる底意地の悪さは狙いとして面白いものの、アップに切り替わる各人物と、ロングで配置されている人物が結びつかず、結局誰がどこにいるのかが伝わらない有様なのは、基本的な理解すら損ねるものとして、あまり上手いとは言えない。

一方で、その最初の食事場面では背を向けていた人物が配されながら、その後多用される食事、宴会場面においては、登場人物達はことごとく真正面を向いて配置されており、より絵画的な構図に近づいていくといった、作品の方向性としての狙いは興味深く効果的なため、一概にダメとは断じられないのだが。

口パクと台詞がズレており、会話に違和感が生じている事も、そのわかり辛さの一因と見られる。オランダが舞台のコスチュームプレイながら英語の台詞が用いられ、「Fuck」などのスラングも連呼されるなど、明らかに現実に呼び戻される様なダイアローグは、狙いかもしれないが失敗だろう。

女好きとして知られるレンブラントを描くだけに、彼と関わる美しき女性達が多数配され、時に生々しい裸身を披露してくれるのはありがたいが、"少女"として設定されている人物が、どう見ても立派な大人の女性でしかないキャスティングは、たとえ10年の歳月を描いた物語としても、違和感どころの話ではなく、話している言葉と見せられている姿が違いすぎて意味がわからなくなってしまう。

屋根の上の少女など、初登場時は10歳であり、だからこそ、まだ母乳がでないから子供を育てられないという台詞や、彼女の姉が、初潮がまだなのにナイフで性器を傷つけられる事で大人と見立てられ、娼婦とされるといった境遇、彼女らを性的に虐待しているのが他ならぬ聖職者であるなどから、レンブラントの怒りが更に加速されて『夜警』による告発に至る、ストーリーのメインとなる流れすら掴み難くなるのでは無意味だ。

使用人の少女ヘンドリッケも、銃の暴発で痛んだレンブラントの目をその舌で舐めるエロティックな場面が印象的ながら、その時点での彼女の設定は13歳である。子供がするのと大人がするのとでは。視覚的に生じるエロティズムに大きな差異があるとは言うまでもない。その後の、男達が彼女にセクハラや強姦未遂を行う場面から受ける印象もまた、大人と子供とでは全く異なるものだ。どう見ても大人でしかないキャスティングは、明らかな誤りとしか考えられない。

一流の美術家ならではの、ビジュアルに込められた芸術性は確たるものだが、一方でこれまた芸術家特有の独りよがりが暴走し、様々な理解の困難を生じさせてしまっているのは、これは改善を求めるのは芸術性の否定にも繋がるのだから野暮ではある。とは言え、他人に見せる作品として、それでいいのかとの疑問は絶えないが。

興味があるが題材をよく知らないのなら、冒頭で挙げた『レンブラントへの贈り物』を先に鑑賞してからの方が、理解は易くなるだろう。それでもわからなければ、監督自身が記したストーリーブックの日本語訳版が刊行されているので、それで補えば問題ない筈。(本当は、そうした映画外の補完は反則だが)

tsubuanco at 17:01|PermalinkComments(0)TrackBack(4)clip!映画 
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