死者が飲む水 〜1983.6


講談社ノベルス(1983.6)
光文社文庫(1987.5)
講談社文庫(1992.3)
平成14年3月20日

胆なスタイルの転換を図った著者の第三長編。

 月十四日、赤渡雄造は痛ましい姿となって雪深い北海道にある自宅に帰還した。彼は十日前から二人の娘夫婦を頼って東京に赴いていたのだが、その行方が不明になっていた。しかしその朝、最寄りの駅から「荷物が届いている」という連絡があり、専属の運転手が駅から二つの大型トランクを持ち帰ると、その中には切断され、二つのトランクに別けて詰められた主の姿があったと言うのだ。
検視の結果によれば、意外にも死因は溺死で、被害者は微妙に海水を含んだ水を飲んでいたことが判明した。一体彼は何処で殺害され、そして何のために自宅に送り返されてきたのだろう。赤渡は北海道の極北振興に天下りする以前、農林省に籍を置き東京には当時の関係者も集まっている。ひょっとしてその何れが事件にかかわっているかもしれない。
札幌署に勤務する刑事牛越佐武郎は、失踪前の被害者の足取りを追って東京へ向かう。


 『者が飲む水』は、デビュー作『占星術殺人事件』と続く『斜め屋敷の犯罪』の後に発表された第三の長編作品である。しかしこの作品は前二作とはかなり違うテイストを持ったものに仕上がっている。本作の価値、そして意義は、この創作に対するスタンスの転換にあると言ってもいいだろう。

そもそも島田は、『占星術殺人事件』を乱歩賞に応募したとき、相当な自信を持っていたに違いない。ところが当時のミステリ界は現在とは違い社会派が主流で、海外古典に根を持つ本格推理はマイナーな一部の人気でしかなかった。作品はやはり落選の憂き目に遭い、その後にデビューこそ叶ったが、そうした成り行きは著者にとって望むような結果とは言えなかったようだ。そこで島田はこの経験をとおし、何かしらの発想の転換が必要だと考えるに至ったのだろう。
そして書かれたのが本作『死者が飲む水』である。著者は大胆にスタイルを変え、社会派推理への接近を図っていく。作品からは幻想的な謎や名探偵が姿を消し、代わりに凡人の代表である刑事が登場して地道な捜査の末に事件を解決する。
こうした転換は当時、人によっては敵の軍門に下ったとも見えたし、迎合したという見方も出来るものだった。しかしもちろん島田の目的は文名を確立する事のみではなかった。本格推理の要素を社会派の意匠でくるみ、自分の目的を果たそうとしたのである。確かに所期の志とは違ったが、彼はこのスタイルの中でもトリックや謎解きを描き得る自信があり、またもともと社会派を否定もしておらず、自身の幅を広げることにも意欲を持っていたのだ。
本作を皮切りに、島田は社会派を偽装しつつ、自分本来の味を作品に投入したり、微妙に距離をおいたりといった実験を繰り返していく事になる。結果としてこういった活動が実を結んだのか、弟子格の綾辻行人のような作家によって新本格推理と呼ばれるムーヴが盛り上がり、島田も再び御手洗潔を登場させることになるのは、周知のとおりである。

さて、本作はちょうど過渡期にあたる一作で、両時期の特徴を併せ持っている。この次に書かれる『寝台特急「はやぶさ」1/60秒の壁』から始まる吉敷シリーズが、かなり明確な意図を持って社会派らしさを装ったものであったのに比べ、本作はどこか違った部分を持っているように思う。たとえばそれは、俗に《トラベルミステリ》と呼ばれるサブジャンルとの距離感である。
この種の作品に馴染んでいる読者には、一見して大した違いが無いように見えるかもしれないが、本作の構造はトラベルミステリそのものでは無く、むしろその原点のクロフツ、それも代表作ともいえる『墫』に近い。
他の項でも書いたことなのだが、『墫』とトラベルミステリは必ずしもイコールではない。トラベルミステリは、あくまでも鮎川哲也や松本清張などの作品によって確立された『墫』の恣意的な翻案なのである。たとえば『墫』はトラベルミステリの典型的なディテイルを含んでいない。確かに凡人型の刑事は出てくるが、社会派的な人物描写はドラマ的なものは何処にも無く、時刻表を使ったパズルもなく、後半部までは純然たるフーダニットで、アリバイ崩しに特化していると言うほどでもない。『墫』はあくまでもリアリズムに徹した本格推理の一作品に過ぎないのだ。
本作の事件は、トランク詰めの死体から始まるわけだが、『墫』と似ていると思うのはその後の展開がトラベルミステリ的なルーティーンに進まず、この死体が何処で詰められどういう経路で送られたのかという出発点から、殺人が何処で行われたのかという疑問を経て、つまりそれが出来た人間は誰なのかというフーダニットに至る点である。
犯行の一部始終が複数の場所にまたがっている為、どこで殺人が行われたかによって、容疑の前提となる条件が確定しない。『墫』はまさにそうした条件を地道に突き止めながら真犯人を探す物語で、それが本作にも共通している。またここでは時刻表そのものは登場するものの、トリックというほどのものは出てこない。

総論として、次作『寝台特急はやぶさ』は、その構造からして明らかにトラベルミステリを標榜した作品と言えるが、本作はその以前に、一度原点であるクロフツに挑戦し、自分の中でスタイルの基礎を作り上げた作品なのではあるまいか。『墫』との類似を多くの文脈から発見するとき、私にはそうとしか思えないのである。
『墫』に挑戦した作品は数多いが、本作に最も似ているのは、横溝正史の『蝶々殺人事件』であるように思うが、どうだろう。


 局トリックは、死体がトランクにいつ出入りしたのかという事が最大のポイントであり、つまりこれは「トランクという部屋で死体が発見された密室殺人」といってもいいものだ。
そして解明も密室殺人における「第一発見者が犯人」という種のトリックと同じものである。この真相はやはり社会派というより本格推理の応用であり、名は挙げないが類似するトリックの密室殺人を扱った古典的名作もある。
解明だけを聞くと非常に単純なもので、ひょっとして「なんだ、そんなことか」と感じた読者も居たかもしれない。しかし本作で評価できるのは、そんな簡単な事実が、巧みなミスディレクションで見事に覆い隠されているという事にある。