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 2008年3月 5日(水) 11:45 JST

沖縄の事件の記事に思う

  • 2008年3月 4日(火) 11:44 JST
  • 投稿者:
    Admin
今日の話題

【注記 2008年3月5日】
以下の文章は、リンクにある記事を書いた岡田氏からの要請により、岡田氏とその記事に関する直接の表現のある部分を削除し、書き直してあります。もちろんこれ以前の記事の内容について魚拓をとっている方もいらっしゃるかと思いますし、Googleのキャッシュ等に残っている以前の記事があるかと思います。しかし、これらの情報は私が変更等をしたくてもできる立場にありません。これらの情報の削除等については、当該会社、あうるいは機関にお問い合わせください。

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沖縄の事件。

オーマイニュースにも載ったこの記事

この記事を書いた京都の岡田記者の意見に、私は反対する。また、感情的な反発も覚える。

記事を読むと、世間を知り尽くした大人の男性の意見とは、私は思われない。

沖縄はじめ、「基地の町」と呼ばれる界隈には、日本だけではなく、多くの場所で同じような問題が多発している、という事実がある。暴力を仕事とする軍隊の周辺では、その国の軍隊に限らず、古くから多くの同じトラブルが繰り返されてきた。

古い時代、同じようなトラブルがあれば、そのほとんどの場合は女性の側が泣き寝入りになることが多かった。男性社会である日本であればなおさらだった。しかし、今は女性も声をあげられる。そして、「男女平等」の建前も社会的に多く認知されるところとなった。

こういう時代にあって、このトラブルは国際問題となるだけではない。米軍などの軍隊にも多く女性がいる現状からしても、軍の士気低下にも当然つながっていく。加えて、綱紀粛正という観点からしても、「信頼の得られない軍隊」では、当然のことながら、軍事予算さえとれなくなる。軍隊といっても、社会で多くの人との関係の中で成立しているものであることに変わりはない。

「マスコミが騒ぐから問題が大きくなった(マスコミは反軍で左傾化している)」

ということを、岡田記者は記事で書きたかったのではないか、と私は推測する。だとしたら、それはわからないではないが、私は納得はできない。

男性、女性に限らず、人間の一生を左右するようなことが一瞬にして、誰か見知らぬ他人の暴力で捻じ曲げられる、ということはあってはならない。それをされてしまった人間の感情にまったく配慮していないこの記事に、反発があるのは当然のことだろう。そして、この記事のみならず、この事件を報道するマスコミもまた、自分のことだけしか考えていない、という意味において、まったく同類である、ということに思いが至るべきだ、と、私は思う。

他の人間への想像力や配慮を欠いた人は、特に私の周りの団塊の世代の人たちに多く見る。他人を蹴落して自分が前に出ないと生きていけなかった、という「世代の事情」もまたそこにあるのかも知れないが、本当のところは定かではない。

でも「今の自分がなぜできあがったか?」ということについては、それがもう直しようのない捻じ曲がった自分であろうと、自分に対して自覚的でいたいものだ。われを忘れた後では、反省をしたいものだ。それができなくなったとき、人間は「ボケた」ということになるのだろう。

人間は「完璧な自分」「平均的な自分」から逸脱する面を、どうしても持ってしまう。それが個性というものである以上、他人からすばらしい、といわれる「個性」であろうと、嫌がられる「個性」であろうと、それらを変化させながら、それでもその個性と一緒に生きていかなければならない。

「自省」のない社会に生まれ育った、現代の日本人のその最初の世代が団塊の世代なのかも知れない。そういう人たちの生存競争は、いつ見ても気持ちの悪いものだ、と、私は常々感じている。

何度もあちこちで引用するけれども、ニーチェが言ったことばがある。

「いつかは、自分自身をもはや軽蔑することのできないような、もっとも軽蔑すべき人間の時代が来るだろう」

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【追記 2008/03/05】
ここで書いたことは、なにも岡田記者にのみ限った私の意見ではない。自分もまた、そういうことをしている可能性がある、という意味での自戒をこめている。加えて、私よりさらに若年の人間でも、自省というものをほとんど感じられない人々を、ついこの前、目の当たりにした、ということもある。気がつけば、そこから引き返すこともまた、必要だろうが、人にだけ自分の考えを押し付ける姿を見るのもまた、良い気持ちはしない。

自分がそうならないために、私は自分の文章に「私はこう思う」とはっきり書くことにしている。

私が私の考えを書くときは「私は」であり、「誰かが言ったこと」は、「誰かが言ったこと」と、はっきり書く。それに対して、反論があれば、それを真正面から言うことこそ、大人の論客のすることだろう、という意見を持っている。言いにくいことも言葉に出さなければただのグチである。

若作りではなく、その年齢に相応した視野の広さを持ちたいし、その年齢に相応した考え、落ち着きを持ちたい。人の考えと自分の考えを真正面からぶつけて、問題を明らかにする勇気をいつも持っていたい。

ところで、今回の問題だが、歴史を見れば、こういった軍の周辺住民への暴力の問題は、いくつも繰り返されてきた過去があると同時に、その被害者になった人の心情を、やはり思いやる必要が当然のごとくあるのではないか?、と、私は思う。そして、その問題が「国」や「軍」より優先することはあってはならないことだと思う。なぜならば、国という単位のために国民がいるのではなく、一人一人の国民のためにこそ、国はなければならない、と思うからだ。それが民主主義というものの根本だと思うからだ。

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