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松本清張の居宅、ファンの会が購入し保存へ 北九州市

2007年09月25日08時35分

 作家の松本清張(1909〜92)が終戦直後から約8年間住んだ北九州市小倉北区黒住町の家を、ファンでつくる「清張の会」(北九州市)が寄付を集めて購入し、保存することを決めた。デビュー作の「西郷札」や、芥川賞を受賞した「或る『小倉日記』伝」などが執筆された部屋は、ほぼ当時のままだ。09年は清張生誕100年。同会の上田喜久雄事務局長は「清張の仕事の原点のような旧居を、北九州が誇る文化財として一般公開し、PRしていきたい」と話している。

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松本清張の旧居。終戦直後から作家デビューをはさみ、約8年間住んだ=北九州市小倉北区黒住町で

 この家は1935年ごろ、旧陸軍の兵器工場、小倉陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)(当時の陸軍造兵廠小倉工廠)の社宅として建てられた。木造平屋建てで6畳、4畳半、3畳の部屋と台所がある。兵役から復員して朝日新聞西部本社勤務に戻った清張は45年末にこの家を借りて入居。52年に購入し、翌53年末まで家族8人で暮らした。

 終戦後の混乱のなか、疎開させていた家族を呼び寄せた。自伝小説「半生の記」には、会社の印刷部の男性から「あそこだったら貸してくれるかもしれないよ」と聞き、「山のほうに寄ったところで、不便この上ない土地だった」と思いながらも早速入居を決めたことや、佐賀でほうきを仕入れて売り、生活費の足しにした様子などが書かれている。

 作家活動のスタートを切ったのは、この旧居にいた時期だ。50年、仕事の合間に書いた短編「西郷札」が週刊朝日の懸賞小説に3等で入選。52年に発表した「或る『小倉日記』伝」で53年に芥川賞を受けた。

 清張は53年12月の東京本社転勤に伴い、この家を同じ新聞社に勤めていた女性に売った。その後、女性の娘の山本ツ子(ね)コさんが、「清張さんが住んでいた家だから大切にしなさい」という母の言葉を守り住み続けた。

 同会は02年、この家の存在を知った。改修されていたのは台所やトイレなど必要最低限の所だけで、外側の壁板はツ子コさん自ら塗ったコールタールに守られていた。

 ツ子コさんは今年5月に83歳で死去。長男の誠一さん(59)は「手狭になった時に増改築の話が度々出たが、母は最後まで手を入れたがらなかった」と振り返る。

 そして誠一さんら遺族は、「ツ子コさんの遺志を継ぎ、大切に保存したい」という同会の申し出を受け入れ、来年の一周忌をめどに売り渡すことにした。

 同会は今後、NPO法人格を取り、年明けから購入費用の募金活動を始める予定。同会の上田さんは「貧しく、苦労を続けた頃の清張の息づかいが感じられる貴重な家。全国のファンに無料で一般公開したい」と話している。

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