コソボ大虐殺の村 セルビアへの怨念強く 極度の貧困…あえぐ住民
2月28日8時1分配信 産経新聞
コソボがセルビアから独立を宣言して1週間余り。1998〜99年のコソボ紛争時に、セルビア共和国主導の新ユーゴスラビアの軍がコソボのアルバニア系住民を大虐殺した村を訪ねた。現地には、今回の独立の底流にあるセルビアへの怨念(おんねん)がなお渦巻き、住民は極度の貧困にあえいでいた。(コソボ中部プレカズ 黒沢潤)
コソボ最大の都市プリシュティナから車で北西に約1時間半。大虐殺の舞台となったプレカズに向かう道沿いには、無数の墓標と、粗末ながら新築の家屋ばかりが立ち並ぶ、異様な光景が続く。「新ユーゴ軍が片っ端から人々を殺戮し、戦車で家をつぶした結果さ」とタクシー運転手(36)が教えてくれた。
プレカズには、新ユーゴ軍と戦ったコソボ解放軍(KLA)の指導者、アデム・ヤシャリ氏の実家がある。新ユーゴ軍は付近の丘陵を基地とし、98年3月に氏の一族56人を惨殺し、“コソボ掃討”ののろしを上げた。
屋根裏に隠れて生き延びた親族で商店主のタヘル・ヤシャリさん(46)は「多数の戦車が午前6時、自宅前のセルビア軍基地からうなりを上げて発進、村を3重に包囲した」と振り返る。
タヘルさんが驚いたのは、丘から下りてきた兵士たちの風体だ。太い腕には入れ墨が彫られ、頭はスキンヘッドだった。「さあ、何でもいいから自由に撃ちたまえ」。紛争後にタヘルさんが目にした文書によれば、軍は血に飢えた受刑者らを使って虐殺を行っていた。
慕っていた11歳年上の兄は、カラシニコフ銃から放たれた銃弾に左胸を貫かれて、即死した。
「兄は出稼ぎ先のドイツから、新年を祝うため帰省していた。7歳のころ、兄が別の出稼ぎ先スロベニアから、赤子でも抱えるように新品のサッカーボールを持ってきてくれたのを忘れない…」
紛争全体で殺害されたアルバニア系住民は約1万人、避難民は約100万人に上る。村の戦後復興も一向に進まず、生活は今も悲惨の極みだ。
取材中、ひとりの少年がタヘルさんの店にやってきて、生卵10個を買おうとした。少年はもじもじした後で、「払うおカネがないんだ」と、恥ずかしそうに打ち明けた。
「あの子も紛争で父を亡くし、片親で生活するカネもない」。タヘルさんは記者にこう説明すると、少年をなぐさめ、ツケ払いノートにその名前と卵の数を書き留めた。
ノートには、未払い者と品名がビッシリ書きこまれており、紛争時から返金できていない人々の名前も連ねてあった。
明日、生きているかどうか分からない最底辺の人々に、56人の親族を失った人が手を差し伸べる−。紛争終結から約10年がたち、新国家が樹立されても、コソボには悲惨な光景が広がっている。
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