毎日新聞
記者の目:在日コリアンが暮らすウトロ地区=新宮達
上水道の普及率は4割で、2割の世帯が生活保護を受けている。密集した60戸ほどの家々の半分以上は、築25年以上。低地のうえに下水施設も未整備で、雨脚が少し強まると浸水する家が続出する……。そんな劣悪な環境の中で、約200人の在日コリアンたちが土地の所有権もないままに、70年近く暮らしてきたことをご存じだろうか。
京都府宇治市にある「ウトロ地区」。阪神甲子園球場の半分に当たる2万1000平方メートルの土地を巡って、昨年末、韓国政府が「住民の土地買い取り資金の一部」として30億ウォン(約3億6000万円)の拠出を決めた。
軍用飛行場建設に伴い生まれた町の歴史から、日本側にも官民を挙げた支援を求める声がある。だが、「戦後処理」の視点に固執していては、反発も出てしまい話が進まない。戦後63年、在日1世に残された時間は少ない。とにもかくにも、「人道的見地」から日本サイドが積極的に動く番ではないだろうか。
ウトロは、1940年に始まった国策事業の「京都飛行場」建設に従事する朝鮮人たちの宿舎の町として誕生した。終戦で建設は頓挫したが、居着いた人々を中心に町が形成された。
地権者が転々として入り組んだ土地所有権の問題が顕在化したのは89年、不動産会社が住民の立ち退きを求めて京都地裁に提訴してからだ。住民側が買い取る方向で和解も模索されたが金額で折り合わず、00年に最高裁で住民側の全面敗訴が確定。その結果、生活環境は改善されぬまま放置された。裁判に負けてからは、住民は強制立ち退きを危惧(きぐ)して住宅改修に二の足を踏んだ。将来に絶望した若者は日本国籍を取得したり、ウトロを去り、「見捨てられた町」と呼ばれた。
私がウトロの取材を始めたのは4年前だ。将来の展望を尋ねても明確な答えはなく、深刻な表情で「ここに住み続けられるように何とか助けてください」と口をそろえるだけだった。
風向きが変わったのはその年の秋だった。住環境問題を考える日中韓3カ国の学会に招かれた住民4人が韓国内でウトロの窮状を訴えたのを機に、在外同胞支援に携わる韓国NGOが募金活動を開始した。存在すら知らなかった祖国で注目を集めて、5億ウォン(6000万円)以上の募金が集まり、住民らはそれらを原資に再度、買い取りを模索。5億円で東側半分(1万500平方メートル)を買い取る話が再び浮上した。
韓国政府の支援金に募金や住民の自己資金を加えて資金のメドはつきつつあるが、複雑な抵当権などの障害が存在する。だが、最も切迫しているのは時間だ。現存する1世は約10人。この1月下旬には、ウトロで約65年間暮らした文光子(ムンクアンジャ)さん(88)が亡くなった。それだけに、日韓は手を結んで支援を急がねばならないが、ウトロに対する日韓の見方には隔たりがある。
韓国政府は支援金について「人道主義的な観点から努力した」(大統領秘書室の車聖秀(チャソンス)・市民社会首席=当時)としているが、韓国民の募金が集まった背景には、ウトロを「強制連行のつめ跡」「未解決の戦後処理の象徴」と受け止める思いがある。
ウトロには、強制的に駆り集められた人もいれば、自発的に職を求めた人もいる。しかし、募金活動の中心となった韓国NGO「コリアン・インターナショナル・ネットワーク」は「歴史的経緯から、
責任は日本政府にある」との姿勢を崩さない。
そんな状況の中で、ウトロの住民は日本人にも支援を呼びかけて新たな募金活動を展開し、賛同した人々もいる。国土交通省と京都府と宇治市も「ウトロ地区住環境改善検討協議会」を設立、日本側も行政主導で土地買い取り後の町づくりに向けて動き出している。
だが、2月20日までに、府に寄せられたメールや電話25件のほとんどは反対意見だ。「裁判で決着がついたのに、なぜいまさら民間同士の土地問題に税金を投入するのか」といった意見を中心に、「日本の責任」を強調する韓国側へのアレルギーが垣間見える。
ウトロ住民の中には、「父母らが強制的に連れてこられた」という人がいる。一方で、彼らは日本側の支援がなければ解決に向けて前進しないことも知っている。「責任問題」にふたをする必要はないが、ウトロ地区形成の経緯を踏まえ、同じ日本に暮らす人間として、彼らを長年の苦難から一刻も早く解放することだ。まずは感情のわだかまりを越えて、募金への協力と町づくりへのスピードアップを図るべきだ。
(学研・宇治支局)(終)
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ご無沙汰しております。
年が明けてしばらくサボッてたら、更新が面倒くさくなって放置していました。
今朝の毎日でウトロ問題を取り上げており、今回も肝心の所を隠蔽していたので頭にきて宇治支局(0774-21-2084)に電話しました。
電話に出ていただいたのは、20~40代くらいの男性。非常に気弱な感じで、こちらが詰問調で話している時も、努めて冷静に対応していただきました。
毎 はい
25 毎日新聞の宇治支局さんですか?
毎 そうです
25 宇治支局発の記事に関しては、こちらで質問を受け付けていただけますか?
毎 私にわかることであれば・・・
25 本日の「記者の目」なんですけど
毎 はいはい
25 ウトロ問題ですね
毎 はい
25 コラムを書いた方は、しんのみやさん?にいみやさん?ですか
毎 しんぐうと申します。今、出張中でいないんです
25 そうですか。「記者の目」でウトロ問題を拝見するのは2回目なんですが、いずれも肝心な部分が書かれてないんですよね
毎 と申しますと?
25 失礼ですけど、ウトロ問題に関して概略はご存知ですか?
毎 どこまで知っていればいいのか分かりませんが、大体は掴んでいると思います
25 ならば、ウトロ問題の発端はウトロ住民同士の仲間割れから始まっていることはご存知ですよね
毎 んー・・・
25 日産車体の売却先はウトロ自治会長の在日朝鮮人だった。そして、その在日朝鮮人が利益を独り占めして他のウトロ住民に立ち退きを迫っている。ご存知ですよね
毎 んー・・・まあ。はい
25 これ、何で書かないんですか?
毎 ・・・
25 何で隠すんですかね
毎 隠すとかそういうのは・・・
25 まあ「隠していました。すいません」とは言わないでしょうね
毎 ・・・
25 私、日本のメディアがウトロ問題を報じるたびにチェックし続けていますけど、未だ一度もこのことを報じた記事を見たことが無いんですけど
毎 相手方の西日本殖産は記事になってるはずですけど
25 西日本殖産が何者であるかは書きましたか?
毎 何者かというのは?
25 ウトロ自治会長の人間が転売するために作った会社だと言うことです
毎 ・・・でも、今はキョサンは関わっていないですよね?
25 キョサン?
毎 はい
25 あ、「許さん」(=ウトロ自治会長)ね。こういう背景まできちんと書かないと
毎 んーまあ、今回は書けなかったということだと思いますけど
25 「今回は」じゃなくて、いつも書いてないんですよ
毎 全ての情報を書くというのは・・・
25 編集権とやらですか?
毎 ・・・まあ・・・そうですかね・・・
25 毎回毎回、ものの見事に、特定の意図に基づいた不都合な部分にばかり編集権がたまたま発揮されるわけですね
毎 たまたまとは言ってないですけどね
25 言ってないですけど、意味合いはそうでしょ。 ところで、前回の「記者の目」で中村一成がウトロ記事を書いてますよね
毎 はい
25 この時の記事は、かなり詳しくウトロ問題の経緯が書かれているんですけど、ウトロ自治会長と西日本殖産の名前は見事に隠蔽されているんですよ。他の情報は物凄く詳しいんですけど
毎 ・・・
25 彼の名前を検索すると批判記事がドカンとヒットするんですけど、彼はこういうアホな記事を書いてネットで晒し者になっちゃったわけですが、今回の新宮さんはこの騒ぎを念頭に置かなかったのですかね
毎 どうですかね
25 中村一成のウトロ記事をその後見たこと無いんですけど、社内的に「お前はもうウトロに関わるな」と命令があったとか?
毎 無いと思いますよ。ウトロの問題は記者個人で書いているというよりは、宇治支局で引き継いでいるという感じなので
25 じゃあ、宇治支局自体に問題があるわけですね
毎 ・・・
25 宇治支局全体で民団や総連とグルになっていると
毎 そんなことはないですよ
25 創価学会ともズブズブで
毎 いや、それは関係ないですよ
25 いずれにせよ、こういう隠蔽記事と言うのは在日のみならず毎日新聞やマスコミ自身の首を絞めるだけですよ
毎 まあ、隠蔽と言うのはアレですけど、今回の記事は趣旨からいくとそういう情報を書く余裕が・・・
25 記事の「趣旨」は何だったんですかね
毎 まあ、その、困っている人たちがいると。人道的な・・・
25 でも、そういう境遇にいる人たちはウトロだけじゃないですよね
毎 ・・・
25 親が事業に失敗して、破産して、住居を持っていかれて路頭に迷う子供たちはたくさんいるわけですよ。そういう人たちにも目を向けてあげるべきでは?
毎 まあ・・・記事になるようでしたら・・・
25 うち、抵当権がついてるんですけど、借金の返済が出来なくなって抵当権が実行されて競売で落札されて、それでも私は頑として退去しないでガスも水道も電気も止められて修繕も出来ず雨漏りも直せず人間らしい暮らしが出来ず、「人権侵害だ行政の責任だ社会の問題だ」と騒いだら、毎日新聞さんでは私を支援するような記事を書いてもらえますか?
毎 ん・・・ん・・・記事になるかもしれないですけど・・・東京ですよね?
25 そうですね
毎 じゃあ、あんまりお約束は出来ないですけどね・・ハハ・・
25 あ!分かった!!私がウトロに行けばいいんだ!!宇治に行って、在日を追い出して「ここは今日から俺の土地だ」と宣言して、鉄条網を張り巡らせる。んで、凶暴な野良犬を放し飼いして、土地を奪おうとするとんでもない連中には鉄パイプで殴りつけて追い出す。当然水道も電気も通らないわけですが、すべて人権の問題として行政的に解決。更には、税金を投入して公営住宅を建設してもらって私はそこに住む。どうですか?支援記事書いて貰えますか?
毎 いやー、でもそれは不動産侵奪だからだめですよ
25 そもそもウトロ住民自体が不動産侵奪・不法占拠じゃないか!!!
毎 ・・・
25 違いますか?
毎 ・・・
25 どう考えてもおかしいですよね。こういう擁護記事は、書けば書くほど在日とマスコミに対する嫌悪感を煽る結果になるだけなんですよ。いい加減観念して、キチンと在日同士の争いだと言うことを記事にしてください。その上で税金を投入して公営住宅を建設することが是か非か読者に問うべきです。
毎 わかりました。記者にはキチンと伝えておきます
この後、こちらのキツイ口調に煽られずに丁寧に応答していただいたことにお礼を言って、電話を切りました。「こういうご意見は歓迎する」とのことでしたが、もしかしたらウトロに関しては内心モヤモヤしたものがあるが、サラリーマンと言う立場上どうすることもできず、読者からの声と言う後ろ盾が必要なんだと思っているのかもしれません。
個人的には、ウトロ問題と言うのは、単に在日同士の争いだけではなくそれを巡るマスマディアのあり方と戦後リベラルサヨクの闇を含めた深い問題だと思っております。
土地の争い自体は韓国人朝鮮人の性質の悪い部分をギュッと凝縮した問題でありますが、特に私の日常生活に害を及ぼすわけではないので「笑っちゃうけどある面ではかわいそうだな」と感じるはずのところ、「在日同士の酷い争いであると言う事実を隠蔽して全部日本の戦争責任にしてしまえば済むだろう」という民族レベルの異常な発想に気づいた時には吐き気と眩暈と絶望と脱力を感じ、更に日本のマスコミが堂々とこれに加担していると言う事実にたどり着いたときには私は逆に悟りを開いてしまったわけでございます。
今やコムドやハプキドー程度では食指が動かない私ではありますが、ウトロ問題になりますと不思議とワクワクしてしまいます。
今回の新宮達氏の記事は前回の中村一成の記事よりも大分トーンダウンしてます。というか、戦争責任論が使用できなくなったので別の手を出しただけですが。グーを出して負けたので「今のなし。やっぱりやり直し」と今度はパーを出してるような安易な発想です。毎日新聞のみならず、朝鮮新報なども当初の論調から後退して数日前の記事では「自白」すらしています。以下では時系列でその変遷を振り返っていきます。
ところで、毎日新聞は3月上旬は色々と危ないらしいが、大丈夫なのかな?
【2000~:あまり話題になっていない頃】
朝鮮新報
10余年のウトロ訴訟 トンネ存続かけ最後まで 「これからが正念場」 12月にイベント(2000.08.02)
ウトロ地区というのは、京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地のこと。ここには解放前の1941年、大陸侵略を進めていた日本政府や京都府、国策企業が計画した軍用飛行場建設の飯場が作られ、工事のために連れてこられた朝鮮人労働者1300人が住むようになった。現在、在日同胞約70世帯、260人がこの地に密集して暮らしている。
解放後、ウトロ地区の土地(約2万平方メートル)の払い下げを受けた「日産車体」は87年、この土地を、住民の意思を無視し、住民に知らせることなく不動産会社「西日本殖産」(大阪市)に転売した。西日本殖産は88年末、突如住民らに立ち退きを要求。住民らがそれに屈しないと見るや、同地に暮らす在日同胞68世帯69人に対して立ち退きを求めて訴訟を起こした。これが一連のウトロ訴訟だ。
朝鮮新報
「まちづくり」へプラン発表 ウトロ同胞らイベント(2000.08.28)
京都・宇治市のウトロ地区は解放前、飛行場建設のために連行された朝鮮人労働者の飯場の跡で、今も同胞229人が暮らす。しかし、住民の知らぬ間にその土地を購入していた不動産会社が10余年前、住民の立ち退きを求めて提訴。10余年を経て、「住民全員敗訴=立ち退き判決確定」の結果が出つつある。
(中略)
ウトロ農楽隊の黄順礼さん(68)は、「問題の歴史的な経緯を考えると、絶対に出て行くわけにはいかない。今後も農楽を通じて多くの人たちに訴えていきたい」と力強く語った。
朝鮮新報
代替住宅要求で意思確認 ウトロ同胞が集会 総聯・民団合同調査へ(2002.03.11)
京都・宇治市伊勢田町ウトロ地区に暮らす在日同胞らが地権者から立ち退きを求められている問題で、住民らの団結集会「われら、住んでたたかう」(主催=ウトロ町内会)が2月24日、府立城南勤労者福祉会館で開かれ、住民と支援者ら約200人が参加。「代替住宅が補償されない限り最後までたたかう」との意思を確認した。 (中略)
解放前、飛行場建設に動員された同胞労働者らが住むようになり、今に至るウトロ地区。同胞住民らの立ち退きを求めて地権者が起こした「ウトロ訴訟」で、被告となった約70世帯、230人の同胞住民はその歴史的経緯から居住権を主張したが退けられ、一昨年11月までに全員敗訴が確定した。いつ立ち退きの強制執行が行われるか分からない状況の中、住民たちはこの問題で歴史的責任を負うべき日本政府および京都府、宇治市などが救済策を取るよう「ウトロまちづくりプラン」という具体案を示し運動を行ってきた。
厳会長によると、昨年2月と8月の2回、地権者である大阪市の不動産会社から敗訴した69世帯に対して個別に、「建設的な形の協力ができないか。年末までに協議がなければ法的手段を取る」との手紙が届いた。そのため昨年9月、町内会役員が不動産会社の担当者と初めて直接協議したところ、地権者側は、地権者と住民が共に行政に働きかけ、土地を行政に買い上げてもらうことなどを提案したという
(中略)
住民からは「なぜウトロに住むことになったのか、歴史的背景を知ってほしい」「裁判では負けたが、われわれが言っているのは道義的な問題。われわれを人間扱いしてくれ」「ウトロはふるさと。ここを出たら住むところがない」「立ち退きを迫るなら公営住宅の建設を」「強制執行になれば命をかけてたたかう」などの声があがり、代替住宅を求めて粘り強くたたかっていくことを参加者全員で確認した。
朝鮮新報
立ち退き強制執行の危機にある京都ウトロ問題(2002.04.01)
「ウトロは私たちのふるさと。命です。ここを出れば住む所がない」「なぜ私たちが祖国、朝鮮半島を離れ、ウトロに住んでいるのか、その歴史をいま一度考えてほしい」「家を解体するなら、まず私の身体を解体してからにして。強制立ち退きには命をかけて反対する」――地権者から立ち退きを求められている京都府宇治市伊勢田町ウトロ地区に暮らす在日同胞らは、3月22日の結成と同時に現地調査を行った総聯京都府本部と民団京都地方本部の共同調査団に対して、こう訴えた。
(中略)
第2次世界大戦中の1940年、日本の侵略戦争遂行のために始まった飛行場と格納庫建設に動員された朝鮮人労働者とその家族らが、解放後もそのまま住むようになった。建設は日本政府と国策会社、京都府の3者が推進。約1300人の同胞が動員されたと言われるが、何の補償もされなかった。いまはその家族や子孫ら68世帯(224人)が住むが、うち36世帯が高齢者を抱え、12世帯が独居老人。17世帯が生活保護を受けるなど、生活状況は非常に厳しい。
過酷な労働を体験したお年寄りたちは、「具合が悪い時などは近所の人が本当によくしてくれる。食べ物をもってきてくれたり、薬の飲み方も手にとって親切に教えてくれたり」「死ぬまでこの地で暮らしたい。地上げには断固反対」だと語る。
その一方で、「戦争中は飛行場整地のために土を運び、みんな肩に血豆を作って働いていた。そして戦後はここに住めと言われたが、なぜ今になって出て行けというのか。日本人が半分でも住んでいたら、こんなことにはなっていないだろう」「日本政府は加害者の立場に立って戦前・戦後の責任を一日も早く果たすべきだ」とやり場のない怒りに体をふるわせていた。
朝鮮新報
〈京都ウトロ土地問題〉 同胞住民、支援者らが強制執行反対し緊急集会 (2004.08.19)
厳さんは、今年1月にウトロの土地所有権が「立ち退き訴訟」の原告だった不動産会社「西日本殖産」(大阪市)から大阪市内の個人に移っており、それ以降ウトロ地区に不動産業者や解体業者らがひん繁に出入りするなど、非常に緊迫した状態が続いている、などの現状を報告。6月末には所有権抹消予告登記も行われるなど、状況は複雑さを増しており、住民たちも不安を募らせていると述べた。
朝鮮新報
京都ウトロ土地問題は明確に戦後補償問題 (2004.08.19)
ウトロ地区とは、京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地。朝鮮解放前の1941年、大陸侵略を進めていた日本政府や京都府、国策企業が計画した軍用飛行場建設の飯場が作られ、工事のために連れてこられた朝鮮人労働者1300人が住むようになった。現在、ウトロには6400坪に65世帯、約250人の同胞が暮らしているが、彼らは半ば強制的に連れてこられた1世たちと、その子孫である。65世帯のうち17世帯は身寄りのない高齢者の独居世帯だ。
このような歴史的経緯を考える時、ウトロの土地問題は明確に戦後補償問題である。
しかし、日本政府は飛行場建設事業を直接推進したのが民間の日本国際航空工業株式会社(後の「日産車体」)だとして、何の補償もせず、積極的にかかわることすら避けてきた。
87年、日産車体は住民の意思を無視し、彼らに知らせることなく西日本殖産に転売。西日本殖産は89年初、住民らに突如立ち退きを要求。それに屈しないと見るや、住民らを相手に訴訟を起こした。00年11月、最高裁での上告棄却決定で住民側が敗訴。判決は問題を土地の所有権の有無に関する事項ととらえ、政府や企業、自治体の戦争責任、戦後補償責任を無視した不当判決だった。
これによって住民らは常に立ち退きの強制執行の恐怖に脅かされるようになった。今年1月、土地所有権が西日本殖産から大阪市内の個人に変更され、「近く強制執行が行われる可能性が高い」と憂慮されている。(姫)
民潭新聞
強制退去迫られる京都・ウトロ町同胞(04.12.1)
用地買収は府が行い、工事は国策会社として設立された「日本国際航空工業」が担当して40年から始まった。工事に従事した約2000人のうち1300人が「募集」によって各地から集められた韓国人労働者だった。
工事は日本の敗戦と同時に中止になった。韓国人労働者とその家族は混乱のさなか、なんら生活の保障も帰国のための支援もなく、飯場に取り残された。これが現在のウトロ町の前身となる。生きるがため周辺の土地を耕し、米軍の演習場で砲の破片を拾って生活の糧としてきた経緯がある。
終戦後、土地の所有権は日本国際航空工業を母体とする「日産車体」に移った。しかし、「日産車体」は住民に知らせることなく、87年にウトロ町の土地約2㌶すべてを約3億円で売却した。新たな土地所有者となった不動産会社、西日本殖産は88年末、各戸にあてて内容証明郵便で立ち退きを迫っていった。
これに対して、住民は居住の権利を主張して裁判闘争を展開。「地上げ反対!ウトロを守る会」を結成した。この間、3回にわたる和解交渉も持たれたが、金額面で折り合いがつかないまま2000年11月、最高裁で住民側の敗訴が確定した。
【2005年~:国連やマスコミを巻き込んで大々的な戦争責任キャンペーンが始まる】
民潭新聞
「ウトロに行政支援を」京都・宇治市議会(05.4.6)
ウトロ地区の敷地面積は約6500坪。劣悪な環境のなか、現在も同胞を中心に65世帯約200人が住む。住民の多くは戦時中、安価な労働力として「京都飛行場」建設工事に半強制的に駆り出され、日本の敗戦とともに何の補償もなく放置された当事者家族とその子孫たちだ。
ところが、土地所有者の日産車体が87年に多くの住民にはまったく知らせることなく土地を転売したため、不法占有に問われている。
民潭新聞
ウトロ地区…韓国国会議員が初視察(05.04.27)
ウトロ地区は第2次大戦中に「京都飛行場」建設に携わった同胞が集まり、飯場を形成。解放後も行き場のないまま劣悪な環境のなかで住み着いた。居住権をめぐる裁判では住民側が敗訴した。
民潭新聞
京都ウトロ地区・退去問題解決へ曙光か (2005-07-13)
ウトロ地区は第2次世界大戦中、日本が国策として「京都飛行場」建設工事に駆り出した同胞たちが住んだ飯場の跡。解放後はなんの補償もなく放置され、行き場もなく住み着いた。しかし、土地所有権裁判では最高裁まで争ったものの敗れ、強制退去を命じられている。
朝鮮新報
同胞住民たちの声 (2005.08.30)
総聯南山城支部の李武律副委員長は「ウトロ問題は日本の植民地政策によって発生した歴史的問題だ。住民たちは、光復前は飛行場建設などで働かされ、光復後60年間もいじめを受けてきた。絶対に許せない」と語る。
国連の社会権規約委員会は「強制退去の違法性」について懸念を表明。宇治市などにもたびたび要請したが、日本社会ではほとんど認識されていないという。
李副委員長は「これからも日本政府が歴史的な責任を果たすよう訴えていきたい。同胞たちと生死運命をともにし、先頭に立って同胞たちを守っていく。それが民族団体としての総聯の使命だ」と語る。
朝鮮新報
京都・ウトロ問題 発端は日本による植民地支配 日本政府は歴史的認識を (2005.08.30)
京都・ウトロ地区(京都府宇治市伊勢田町51番地)-日本の戦争責任がここでも問われている。第二次世界大戦中、軍用飛行場建設のためこの地に連れてこられた朝鮮人たちは戦後、何ら補償も受けることなく見捨てられ、苦しい生活を余儀なくされた。それから60年、住民らは今にも訪れかねない「強制執行の恐怖」に怯えながら生活している。(李泰鎬記者)
劣悪な生活環境はいまだ改善されていない
住民らが最初に立ち退きを迫られたのは、1988年12月。当時、土地所有権を持っていた西日本殖産は、反発する住民ら(69世帯すべて)に対し立ち退きを迫る訴訟を京都地裁に起こした。
京都地裁、大阪高裁は「ウトロ問題」の経緯をまったく無視し、「単なる土地所有権に関する問題」としてとらえ、住民に立ち退くよう判決を下した。
さらに2000年11月、最高裁上告棄却によって全住民の敗訴が最終確定した。
(中略)
そもそも「ウトロ問題」は、日本の侵略戦争の産物として発生した問題だ。太平洋戦争を目前に控えた日本は、この地に飛行場建設を計画した。旧陸軍の要請を受けた業者と土地買収や設備工事を請け負った府の3者によって1940年4月、2000人の労働者を動員して工事が始まった。
約100万坪(現在の陸上自衛隊大久保駐屯地)に飛行場、乗員養成所、航空機製造工場を建設するという大規模な工事に、多くの朝鮮人が動員された。41年頃には飯場が作られ、約1300人が暮らした。証言によれば、住居は骨組みで、古いトタン、木の皮を屋根にした。13、14時間の労働はあたりまえで、「ボロボロになるまで働かされた」。
戦後は、同胞が集まり強固なコミュニティが形成され、在日朝鮮人運動の拠点になっていたこともあり、各地の在日同胞の「駆け込み寺」になっていたが、その分、GHQの乱暴な強制捜査の餌食にもされた。平等な社会保証も得られず、2重3重の苦しみを背負わされた。
ウトロの所有権は戦後、日産車体に移された。住民らは70年、土地売却を求めたが、同社はこれを拒否し、87年に住民へのきちんとした説明もせず「自称住民」に売却。さらに西日本殖産に転売された。水道設置要請がようやく認められたのが87年ということを考慮すると、「土地転がし」「地上げ」という単語が関係者の頭をよぎっても、まったく不思議ではない。
毎日新聞(2005/09/02朝刊 記事消滅済み)
戦後60年と「ウトロ地区」=中村一成(京都支局)
◇責任果たす最後の機会ーー過去に向き合う作業を
京都府宇治市にある在日コリアン集住地域「ウトロ地区」が、韓国内で関心を集めている。60世帯余り約200人の住民は法律上、土地所有者による強制立ち退きがいつでも可能な状態に置かれており、未清算の過去を象徴する問題と認識されているからだ。さらに、やむにやまれぬ打開策として、住民自らが土地を買い取ろうと日韓での民間募金も始まった。植民地支配と戦争を背景にした問題の「解決」が、日本側の謝罪と補償でなく、善意による募金によって図られようとしているのだ。戦後60年、日本社会は植民地支配という暴力の歴史にどれほど向き合ってきたと言えるのか。正直な思いだ。
面積約2ヘクタール。ウトロの成立は、太平洋戦争に踏み切る直前の1940年、国と京都府、国策会社が進めた軍事飛行場建設計画に伴い、朝鮮人労働者が集められたことによる。当時を知る在日1世の文光子(ムンクァンジャ)さん(85)は「空襲警報で防空ごうに逃げ込む毎日ながら、朝から晩までモッコで土を運ぶ。食べる物がないから、道で摘んだ草でかさをまして飯を炊いた」。結局、飛行場は未完成のまま日本は敗戦。用地は占領軍に接収され、労働者と家族だけが補償もなく放置された。
土地は戦後、国策会社の後身「日産車体」に引き継がれた。その後、多くの住民が知らないうちに周辺地価の約7分の1で売却され、転売された不動産会社が89年、住民に土地明け渡しなどを求めて提訴。00年12月に住民側の敗訴が確定した。現在の所有権は大阪市内の個人に移り、いつ立ち退きを強制されてもおかしくない事態が続く。
立ち退き問題が持ち上がって約15年で、世帯の減少は少ないが人口はほぼ半減した。住民の2割近くは65歳以上で、12人は独り暮らしだ。この間、家の改修はほとんどない。いつ「合法的」な生活の破壊が始まるかが分からないからだ。
危機的状況の中、住民らは昨年9月、韓国での国際居住問題研究会議で窮状を訴え、注目が集まった。昨秋以降は政府要人や韓国国会議員らがウトロを訪問。92年以降、毎年開かれている日韓アジア局長会議でも、昨年初めてウトロ問題が取り上げられた。韓国メディアの取材も相次ぎ、8月15日には、約500人を集めた支援集会が韓国テレビ局による「解放の日」の特別番組で生中継された。
韓国内では、在外同胞の人権問題に取り組むNGO「KIN」が運動を担う。「遅くても65年の段階で解決すべき問題だった」と、メンバーの〓芝遠(ペジゥオン)さん(34)は語る。有償、無償の経済援助と引き換えに対日請求権を放棄した日韓条約は、在日を置き去りにした。「何かしなければ」との思いが募金に行き着いた。7月からは街頭やインターネットで募金を続けている。
だが植民地支配に起因する問題がなぜ民間の募金につながるのか。募金には内部でも激論があった。かつて、従軍慰安婦問題で「日本政府の歴史的責任を覆い隠してしまう」などと批判を集めた「アジア女性基金」と同根の発想ではないかと。しかし、〓さんは「いわば、募金は政府への貸し付けだ。韓国は自国民保護の観点から支援し、日本政府は誠実に歴史的責任を果たしてほしい」と訴える。
「もし、住民の3分の1でも日本人やったら、行政が解決していたやろう」。複数の住民が漏らす言葉に、日本社会は反論できるだろうか。「民間同士の問題」を理由に、行政はこの問題から目をそらし続けてきた。このため地区内は下水も整備されず、風向きによっては、ドブのにおいが鼻をつく。
地元の支援組織「ウトロを守る会」の斎藤正樹さん(56)は言う。「見えているのに見ない逃げの意識がある。実質的な朝鮮支配から100年もたつのに、日本社会は向き合う作業をしていない。それは不幸で不健全なことだと思う」
住民が募金で集められる金額には限界があり、前途は厳しい。それでも「実態調査すらしない行政に働きかける余裕はない。歴史清算の機運が高まっている今年が最後のチャンスだと思う」と同町内会の厳明夫さん(51)は話す。
行政はこれまで、住民が求めた公営住宅の建設はおろか、実態調査すらせず放置してきた。法的には難しい面もあるのかもしれない。だが、これだけ住民の人生をゆがめた責任を考えれば、政治的解決も含め、できる限りの方策をとるべきだ。
「最後のチャンス」とは、日本社会が自ら道義的責任を果たす最後の機会という意味でもある。
朝鮮新報
京都・ウトロ 同胞住民を支援 募金運動展開 (2005.10.29)
ウトロ地区(京都府宇治市伊勢田町51番地)では、日本の植民地支配下で旧日本軍の飛行場建設に従事させられた朝鮮人とその家族らが生活していた。過酷な労働と生活苦に苦しんだ同胞たちの一部は、日本の敗戦後も帰国できず、ここで生活するしかなかった。
日本が過去の清算の一つとして解決しなければならない問題であることが明白であるにもかかわらず、日本政府は今日まで何ら補償することなく放置してきた。
住民らの度重なる要望にもかかわらず同地区に水道が整備されたのは1988年になってだ。だが、今でも上下水が整備されていない家もある。台風の被害にも何度もみまわれ、少しの雨で浸水する家もある。
1988年には地権者が住民の退去を求め訴訟を起こした。住民らの敗訴となった判決は、歴史的経緯をまったく無視した不当なものだった。
【2007~:一部韓国系メディアで恥部が暴かれる。ネット上では「やっと報じたか」の反応】
統一日報
ウトロ住民 強制退去の瀬戸際
1987年3月9日、当時の土地所有者だった日産車体は、ウトロのある宇治市に水道管施設設置同意書を提出した。
この日は自称「ウトロ自治会長」である許昌九(平山桝夫)氏が、日産車体から3億円で土地を購入する契約を結んだ日でもある。
許氏は、土地の購入と売却を住民たちに知らせずに行った。
ウトロ国際対策会議によると、一連の経過は次のとおりだ。
「許昌九氏は当時、民団京都地方本部の団長だった河炳旭氏の資金援助を受けて、日産車体からウトロの土地を購入した。ところが2カ月後の1987年5月、許氏はこの土地を河氏(当時の西日本殖産代表)に4億4500万円で転売した。1988年9月、河氏は西日本殖産を日本人が経営するカナザワ土建に売った」
これが事実なら、許氏と河炳旭氏との関係、土地取引、河氏が土地を処分した理由など、不明な点はつきない。
河氏が民団京都本部の団長だったことから、民団に対する誤解もあるようだ。
「河炳旭氏が関わっていたので、民団はウトロに消極的なのではないだろうか。在日韓国人の権益擁護団体といいながら、同胞の生存問題に無関心だというのは理解できない」(韓国のNGO関係者)
ウトロ町内会の厳本明夫副会長も「(ウトロ問題に)民団は消極的だとは言えないが、積極的でもない」という。
確かに、民団は金宰淑元団長のウトロ訪問以外、具体的な対策や動きを見せていない。
民団京都南支部の李基安支団長は「法的問題であるため、民団として介入できないだけだ。居住する団員の権益を守るため、可能な限りの支援はやっている」と、民団に対する批判を一蹴した。
ウトロ支援活動を展開する韓国市民団体の裵徳鎬地球村同胞連帯代表は、「在日韓国人問題として、民団ももう少し積極的になれないだろうか」と、民団に対する不満をもらす。
裵代表はまた、「最悪のシナリオがますます現実味を帯びているようだ」と唇をかんだ。
朝鮮日報
京都ウトロ地区問題:住民たちは追い出されてしまうのか(上)
◆住民たちはどのようにしてウトロへ来たのか
ウトロを強制徴用と関係付ける見方が多い。日本政府による徴用令により1941年から始まった韓国人強制労働の犠牲者、またはその子孫だというのだ。ウトロ地区の形成は、戦時中に軍の飛行場建設労働者たちが不毛の地だったこの地域に仮住まいを始めたことがきっかけだった。飛行場の建設が始まったのは1941年。こうして強制徴用とウトロを関連付ける先入観が生じた。
しかし、この地で働いていた韓国人労働者1300人は、当時の徴用令により連れて来られたわけではない。ウトロ国際対策会議ホームページには「いくつかの誤解について明らかにする。(ウトロ地区の韓国人労働者たちは)銃剣による直接の武力により移住したわけではなかったとしても、故郷で生活ができなくなった植民地の国民が、経済的問題などさまざまな理由により、自らの思いとは関係なく植民地宗主国へと移住したケース」と説明している。
京都ウトロ地区問題:住民たちは追い出されてしまうのか(中)
韓国の国務総理傘下「日帝強占下での強制動員被害者の真相究明委員会」も昨年末の報告書で、「強制徴用者ではなく、日本に居住していた朝鮮人がほとんど」と明らかにした。1930年代末、さまざまな理由で植民地朝鮮の経済的貧困を避けるために日本に渡った人たちだったということだ。
もちろん昨年12月に死亡したウトロ地区住民のチェ・ジョンギュさんのように、本来は日本の他の地域の炭鉱に強制徴用され、後日ウトロへと移住した住民もいる。しかし「徴用かどうか」は、ウトロの歴史的な意味を強調しようとして事実関係を明らかにしてこなかった韓国のマスコミの過ちであり、本質的な問題ではない。ウトロ地区の住民たちは日本による植民地政策の被害者であり、最後まで韓国の国籍を放棄しなかった韓国人であるという事実は変わっていない。
(中略)
しかし、この過程で恥ずべきことが起こった。日産車体からウトロ地区の土地を買い取って西日本殖産に転売した個人とは、ウトロに住む在日韓国人、A氏だったのだ。売却金は3億円。A氏に資金を融資したのも在日韓国人団体である在日本大韓民国民団(民団)」の幹部B氏であり、そのB氏がウトロ地区を買い取るために急きょ設立したのが西日本殖産だった。A氏は日産からウトロ地区の土地を買い入れた直後、「土地を4億円で買い取った」と主張し、西日本殖産(B氏)から4億4500万円を受け取り転売した。このように同胞をだまして巨額を手にしたA氏は夜逃げし、B氏もまた西日本殖産を1988年に日本の企業に売却、ウトロから手を引いた。当時B氏がいくらで西日本殖産(ウトロ地区)を売ったのかは明らかではない。
京都ウトロ地区問題:住民たちは追い出されてしまうのか(下)
また別の同胞もいる。2004年、ウトロ地区の所有権は一時西日本殖産から井上正美という個人に移った。井上氏は05年5月、韓国のマスコミとのインタビューで自らを在日3世と主張し、韓国政府にウトロ地区を5億5000万円で買い取るよう要求、韓国政府による買い上げ論議に火をつけた人物だ。当時の潘基文(パン・ギムン)外交通商部長官が国会で政府による支援について言及したのもその年の11月だった。
しかし日本の裁判所は06年9月、井上氏の所有権は無効との最終的な判決を下した。契約額が社会通念に比べて非常に低額という事実を理由に、売買契約は西日本殖産職員による職権乱用にあたるとの判決を下したのだ。契約額は明らかではないが、当時の日本の新聞を調べると2000万円だったとの記事がある。井上氏は後日、ウトロ地区の土地売買で暴力行為を行ったとして日本の警察に逮捕された。
【2008年~:ウトロと言えば「在日同士の争い」ということが知れ渡っているが未だに悪あがき】
朝鮮新報
総連京都・南山城支部 金善則顧問にウトロの同胞、町内会が感謝状 (2008.01.15)
ウトロには、日本の植民地時代に軍用飛行場の建設に動員された1世たちの血と涙が染み込んでいる。戦後長きにわたって同地域は地方自治体と政府による各種の社会経済的施策の適用から除外され、初歩的な生活権すら保障されずあらゆる差別を受けてきた。
ウトロの同胞たちは、過去に行われた土地裁判(1989~2000年)の不当な判決により、「不法占拠者」のレッテルを張られ生存の権利と居住権を奪われたばかりか、いつ「強制退去」させられるかわからない不安と恐怖の中で暮らしている。
朝鮮新報
総連京都府本部 「ウトロ同胞支援募金運動」展開 (2008.01.21)
日本の植民地統治時代に軍用飛行場建設が行われた京都・ウトロは、建設工事のために連行されてきた朝鮮人労働者の子孫と縁故者たちが解放後も行くあてなく暮らしてきた土地だ。しかし、日本政府は歴史的事実を一切無視し、住民たちを「不法占拠者」扱いし退去を迫ってきた。
【2008年2月:ついに朝鮮新報が「自白」。しかし時既に遅し】
朝鮮新報
在日朝鮮人運動史の中のウトロ (2008.02.27)
既報のように、総連京都府本部では「ウトロ同胞支援募金運動」を大衆的に推し進めている。ウトロ同胞への支援は、日本の植民地政策によって強制連行された同胞たちの「戦後補償」、過去清算の一環であり、同胞の生存権を守るためのたたかいである。「ウトロ問題」が発生した歴史的背景について紹介する。【京都支局】
ウトロの歴史は運動の歴史でもある。それは差別と抑圧に対するたたかいの歴史であるとともに、同胞組織が歩んできた歴史でもある。
1945年8月15日、解放を迎えたウトロ同胞たちの歓喜の陰で、飛行場建設事業を請け負っていた国策会社幹部らは資料を持ち出し、ウトロから逃げ出した。これにより、同胞たちは何の補償もなしに、「失業者」として放置されたのである。
解放の喜びに浸るのも束の間、同胞たちは深刻な生活苦に直面する。飛行場建設跡地は米軍により接収され、駐日米軍駐屯地が設置される。同胞たちが暮らしている飯場(現在のウトロ集落)もその接収対象となっていく(米軍が接収した地域は、現在の陸上自衛隊大久保駐屯地)。
しかしウトロの同胞たちは、どん底の中でも団結してたたかい、そしてたくましく生活の基盤を築いていく。
ウトロ集落には、解放直後にほかの地域でもそうであったように、民族学校(国語講習所)が45年9月に自主的に建てられ運営されていく。ウトロの中で読み書きができる同胞が教師を務めた。「学校」とは名ばかりの施設ではあったが、当時通った同胞たちによると「素晴らしい」学校だったという。
民族学校が運営された建物が現在の総連南山城支部であり、当時の朝聯(在日本朝鮮人聯盟)の事務所でもあった場所である。現在、支部の前には住民たちが「ウトロ広場」と呼ぶ広場があるが、ここは民族学校の運動場であった場所である。
同胞たちは朝聯を中心に固く団結し、米軍が銃剣を振りかざし、飯場跡からの立退きを武力により威嚇してきてもひるまずにたたかい、生活拠点のすべてであった集落を死守する。当時、米軍は同胞に向かって威嚇のために実弾射撃を行い、数人の同胞たちが被弾、負傷した。
朝鮮戦争の前年である49年、朝聯組織と民族学校は強制的に解散させられた。民族学校が強制閉鎖された時、教壇を叩きながら泣いていた先生の姿が今も忘れられない、と当時を記憶する同胞は話す。
しかしウトロ同胞たちは、戦争勃発後も祖国防衛のための闘争を繰り広げる。集落に隣接する米軍駐屯地から朝鮮への軍需物資輸送等がなされていたことから、そのたたかいは熾烈なものであった。そのような中、ウトロは戦争中の52年、二度にわたり警察の強制捜査を受けている。容疑は「スパイ容疑」である。
55年の総連結成により、運動は新しい段階に進むことになる。朝鮮民主主義人民共和国の国際的権威と同胞愛あふれる海外同胞施策のもと、世界でも類をみない海外同胞運動の歴史を切り開いていくことになる。
60年代中盤には支部の合併などがなされ、現在の南山城支部となり、活動の拠点をトロに移すことになった。当時、南山城地域には宇治支部、綴喜支部、相楽支部の3支部があったが、これらが統合されて南山城支部となった。現在の支部事務所は、当時までは伊勢田分会事務所であった。
南山城地域での在日朝鮮人運動においてウトロは常にその中心であり、また先頭に立っていたといえる。
土地問題が発生したのは、まさに日本がバブルに突入していった時期である。
87年の転売事件に「ある住民」が関与したこと、また最初に地上げ会社である西日本殖産を作ったのが「ある同胞団体の本部代表」であったということは、言い訳のできない事実であり、まことに遺憾であるとしか表現ができない(転売事件に関与した住民も、「ある同胞団体」の支部役員であった)。
土地問題・転売事件に「同胞」が関与したことは否定できない事実ではあるが、その最も大きな責任を持ち、決定的な役割を果たしたのは日本行政と日産車体であると言わざるをえない。
転売と関連して最初に行われた法律的対応は86年12月、当時の地権者であった日産車体から行政(宇治市経由で京都府)へ提出された国土法の届出である。当時、日産車体は届出書類にウトロ地区の現況を「空地・遊休地」として提出し、行政はこれを「認めた」のである(自分たちが飛行場建設に動員した朝鮮人がそこに住んでいることを知っていながらである)。この国土法の届出が受理されたことにより、後の転売は法律的に許可されたことになった。
西日本殖産が設立されたのは翌年87年4月、移転登記が完了するのは同年6月である(国土法の時効は91年にすでに成立している)。
こうした事実は、転売事件の「シナリオ」を書いたのが一体、誰であったのかを如実に物語っている。そしてこの事実は、歴史的に繰り返されてきた「日帝」の卑劣な手法そのものである。
そして忘れてはならないのは、ウトロが本来、軍事飛行場建設に動員された朝鮮人労働者たちの飯場であったという歴史的経緯である。戦争中、ウトロの土地を所有していたのは当然のごとく日本の行政であった。戦後、行政が土地の所有権を「民間会社」に売却したところから「ウトロ問題」は始まっているのである。当時、ウトロの同胞たちには「当然」その事実を知らされることはなかった。
現在まで日本各地でいわゆる「立退き問題」が提起された同胞集落は数多くあったが、そのいずれもが国有地などの公有地であった。公有地の場合、「立退き問題」は起こっても「訴訟」が起こされた事はなく、すべて安価による払い下げか、移転などにより解決している。
87年、転売事件当初の西日本殖産の設立者(=ウトロ地権者)であった、「ある同胞団体の代表」は、西日本殖産の会社ごと第三者へと転売し、その責任を回避する。
新たに西日本殖産を買い取った地権者は89年、ウトロ住民全世帯を対象に「立退き訴訟」を起こす。司法の場において、歴史問題は取り扱われることすらなかった。単なる民間対民間の所有権訴訟としてのみ取り扱われた。ウトロ住民たちは法廷で、過去の歴史について主張したかったが、そのような場面すら用意されることはなかった。
ウトロ土地問題が法廷に持ち込まれたことにより、総連組織はウトロ支援活動の基本を「側面支援」に転換することになる。
土地問題の発生と時を同じくして、日本の市民たちにより支援組織「ウトロを守る会」が結成される。日本人支援者による地道な支援により、ウトロを支える支援の輪は徐々に広がっていき、強制執行を阻止するうえにおいても大きな力となる。また日本人支援組織がウトロ問題を国連(人権委員会)においても訴えたことにより、00年8月には日本政府への勧告へとつながった。
土地問題が発生してからすでに20年という歳月が流れたが、これは決して短い期間ではない。03年には新たに「ウトロ問題を広げる会」という支援組織も結成された。ウトロの同胞たちを支えてきた日本市民たちの姿を同胞社会は決して忘れてはならない。
00年末、最高裁の棄却決定によりウトロ同胞たちは全面敗訴となった。
日本の司法の判決は、「ウトロ住民は不法占拠者である。すみやかに建物を壊し、土地を明け渡せ」というものであった。係争中にもウトロ同胞たちと同胞組織は幾度となく、行政への要望を行ってきた。しかし、行政は「歴史問題は65年の『日韓協定』により完全かつ最終的に終わっている」とし、一切の歴史責任を回避し続けた。
司法による救済の道が閉ざされたことにより、ウトロ住民たちがウトロの地を守り、生きていくために残された道は、「土地を買い取る」以外にはなくなったのである。
敗訴が確定した直後から、地権者からの「立退き通告書」が数回にわたりウトロ全住民宛に送られてくるようになった。まさに「脅迫状」そのものであった。しかし、どこにも行くあてのない同胞たちが多数いるウトロ住民たちは、「団結」しながら踏ん張り続けた。
そんな中、大きな転機が05年に訪れる。04年秋、南朝鮮で行われた「居住権学会」に日本人支援者と共に参加し、ウトロ問題を訴えたウトロ同胞たちの姿が南の社会で大きく取り上げられたのである。その背景には、「親日派清算」など過去の「歴史見直し」の機運が高まっていたことがあった。南の活動家たちにより、ウトロ支援の世論と運動が05年春から一気に高まっていく。
65年の「日韓協定」により「歴史責任」をうやむやにしてしまった南朝鮮当局に対して、その歴史的反省を求めると同時に、ウトロを守るための財政支援を求める世論が民間募金運動の広がりの中で大きく高まっていくことになる。民間NGO団体が行った民間募金には、現在まで約15万人が参加し、その金額は6000万円を超えている。民間募金は現在も続けられている。南の活動家たちと市民たちの運動の高まりにより、昨年末南朝鮮当局はウトロ財政支援を正式に可決した。
総連組織は04年から町内会役員を兼任しながら、町内会のさまざまな活動を支え、団結を強めるために力を尽くしてきた。また、日本の行政への要望活動や交渉を継続的に展開し、南のNGO活動家たちと共に、この間のウトロの運動を支えてきた。
ウトロ町内会長を20年間続けてきた金教一さんは、「ウトロが今までがんばってこられたのは、多くの方たちのあたたかい支援があったからだ。この間、絶望的にならざるをえない場面が数え切れないほどあった。今日のような時を迎えることができたのは、本当に奇跡のようなこと。この間にウトロを支援してくださったみなさんへの感謝で胸がいっぱいだ。とくに、総連が本当に厳しい状況の中でもウトロを支援する募金運動を展開してくれたことに対し、ウトロの住民は心からありがたく思っている」と話す。
町内会長のアボジは、軍事飛行場建設に動員され過酷な労働を強いられた当事者である。
アボジは解放後まもなく事故により他界し、オモニが女手一つで育ててくれた。1世が歩いてきた苦難に満ちた過去を思いながら金会長は次のように話す。
「ウトロの歴史はたたかいの歴史であったし、私たちのアボジ、オモニたちの血と涙の歴史だ。その歴史は同胞組織の存在を抜きには語れない。時代が流れ、北南関係も含め私たちを取り巻く政治状況なども大きく変わった。同胞社会全体がそうであるように、ウトロの住民たちの多くが『韓国籍』を取得しているが、朝聯時代から、私たちの心の中心にある民族心と愛国心はまったく変わらない。一昨年に脳梗塞で倒れた金善則顧問をはじめ、総連の活動家たちが半世紀にも渡り、ウトロのため、同胞のために尽力されてきた歴史を私たちは決して忘れない。昨年12月、集会に参加された金顧問がも語っていたが、本当にこれからも一生懸命がんばってこのウトロを守っていく決意だ」
私たちの歩みは、その一日一日が歴史である。
「私たち同胞組織の使命は、同胞たちの生命と財産を守ること。そしてそのことは過去の歴史問題と常に直結している。過去の歴史を正すことができなければ、本質的な意味で同胞たちを守ることはできないし、本当の未来は築けない。ウトロ問題の最も重要な本質は歴史問題であり、それは即ち1世たちの『恨』を晴らすことだ。土地問題の解決はその長い道のりの中のひとつ。私たちには命をかけてでも、また代を継いでも、果たすべき使命が残っている」
倒れた金顧問の後を継いで奔走する、総連支部の現役活動家の言葉である。
※嘘や矛盾を指摘され逃げ道がなくなって最後に開き直るのはいかにも朝鮮人って感じです。
【おまけ】
動き出すウトロ問題(京都新聞)
※もちろん、在日に不利な事実は「偶然」報じられていません
記者の目(毎日新聞)
※後日、ウトロ記事にコメントできるようになるはずです
この記事にコメントする
待っていました。
他のブログで毎日新聞のウトロ問題記事があったので、ここも取り上げるのではないかと思っておりました。
毎日新聞の中の人も変わりたいと感じているのでしょうね。
やはり私たちも声を上げなければならないんだなと痛感しております。
ところで、イージス艦「あたご」問題で、漁船も問題があるのにそれを取り上げず自衛隊にばかり責めるマスコミの異常さを取り上げる気は無いでしょうか。難しすぎるのでしょうか・・・。
毎日新聞の中の人も変わりたいと感じているのでしょうね。
やはり私たちも声を上げなければならないんだなと痛感しております。
ところで、イージス艦「あたご」問題で、漁船も問題があるのにそれを取り上げず自衛隊にばかり責めるマスコミの異常さを取り上げる気は無いでしょうか。難しすぎるのでしょうか・・・。
おおお、やっぱり
ウトロ問題には反応するんですねえ。しかし、朝日も毎日も、どうしてこうも既にバレていることを隠して報道するんですかね。愚民化政策が浸透した日本人だって、いくらなんでもそこまでは馬鹿じゃないでしょうに。しかし毎度のことながら毎日は偽善に満ちていて気持ち悪いです。