飛鳥文化は中国の影響
【飛鳥文化】
飛鳥時代の文化。法隆寺に代表される最初の仏教芸術が開花し、聖徳太子の十七条憲法や三経義疏など、思想・学問の面でも高度の発展を遂げ、白鳳文化・天平文化の基礎を築いた。中国、六朝文化の影響のもとに発展。
【白鳳文化】
白鳳時代の文化。遣唐使によって初唐の文化がもたらされ、特に仏教美術にその影響がみられる。薬師寺の薬師三尊像や東塔、法隆寺金堂壁画などが代表的。国史編纂が始まり、漢詩文・和歌も盛んとなった。
【天平文化】
奈良時代、天平年間を中心に栄えた文化。律令国家の充実を背景にした貴族文化で、唐文化の影響を強く受けて発達し、国際的性格と鎮護国家思想による仏教的性格を大きな特色とする。彫像を中心とするすぐれた仏教美術を生んだ。
直接中国に行って文化を学んだ日本人
全17回あった遣唐使の航路のうち
一番多い航路は沖縄経由の南島路であった
東大寺の最高責任者鑑真も中国から直接日本へ来た
http://www.amaki.okayama-c.ed.jp/tirek_ka/nihonshi/print/H12-jh-06.htm
【遣隋使】
聖徳太子が隋に派遣した大和朝廷の使節。前後三回(隋書に記録される600年を含めて四回・五回・六回説がある)行われた。607年の小野妹子の派遣が有名。隋滅亡後、遣唐使として継承された。
【遣唐使】
遣隋使のあとをうけ、日本から唐へ派遣された公式使節。国書・物品などを奉献し、唐の文化を摂取する目的で、630年から894年に中止されるまで一六回にわたって派遣された。入唐使。もろこしの使い。
韓国の教科書に載る王仁は中国人
王仁は中国人で、天皇が百済に命令して朝貢させた奴隷
漢高帝之後曰鸞。鸞之後王狗轉至百濟。百濟久素王時。聖朝遣使徴召文人。
久素王即以狗孫王仁貢焉。是文。武生等之祖也。
http://www.neonet.to/kojiki/siryo/zokuki@26-40.txt
↑『続日本紀』791年4月8日文忌寸最弟が上書
王仁の系譜 ①王弥(中国揚子江ヨナムから上西晋時代居住) → ② 王旬 (韓国海南湾竹城)に一時居住 → 王仁(霊岩郡西聖基洞誕生)
↑霊岩鳩林王仁説話 (ミンジュンシク『統一路』保安問題研究所,1989年)
百濟國 若有賢人者貢上 故 受命以貢上人名 和邇吉師 即論語十卷 千字文一卷 并十一卷付是人即貢進(此和邇吉師者、文首等祖)
http://www.neonet.to/kojiki/siryo/kojiki@01-03.txt
↑古事記原文。訳:百済にもし賢人がいるのであれば献上せよとの応神天皇の命令を受け、百済が献上した人の名前は和邇吉師という。論語十巻と千字文一巻のあわせて十一巻をつけて献上した。
日本建国前から鉄も文字も使っていた
日本建国前から倭人は漢字も鉄も使っていた
三重県嬉野町 貝蔵遺跡 二世紀末 土器 墨書 田の文字
石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧 紀元前3~4世紀
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
弥生中期の福岡県春日市の赤井出遺蹟鍛治工房
2世紀に鉄を使っていた倭人
魏志東夷伝
日本建国以前から中国政府と直接交流していた倭人
日本建国以前から中国政府と交流し金印を貰っていた倭人
倭人は漢の時代既に中国に使節を送り交流していた
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/img/w1.jpg魏志倭人伝より
倭人は安全を祈り海を渡り、中国に使者を出し交流していた
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/img/w12.jpg魏志倭人伝より
邪馬台国は中国政府から文物を受け、中国政府は邪馬台国へ使者張政を送る
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/img/w19.jpg魏志倭人伝より
2世紀に中国と手紙のやり取りをしていた倭人
魏志東夷伝
渡来人で最も多いのは中国人
【新撰姓氏録】
古代の諸氏族の系譜。三〇巻、目録一巻。嵯峨天皇の命により、万多親王らが編纂。815年成立。
新撰姓氏録によると、このころ京都周辺に住んでいたの帰化系氏族の内訳は
漢 (中国系) 163 氏,百済 104 氏,高麗 41 氏,新羅 9 氏,任那 9 氏
つまり最大派閥の渡来人は中国人
日本と中国でしか発見されない稲のDNA
中国から日本へ稲が直接伝来した裏づけとなるRM1-b遺伝子の分布と伝播」。
日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。
中国では90品目を調べた結果、61品目にRM-1b遺伝子を持つ稲が見つかったが、
朝鮮半島では、55品目を調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見つからなかった。
弥生人のDNAも古代中国と同じ
弥生人のDNAは古代中国人
さて、その絹織物と養蚕技術の伝来ルートとしては、従来の定説では、華北~朝鮮半島経由だとされてきた。ところが吉野ヶ里遺跡から発見された四片の絹織物を鑑定したところ、江南地方である「華中」に特有の蚕である太い「四眠蚕」であることが分かった。このことから大陸文化の(=弥生文化)の伝来は、長江流域の江南からの直接ルートが強く推測される。
そして、最近、日中の「江南人骨日中共同調査団」の調査結果(1999年3月)が、その直接ルート説をさらに補強した。これは、江南地方の紀元前5~8世紀の人骨と、福岡県筑紫野市出土の人骨(紀元前後)について、「ミトコンドリアDNA分析」という方法で、塩基配列を比較したところ完全に一致したというものである。
以上のような事実をつなぎ合わせると、大陸の華中(江南地方)から直接、吉野ヶ里など北部九州へ渡来人がやって来た可能性が強くなり、大陸文化の伝来についても、華北~朝鮮半島経由以外に江南からの直接ルートの存在を強く示唆される。
これまで、大陸との交流というと、魏と邪馬台国というように、魏(華北)の地域との関係がどうしてもクローズアップされがちだった。しかし、吉野ヶ里遺跡の絹片や人骨の分析により、呉(華中=江南)地域との交流の存在が実証されたというわけである。
弥生人の人骨と中国で発掘された人骨の遺伝子が一致
共同通信によると、日本に稲作を伝えたとされる渡来系弥生人の人骨と、長江(揚子江)下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、DNA分析で配列が一致し、18日までの中日共同調査団の調査で分かった。
共同通信。http://www.come.or.jp/hshy/j99/03d.html#top
日本の仏教諸派は全て中国直輸入か日本発祥
【宗派】【開祖】
■ 天台宗 最澄(766~822) 37才で遣唐使に同道して中国に渡り、天台を学ぶ。
■ 真言宗 空海(774~835) 30才の時遣唐使にまじって中国に渡り、長安の恵果より真言密教を学ぶ。
■ 浄土宗 法然(1133~1212) 43才唐の善導が著した「観経疏」の"一心専念弥陀名号"に触れ浄土教に目覚める。
■ 臨済宗 栄西(1141~1215) 47才の時に宋で臨済禅を学ぶ。
■ 曹洞宗 道元(1200~1253) 24才で宋に渡り、4年にわたり禅を学ぶ。
■ 浄土真宗 親鸞(1173~1262) 9才で出家。法然の門下に入り専修念仏に帰す。
■ 日蓮宗 日蓮聖人(1222~1282) 12才になって、近くの清澄山にて天台の教学を学ぶ。
http://www.web-toku.com/tisiki/sect.html
そもそも朝鮮半島は日本人中国人が自由に雑居していた土地
訳:
梁書・百済傳
その言葉は、中華諸国や秦の言葉が加わっており、韓に遣された習俗だという。
其の国は倭に近く、刺青をした者が頗る多い。
北史・新羅傳
その言語も名称も中国人に似ていた。
北史・百済傳
そこの人は新羅、高句麗、倭等が混雑しており、中国人もいる。其の国は倭に近く、身体に刺青を施す者が頗る多い。
随書・新羅傳
それ故に、そこの人々は華夏、高句麗、百済に属す人々が雑居しており、沃沮、不耐、韓、穢の地を兼ねている。
隋書・百済傳
其の人達は新羅人、高句麗人、倭人等が混雑しており、また中国人もいる。
そもそも朝鮮半島は中国領土
渡来人で一番多いのは中国人だし
日本は直接中国と交流し留学生も送っていた
軍事保護の見返りに百済が献上した中国人学者や人質や
亡国の難民難民なんか別に要らないです
何かを作り出したわけでもないくせに
日本に征服されて僅かな奴隷人質献上して難民になっただけで
恩を着せようなんてずうずうしいにも程がある
古代中国に尊敬感謝はいくらでもするが
韓国なんかには何の感謝も尊敬も無い
むしろ軽蔑嘲笑の対象だ
韓国、韓国人はストローですらありませんでした
百済が献上した中国人学者が民族の誇りですか?日中の間の歴史も学んでね。