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 総合・経済・社会 :  伊能図に竹島?
東京国立博物館所蔵の中図を原寸複製した「伊能図」(武揚堂)にある隠岐島。左上部に「桂島」という名の島が描かれている=島根県立図書館で撮影
 日韓両国間で竹島(韓国名・独島)の領有権問題がクローズアップされる中、江戸時代後期に作製された伊能忠敬(1745年―1818年)の「大日本沿海輿地(よち)全図」(伊能図)の中図と小図に、隠岐島近海に「桂島」という名の島が描かれていることが分かった。従来、同図に記載がないとされてきた現在の竹島である可能性がある半面、名称が整合性を欠くなど、謎も多く、今後の研究が待たれる。

 伊能図は経緯度観測を取り入れ、全国の実測に基づき作製された初の日本地図として知られる。

 東京国立博物館所蔵の中図を原寸複製した伊能図(武揚堂)を見ると、問題の島は隠岐島の島後から西方、島前から北方に向け、それぞれ引いた延長線が交わる辺りの日本海上に描かれ、「桂島」と記されている。

 隠岐島の測量は1806年7月5日―17日に行われたが、悪天候や体調不良で、忠敬自身は渡れず、弟子を派遣したことが測量日誌などから分かっている。だが、桂島へ渡った記録はなく、隠岐島民から聞き書きしたケースなどが考えられる。

 測量隊一行は、1600年代に米子の商人・大谷、村川両家が漁のため、竹島の西北にある鬱陵島に渡る際、ベースキャンプとした隠岐島後の福浦なども調査している。

 島根地理学会員の藤原茂氏や島根大学法文学部の舩杉力修助教授(歴史地理学)らによると、桂島の表記は伊能図のほか、日本の陸軍参謀本部が伊能図を参考に作製し、1889年に刊行した輯(しゅう)製図で確認できる。その後、民間で出版された「大日本管轄分地図・島根県管内図」や、島根県発刊の「島根県全図」にも記載がある。

「伊能図」に描かれた桂島のアップ=島根県立図書館で撮影
 今後の焦点は、桂島が現在の竹島と同じ島かどうか。実際の竹島は隠岐島の北西約160キロにあり、伊能図で、隠岐島近くに描かれた桂島とは距離に開きがある。また、江戸時代に竹島は「松島」と呼ばれており、名称の点で疑問も残る。

 一方で、隠岐島の北西の方角に該当する島は、より離れた鬱陵島を除けば、竹島以外になく、同島の存在を知っていた隠岐島民の証言を基に、伊能図に日本領土として描かれた可能性もある。

 立証された場合、伊能図に竹島の記載はないとし、江戸幕府が同島を自国領と認識してなかった証拠とする一部の主張や学説を覆すことになる。

 大日本沿海輿地全図 伊能忠敬が1800年から1816年にかけ、約3万5000キロを歩いて実測し、作製。没後の21年に完成した。大図214枚(縮尺3万6000分の1)▽中図8枚(同21万6000分の1)▽小図3枚(同43万2000分の1)―からなる。このほかにも、測量の度ごとに作製され、約400種類があったとされる。江戸幕府に提出された正本は、明治時代初期の皇居の火災で、焼失した。

('05/12/06 無断転載禁止)
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