本から伝わってくる素敵な生き方に刺激を受ける
2008 / 02 / 22 ( Fri ) 「きっこの日記」を愛読しているけれど、わたしはきっこさんが誰か知らない。でもメールでやりとりをし、励ましてもらっている。「えっ、あなたが足長おじさんだったの?」と言う日がくるかどうか楽しみにしている。まあ,足長おねえさんかもしれないが。
「きっこの日記 好き?好き?嫌い?編」を買って読もうと思っていたら、早速、きっこさんが本を送ってくれた。ありがとう。 喜んで読む。嬉しいな。 「きっこのブログ」は、政治や社会に起こることに対して、痛烈な一打を与えているという感じだけれど、本はそれに加えて、きっこさんのやさしさに満ちあふれた本である。きっこさんの怒り、何なのよ、ということが、すごいやさしさに裏打ちされていることを思う。 老人ホームに行ったときの話や子どものときの話が出てきたり。 俳句を作る人だから、とてつもなく季節感があって、言葉が豊かなところがあって、なんかブログの雰囲気とちょっと違って新鮮だ。 ぶちぎれきっことしっとりきっこと。 両方あるから素敵なのだ、きっと。 みなさん、ぜひぜひお読みください。 96歳のお医者さん日野原重明さんの書いた「いま伝えたい 大切なことーいのち・時・平和」をじっくり読んでいる。平和をこんなふうに語ることができるなんてと感動をしている。 「いのち」と自分が自分で活用できる「時間」という言葉に、いのちをこんなふうに思うことができるのだと思った。 昨日お会いして対談をした環境ジャーナリスト枝広淳子さんも「いのちは時間」とおっしゃったので、驚いた。 有限のいのちをどう自分で、大事にして生きるか。 枝広さんは、自分のピークを80歳と思って生きているとおっしゃった。 うーん。わたしは、100歳くらいをピークに考えようかなあ。 日野原さんの本を味わって読んでいる。 |
エリザベス:ゴールデン・エイジ
2008 / 02 / 20 ( Wed ) 「エリザベス:ゴールデン・エイジ」
監督シェカール・カプール、主演ケイト・ブランシェット、クライブ・オーウェン、ジェフリー・ラッシュ、アビ−・コー二ッシュ、サマンサ・モートン 前作の「エリザベス」もすごかったが、今回の「ゴールデン・エイジ」も前作を上回って面白かった。 エリザベス女王は、卓抜した政治家である。 まず、第1に、暗殺をされなかった。 何度も何度も暗殺の危機があり、ねらわれていたのに、運もあろうが、暗殺をされなかった。 第2に、みごとに危機を回避をしている。 フランシス・ウォルシンガムが忠臣として全力で支えており、彼は、500人のスパイを各国の宮廷に送って、情報を収集し、反乱や謀反や攻撃の芽をみごとに摘んでいる。 ウォルシンガムは、おそろしく有能で、エリザベスを守るために、完璧に仕事をする。そして、そういう人物を身近に置き、重用をしたというのは、エリザベスの才能である。 第3に、バージン・クィーンということを最大限利用をしている。 エリザベスは、独身である。 結婚をしないとは言わない。 いろんな人とお見合いをする。映画では、神聖ローマ帝国の皇帝の弟とみんなの前でお見合いをする場面がある。 結婚をしないとは言わない。しかし、誰とも結婚をしない。 エリザベスが結婚をすることは難しい状況も生む。 彼女が結婚をするとなると、相手はヨーロッパの王族となる。そうすると、一歩間違えると、イギリスがその国の属国になるかもしれないのである。 エリザベスの母違いの姉イングランド女王メアリー1世は、スペイン王フィリップ2世と結婚をした。既に、姉は死亡しているが、フィリップ2世は、イギリスをカトリックにしようと宗教上の情熱を持ち、支配下におこうとする。そのことが、たっぷり映画で描かれている。 誰と結婚をするかによって、イングランドが他国に支配されることになりかねないのである。 結婚をしないと明言をせず、全方位外交をしたことと、結婚をしなかったことは、彼女の政治的手腕のすごさである。判断は、恐らく正しかったのである。 第4に、戦争をするときに総力戦をとったことである。 受刑者を解放し、従軍をさせる。 そして、海賊たるウォルター・ローリーを活躍させ、イングランドの船を焼き打ち船にして、スペインの船を焼き打ちし、全滅をさせてしまう。はっきり言って乱暴であり、奇襲攻撃である。本来の勢力から言えば、イギリス船は負けるはずなのに、勝つ。 第5に、白い馬にまたがり、甲冑に身を固め、イングランド軍を鼓舞する。先頭に立つ必死の覚悟である。 エリザベスは、海軍の一員として、船に乗ることはせず、陸上にいるのだが、エリザベスが、「わたしは先頭で戦う。」ということが、イングランド軍を鼓舞したこと間違いない。 エリザベス女王というと、わたしは、ある程度強い国になった後の女王と漠然と思っていた。 しかし、前作の「エリザベス」と今回の「エリザベス ゴールデン・エイジ」で、あるときは、不安に脅え、弱い心ですすり泣く女性を見て、ほっとするなり、親近感を感じた。 彼女は、多くの困難を、卓抜した政治力と勇気と知恵で乗り切っていく。 エリザベスの統治するイギリスは、当時弱体である。 カトリックであるスペインの侵略に常に脅えている。 しかも、足元も常にゆらいでいる。イギリスは、イギリス国教会という新教だが、国内にはカトリックもたくさんいる。カトリックの側は、カトリック教徒であるスコットランド女王であるメアリー・スチュアートと組んで、エリザベス女王体制の転覆をはかろうとしている。 新教対カトリックという宗教対立、宗教の信念による戦争であり、それだけに大変シビアである。 それにしてもエリザベスはすざまじい心の悩み、痛みと緊張のもとで生きていただろう。 「千日のアン」とい映画を見たことがある。 ヘンリー8世は、目茶苦茶で、アン・ブーリンに目をつけると(大体、アン・ブーリンの姉と付き合っていたりして、目茶苦茶だけれど)、妻キャサリン (母国はスペインである)と離婚が成立しないにもかかわらず、アン・ブーリンと勝手に結婚をしてしまう。大体、カトリックは、離婚を認めないので、これまた勝手に、イギリス国教会を作ってしまう。 そして、生まれてきた子が女の子で、エリザベスであり、次の子は、男の子だけれど、死産になったりすると、急速にアン・ブーリンから、心が離れ、ジェーン・シーモアに心を引かれる。 アン・ブーリンは、不貞の罪で、ヘンリー8世により、処刑をされる。 なんとその間、わずか1000日である。 入りくんでいるし、ヘンリー8世は、途中まで名君と言われていたが、とんでもないという感じである。 イギリスの議会にいくと、ヘンリー8世とその歴代の妻たちのポートレイトが飾ってあったっけ。早く死んだり、処刑をされたり、妻たちは、とんでもない目にあっている。 それはともあれ、エリザベスにしたら、自分の父親が、母親を処刑をし、その後、彼女は長いことロンドン塔に幽閉をされる。 いつだって、殺されるかもしれないと思っていただろうし、女王になってからも不安定である。 映画のなかでも、離婚を認めないカトリックの立場からすれば、エリザベスは、婚外子となるわけで、「正当性」がないという主張が様々な形でなされ、エリザベスは、中傷を浴びつづける。 自分を保護してくれる親はとっくの昔にいない。 また、エリザベス暗殺計画の責任で、メアリー・スチュアートをエリザベスは処刑をする。これは、新教対カトリックとも言える。 処刑にあたって、恐怖に脅えるエリザベスが映画で描かれている。 スペインとの戦争だって、よくまあイングランドは勝ったと言える。 エリザベスは、つぶやく。 「この戦争に負ければ、わたしは、スペインに連れていかれ、牢獄につながれ、死ぬのだ。」と。 毎回、毎回、自分の命がかかっていて、常に死との恐怖にさらされていたと言える。 そして、もちろんエリザベス自身も「謀反者」たちを処刑をしていくのであるが。 それにしても、この戦争といい、後ほどの無敵艦隊との戦争にしても、イギリスが勝つか、スペインが勝つかで、イギリスが新教になったか、カトリックになるかが決まったわけである。もし、イギリスがカトリックになっていたら、本当に世界は今とは随分違ったものになっていただろう。 歴史は、盤石なものではなく、極めて不安定で、頼りなく、しかもこれから作られるゼリーのようなものである。 未来に向かって作られるものであり、政治の判断によって、全く変わってくるということを痛感させられる。 人生も政治もアンガージュマン(投企)であり、未来にむかって、もっと言うと一瞬一瞬今まさに作られていくものである。 エリザベスは、ただただ強く、意思的な女性ではなく、天文学者に、運勢を聞く、不安を抱えた一人の人間でもある。そして、歴史を切り開いていく。 映画「恋に落ちたシェークスピア」でもエリザベス女王は出てくる。 権力や政治は、おどろくほど生臭く、すざまじい人間の営みであるということを、これでもか、これでもかと描いているのが、シェークスピアである。わたしは、政治家になって初めて、シェークスピアのすごさを改めて思った。「マくべス」しかり「リア王」しかり。 シェークスピアは、権力の何たるかが、権力のそばにいたからこそ、本当にわかっていたのだと思う。 この映画は、エリザベスが、ローリーを好きになることも、そのローリーが、エリザベスが心を許す侍女べスとひそかに結婚し、子どもを生むときのエリザベスの苦悩も描いている。 考えてみれば、今だって、ブットさんは暗殺をされ、フィリピンやインドネシアの活動家は殺されている。ウクライナの政治家でねらわれた人もいれば、殺された元スパイだっている。 キング牧師もケネディ大統領もロバート・ケネディも暗殺をされた。 世界では、殺されるジャーナリストも活動家もあとを絶たない。 そんななかに生きている。 政治のすさまじさを思うけれど、暗殺からはいいかげん人間は足を洗うべきだ。 それでもエリザベスが統治をし、生きた時代と今は全く違ってきている。少なくとも日本の今は、少なくとも建前は、民主主義だ。多くのことが違う。政治に関わると言っても、エリザベスとわたしは、月とすっぽん以上に比較すらできないくらいだ。 しかし、わたしは、エリザベスの知恵や勇気や不安を乗り越えていく力や決断力、政治にかかわる決意みたいなものに励まされた。もちろん政治家としてのエリザベスを全面的に肯定するものではないが。 そして、エリザベスのような人ですら、すすり泣くことがあったということに、ほっとさせられた。エリザベスの苦労や葛藤や危機に比べれば、わたしの悩みは、けし粒ほどのものだ。自分のかかえている悩みが小さなものに思えて、ものすごく元気になれる。 エリザベス:ゴールデン・エイジ 2008年2月18日より上映中 |
「ラスト、コ−ション」
2008 / 02 / 19 ( Tue ) 「ラスト、コ−ション」
アン・リー監督、主演トニー・レオン、タン・ウェイ 1942年の日本占領下での上海の話。 「ラスト」というのは、欲望。そして、コ−ションというのは、警戒。「欲望と警戒」と訳したらいいのだろうか。映画の原題は、 「色、戒」。 映画のパンフレットでは、アン・リー監督は、「人生への欲望」と「社会への警戒」と述べている。 チアチ−は、父親がイギリスに行ってしまい、イギリスで再婚をした。彼女もイギリスに行こうとしてが、うまくいかず、香港で大 学生活を送っている。 大学の演劇部には、兄を日本軍によって殺されたクァンがいて、情熱的にチアチーに語る。チアチーは、演劇部にはいり、抗日の演 劇のヒロインを演ずる。会場が、熱気を帯びる。 日本に協力をする中国人リーに対する暗殺計画を演劇部のメンバーで考え、作戦を立てる。チアチ−は、マイ夫人という輸入商の妻 に化け、リー夫人に接近し、マージャン仲間となり、機会をうかがうがうまくいかない。 3年の月日が流れ、舞台は上海へ。 リーは、日本の傀儡政権の悪名高い暗殺組織の特務機関のトップとなり、逮捕、殺害、暗殺、拷問をやっている。それらのシーンは、 出てこないが、虚無的な狂気を帯びた瞳を持つ警戒心の強い男をトニー・レオンが好演をしている。 もっと大きな組織の命令を受け、チアチーたちは、りー暗殺計画を改めて立てていく。 再びリーに接近をするチアチー。 純粋さと大胆さを合わせ持つチアチ−にリーはのめりこんでいく。 「おまえ以外は全く信用できない。」「おまえだけを信用している。」と伝えるリー。 自分も暗殺をし、敵だらけのなかで、それはリーの本心だっただろう。 また、リーにのめりこんでいくチアチー。 明日をもわからない命のなかで、それぞれはお互いにのめりこんでいくが、実は2人は敵で、チアチ−は、リーの暗殺の指令が早く 出ないか、出ないか待っているのである。そうでなければ、チアチーは、恋人のふりをし続け、歪んだ関係を続けなければならない。 日本料理店に、チアチーは、リーに呼ばれる。ちょうど、リーたちの宴会はお開きなになっていて、チアチーとリーは部屋に二人で いる。日本政府に協力する傀儡政権の特務機関のトップなのに、リーはこう言う。「アメリカが参戦をした。もう負けだ。にもかかわ らず日本はいい気なものだ。調子ぱずれの歌を歌っている。」 別の部屋では、ちょうど、芸者さんたちが歌と踊りをやっていて、日本の軍人たちは飲んで、騒いでいる。 戦争中でもこんなところもあったんだという感じ。当たり前だが、すべてのところのすべての時間が、戦闘という訳ではない。 そのとき、チアチーが、リーに対して、当時はやっていた中国の歌「天涯歌女」という流行歌を歌う。節をつけ、手振りを入れて。 チアチーが歌い終わると、リーは一人で拍手をして、抱きしめる。 戦争が日本側の負けになることを予測しながら、リーは、特務機関のトップとして、レジスタンスの中国人の人たちをどんどん問答 無用で殺していく。 このシーンは、リーとチアチーの中国人としてのアイデンティティが出ている場面である。もっと言うと、アン・リー監督のアイデ ンティティが出ている場面でもある。 この二人の関係がどうなるのか、それぞれがどうなるのか最後まで息づまる展開をとげていく。 チアチーは、大学生のときは、先輩のクァンにあこがれている素朴で可憐な女子学生である。すすめられるタバコも吸うことができ ないくらいだ。 しかし、香港から上海へ。 スパイ合戦と暗殺の町、世界中の人たちが住んでいるお洒落な町、そんな町で、プロのスパイとして、生きるなかで、変わっていく。 ひどく女っぽく、プロとして覚悟を決め、決然と生きるようになる。 アン・リー監督が作った「ブロックバック・マウンティン」の映画も大好きだった。 「ラスト、コ−ション」と「ブロックバック・マウンティン」も人間の実存と心のなかを描いている映画である。 表面からではわからない人間の心の奥底の悲しみや愛情を描いている。 表面的なことでは見えないものを描いている。 人間の性愛の根源的な意味を描いている。 おぇっとくるような人間の心のマグマと生きるということを描いている。 他人にとっては、理解できないことかもしれないし、歪んだ愛としかとらえられないかもしれない。しかし真実は、他の人には見え ず、心の奥底にあるのだということを描いているように思う。 チアチーは、自分の信ずる正義に基づく使命感を持っている。 彼女にとって何よりも大切な使命のために、すべてを犠牲にする。自分のすべてのもの、生きること、命、体も顔も感情も幸せも人 を思う気持ちも。人生すべてを使命のために使っていく。 個人の使命と組織の論理とそして、実存と。 自分の内面も体も含めて全部さらけ出すようにしか生きられない状況のなかで、精一杯生きようとする。 チアチーもリーも自分以外は信ずることができない状況にいる。常にまわりを伺い、極度の警戒心を持って生きている。リラックス などしない。リーの妻は、毎日、金持ちの女性たちと家でマージャンをし、おいしい中華料理を食べ、談笑をしている。指には、大き な指輪。これが、戦争の中国人の姿なのと驚いた。当たり前だが、日本に協力する中国人がいたからこそ、そういう中国人を作ったか らこそ、戦争だとも言える。リーは、当たり前だが、妻に何も話さず、家ではひきこもっているだけだ。リーもチアチーも常に死と隣 合わせである。いつ自分が殺されるかわからない。 そんな息づまるような状況で、相手にのめりこんでいくのである。 過激なベッドシーンが話題になっているけれど、なぜ二人がのめりこんでいくのかを説得力を持って描くためには、ベッドシーンは 必要だったのではないか。もちろん商業的なものもあっただろうが。 人間ののっぴきならない内面や実存を描くのに必要だったのである。 人間は、それほど論理的でも完璧でもない。 限られた時代状況で、おかしな人生を送るのである。 アン・リー監督は、なぜ「売国奴」とも言えるリー、中国人でありながら、傀儡政権のもとで、同国人を殺していくリーを主人公に したのだろうか。 りーも時代状況のなかで、歪んでいく人生を生きる。 誰も信用せず、誰からも信用をされない信じられないくらい孤独で、凄惨な人生。彼が、彼が思うところの「可憐」な女性をひたす ら愛し、指輪をプレゼントしようとする。 「愛」を求めるが、その相手こそは、自分を殺そうと計画をし、接近をしてきた相手なのである。 人間の奥底は、寂しいのであると言っても映画の感想からは遠のくような気がする。 しかし、どうしようもない人間の存在の奥には、他の人には、決して見えない「愛」があり、また、実存があるのである。 「ブロックバック・マウンティン」は、政治や社会的なものを一切排除して、二人のゲイにとっての理想郷である山の風景と二人の 心を描いていた。 今回の「ラスト、コ−ション」は、時代と政治も描いている。 その分、「恋愛」映画の純粋さは薄くなったようにも一見感じられる。しかし、時代状況と使命感と実存を描き、使命感のためにす べてをコントロールし、捨てていく女を描いて、逆にわたしは切ないなあと思った。 両方の映画とも表面的には人に見えない人間の実存と愛を描いている。 一見特殊とも言えるが、実は普遍的な人間にとって生きるとは何か、心の奥底に正直に生きるとは何か、実存と生存と愛と性愛を描 いている。人間は、現実の生活では制約だらけである。何かの役割、使命を持ち、日常生活に追われ、果たすべき役割がある。 にもかかわらず人間としての根本を持ち、苦しみ、愛し、また、時代を生きようとする。「生きるとは一体なんなのか?」というこ とをアン・リー監督は、題材を変えて、あくなき追求をしているように思える。 アン・リー監督からは眼を離せない。 そして、わたしは、この「ラスト、コ−ション」を見て、「愛の嵐」を思い出した。ナチ・ユダヤの男性とユダヤの少女の愛を描い た映画である。 少女は、大人の女性になり、二人は再会をする。シャーロット・ランプリングが、精神のかたまりのような女性を演じていた。 考えてみたら、「愛の嵐」も「ラスト、コ−ション」も当時の権力者の側を男性が演じ、弾圧される側を女性が演じている。 「ナチスの女性」と「ユダヤの男性」という組み合わせも「日本の女性」と「中国の男性」という組み合わせもあんまり見たことが ない。 「24時間の情事」と「愛人」は、いずれもマリグリット・デュラスの作品で、映画化されているが、これらは、アジアの男性とフ ランスの女性の組み合わせだが、戦争のもとでの話ではない。 最近見た「サラエボの花」も侵略者は男性であり、強姦されるのは、女性の側である。 「愛の嵐」も名作もしれないけれど、わたしは、この「ラスト、コ−ション」に進化を見る。 「愛の嵐」は、ユダヤの少女は、当初全くの受身である。この「ラスト、コ−ション」は、まだ少女の面影を持つ女性の側が、仕掛 けていくものである。アン・リー監督が、映画のパンフレットでも述べているとおり、女性の視点から描いている。 その意味では、月日が流れ、様々な映画は、やはりフェミニズムを通過しているのである。 http://www.wisepolicy.com/lust_caution/ 2008年2月2日より上映中 |
栃木県へ行きました
2008 / 02 / 16 ( Sat ) 2月16日(土)
今日は、栃木の社民党へ。 講演会をし、その後レセプション。 中国人の研修生の問題について、全統一の中島さんが、当事者の中国人の人と報告。社民党の栃木県連合はこの問題を支援をしてきた。技能訓練、研修生となると労働法制が適用されないなど大問題が起きる。15人は、年間365日!早朝5時から夜9時まで働かされてきた。 今回、問題が解決し、中国に帰国することになった。 宇都宮駅前の写真です 「私の体を抱いて」(朝日文庫)を読み始める。 朝日新聞の「ニッポン人脈記」に連載をされていたもの。 第1章「ブラックジャックたち」に出てくる神の手を持つ医師福島孝徳さんも第2章「ありのまま 生きて」に出てくる目が見えず、耳が聞こえない福島智さんも別の機会にお会いすることがあったので、この連載がされているときとは、また違う感慨で読んだ。 連載のときも毎日、いろんな人の人生に感動をしていたのだけれど、まとまって読んでみると、「いのちの輝き」ということに収斂するようにも思える。 政治の世界にいると、世の中ひどい、政治はひどいと怒ることが多くなってしまうけれど、人間は捨てたものではなく、一人ひとりのいのちが輝いていて、それぞれの素晴らしいいのち、人生があることを等身大で実感できる本。 わたしは、障害者自立支援法反対の運動をはじめ、いろんなところで会った障害者の人たちに、逆に励ましてもらったり、眼を見開かされした。生井久美子記者が、障害者自立支援法案審議のときに書いていた記事にもずいぶん触発されて、国会質問をしたけれど、人物に着目したこのシリーズでは、それぞれの人間性にわたしも惚れ込んでしまうような感じだった。肉声を感じて、読んで励まされる。 |
プラダを着た悪魔
2008 / 02 / 12 ( Tue ) 「プラダを着た悪魔」
デビィッド・フランクル監督、主演メリル・ストリープ、アン・ハサウエイ、アメリカ、2006年 ファッション雑誌「ヴォ−グ」のカリスマ編集長アナ・ウィンタ−がモデルと言われているが、すご腕の編集長ミランダをメリル・ストリープが、これまた快演。 カリスマ編集長と彼女の第2秘書に就職する若い女性アンディ(アン・ハサウェイ)の2人の働く女の話である。 秘書は、歴代の秘書の名前をとって、エミリーと呼ばれたりする。なんと言ってもミランダの人使いが荒く、みんな続かないのである。 アンディは、実は、ジャーナリスト志望。 大学時代に賞をとったりした、優秀な女性。 しかし、お洒落には全く興味がない。 このお洒落な雑誌に就職しようとしたのも、ここで、少し修行をして、ステップアップしようと考えたからである。 「頭のいい子」を採用してみようというミランダの気まぐれで、彼女は第2秘書に採用される。 ださださのブルーのセーターを着て、ださださのスカートをはいて、どた靴をはいていたファッションに一切興味のなかった女性が、ピンヒールで、大理石の上を歩き、洒落た格好で働く人たちのなかで、実はどんどん変わっていく。 ファッションがなんたって素敵。 服と靴と帽子とバックとアクセサリーと。 職場の人のアドバイスでみるみる変わっていくので、それは、オードリー・へップバーンの「マイフェアレディー」かジュリア・ロバーツの「プリティー・ウーマン」みたいな感じだ。 信じられないくらいダサイ女の子が、お洒落になっていく。 そして、わたしは、この映画を働く女の映画と見た。 若い女性とベテランのトップの女性。 世代と境遇を全く異にする2人の女。 でも、若い頃のわたしは、アンディに共感をしただろうけれど、今は、自分とミランダと自分をどこか重ね合わせて見ている。 一人の女の人生の若いときとベテランのときの両方を描いているとも言える。 「ワーキング・ガール」という映画があった。 ノン・キャリアのガムジャラにがんばる女性(メラニ−・グリフィス)と上司のキャリアウーマン(シガニー・ウッバー)を描いている。職場のなかのセクシュアルハラスメントも描かれている。 上司がスキー事故で入院中に彼女の留守を守っているうちに、上司のポジションで仕事をするようになり、そして、上司の恋人(ハリソン・フォード)とも恋愛に陥ってしまう。 この映画は、ガムジャラにがんばる女性がとってもかわいくて、また、セクシュアル・ハラスメントをうまくエピソードとして、まぶしたりして、面白い映画だった。何と言っても、職場が舞台で、女が働くことを真正面からとりあげた映画は、意外と少ないから。 しかし、この「ワーキング・ガール」は、女の対立と男という3角関係を描いているものであり、上司は実はさしみのつまだったのである。 構図としては、若いノン・キャリアのガムジャラにがんばるかわいい女とキャリアだけど、冷たくて、魅力のない女は、対立の構造で描かれていた。現に、グラマーな女対ガリガリのシガニー・ウッパーという構図だった。 わたしは、もちろん若い女性のほうに感情移入して、映画を見ていた。ガンバレ!って。 この「ワーキング・ガール」では、仕事の勝利者が、恋愛の勝利者にもなった。 わたしは、「プラダを着た悪魔」の映画を見ながら、「ワーキング・ガール」と比較し、働く女性の描き方の進化を思った。 2人の女は、対立をさせられているわけではない。 そして、わたしが思ったのは、上司の女性の描き方である。 彼女は、とにかくすご腕で、彼女の一挙手一投足にみんなピリピリしている。パリコレクションでは、彼女が登場をすると人垣ができ、カメラのフラッシュがたかれる。雑誌作りの編集会議では、びしびしと意見を言い、みんなそれに耳を傾ける。 「泣く子も黙る」というか、恐ろしいというか。 そして、秘書に対しては無理難題を言う。 小さな双子の子どものために、ハリー・ポーターのじ次作を持って来てなんて秘書に言うのである。 まあ、このあたりは、戯画化されているのだが。 アンディは、知り合ったプレイボーイのジャーナリストに連絡をして、彼に頼む。結局、彼は、知りあいの装丁家から、本になる前のゲラを手に入れ、アンディに渡してくれる。 わたしの心に迫ってきたのは、ミランダの私生活のほうである。 会社では、トップの彼女も小さな双子の子どもの母親である。 フロリダに出張で行ったとき、大嵐になり、ニューヨークに帰る飛行機が欠航になる。さてさて、明日は、子どものピアノの発表会。何としても今日中に、ニューヨークに帰りたいミランダ。秘書に電話をして、「飛行機を何とかして!」と無理難題を言う。「軍用機でも出してもらうか。」という冗談が出るくらい。 部屋で、「何とかして!」と叫ぶミランダ。 わたしは子どもが小さいときは、極力地方に泊まらなかった。泊まらなくてすむようにスケジュールを組んだ。泊まらなければならないスケジュールは、実は断った。あらかじめわかっている海外旅行などは、別にして、夜遅く帰っても、せめて朝、子どもと話ができるようにしてきた。 あれは富山空港だったか、来るべき飛行機が悪天候のため来ず、予定どおり飛行機が飛ばないということになった。空港で、ひとりであちこちに電話をしまっくって、鉄道ではどうか、ほかの手段ではないか、必死にやったことを思い出した。「飛行機よ、飛んでくれ!」という感じだった。 結局、そのときは、最終便が、何とか飛んで、その最終便への振り替えに何とか成功をして、わたしはその日に帰ることができた。そんなときのジリジリした焼き切れるような感情!飛行機に乗れば、そんなこともまた全部忘れてしまうが。 子どもを持つ働く女は、多かれ少なかれそんな経験をして、そんな神経が焼き切れるような思いを味わってきたのではないか。 やり手の男の人は、仕事に打ち込んで、家庭を省みなくても、そのことを社会的に批判されたりしないだろうけれど。 それは、まだまだ大きな違いではないだろうか。 アンディが、書類をミランダの自宅に届けたときに、ミランダと夫の口論を聞いてしまう。夫は、レストランで、長い間、待ちぼうけを食らわせられたことについて、「みっともなかった。」という感じで、ミランダに文句を言う。「携帯の電波が届かないところにいたのよ。」と弁解をするミランダ。 会社ではトップでカリスマ性を持ち、威厳を持つ彼女が、家のなかでは、夫に気を使い、下手に出ている。「ごめんなさい。」と。 初めて行ったパリのコレクションの日々、アンディは、ホテルの部屋で、涙を流すミランダを見る。 ぐったりとソファーに座り、全くのすっぴんで、疲れて、悲しそうなミランダ。「強い女」ではない。 夫と離婚になったのである。 何度目かの離婚で、ミランダは言う。 「マスコミは、書き立てるわ。『雪の女王(スノー・クイーン)』、夫を追い出すと。わたしはいい。しかし、子どもがかわいそう。」と涙を流す。 公私の間のアンバランス。 アンディの方も仕事が忙しがすぎて、また、華やかで、バブリ−なファッションの世界で働くようになって、同居していた彼氏との間で危機を迎える。 「私生活が危機ということは、もうすぐビジネスで成功をすることだ。」と慰めてくれる会社の男性上司。 わたしの友人で、彼氏が、部屋で、料理を作り、おいしいワインをきりりと冷やし、待っていてくれていたにもかかわらず、「もうちょっとで書面が書き終わる。あっ、もうちょっとで書面が書き終わるとずっーと待ちぼうけを食らわせ、別れてしまった人がいたっけ。優しい彼氏 もついに堪忍袋の緒が切れたという感じになったのだろう。 うーん。働く女は、難しい。 男だって、難しいけれど、公私の関係は、やっぱりまだまだ女性のほうが、難しいだろう。女性は、家庭を大事にして当たり前、男性は、家庭を大事にする人は、本当に素晴らしいとなるわけで、なんか挙証責任が転換をしている感じだ。当たり前が違う。 アンディは、結局、初志貫徹で、ジャーナリストになる。 すると、あらら、ファッションで、黒のパンツルックで、上から見ても下から見ても、行動をする記者という感じで、質素になる。 不意にやめてしまったアンディに対して、ミランダは再就職先に推薦状を書く。 これは、やっぱりシスターフード。 女がやっぱり女を応援をするのである。 映画を見ながら、「デブラ・ウィンガ−をさがして」と言う映画を思い出した。 数多くの女優さんにインタビューをして、働く苦労や年をとっていくこと、映画づくりのときの扱われ方について聞いていくのである。 長くロケにはいるときに、子どもが泣きじゃくるって悲しかったという話には胸が痛くなったし、ヌードシーンやベッドシーンの撮影のときには、日頃は来ない映画会社のお偉いさんがなぜか撮影現場に来るという話、ダイエットを迫られるとか、年をとると役柄が限定される悩みなど、みんながあけすけに、率直に語っていく。 女優という特殊な職業だけれど、やはり働く生きる女たちの話で、身につまされる部分がある。 メリル・ストリープの映画は、ほとんど見てきた。 いろんな役柄を実にいろいろ演じている。 メリル・ストリープは、不滅であるという気になる。 それで、「デブラ・ウィンガ−をさがして」の映画と合わせて勝手に言うと、「若さ」と「美しさ」を売りにしている女優は、年をとるにつれ、シビアになり、そうではなく演技や存在感や別のものも持っている女優は、年をとっても、いろんな役を演じられると。 「輝ける女たち」のカトリーヌ・ドヌ−ブは、堂々たる素敵なマダムぶりだった。 「恋愛適齢期」などの大好きなダイアン・キートンは、ずっーとキュートでかわいくて、年をとってもかわいいということを感じさせてくれる。 かっこよかったジェーン・フォンダは、もちろん若いときは、美貌で売ったけれど、映画への愛情を持ち続け、年を重ねても、やはりかっこいい。 「エリザベス」などで、抜群の演技力を誇るケイト・ブランシェットは、ポストメリル・ストリープか。 年をとっていくことが、恐くなくなる。 アンチ・エイジングということが言われるし、間違いなく高齢社会である。 年齢を重ねてかっこいい男の人は一杯いるし、「色男、金と力はなかりけり」ではないけれど、年を重ねるにつれ、別のものを確実に得ていく男の人たちはいるる。経験も知恵も知識も年を重ねてこそである。 そして、女性たちも「若くて、美しくて、経験がない」と いうことだけではない何かをためていき、それが魅力にもなっていく時代にもなっている。 「プラダを着た悪魔」は、いろんなことが戯画化されている楽しい映画でもあるけれど、「働く女は、根性入れて、とことんがんばれ!」という映画である。 |
サラエボの花
2008 / 01 / 30 ( Wed ) 「サラエボの花」
ヤスミラ・ジュバ二ッチ監督、主演ミリャナ・カラノヴィッチ、ルナ・ミヨヴィッチ2006年 シングルマザーのエスマは、12歳の娘サラと2人暮らしである。洋裁の仕事などをしながら、必死に暮らしている。 生活のために、独り者だといって、夜、バーで働き始める。といっても給仕をしたりする仕事なのだが、ホステス(?)がお客と乱痴気騒ぎをしたりすると、控え室にこもって、泣いてしまう。 活発で、ボーイッシュで、サーカーで男の子と張り合うサラ(なんといっても舞台になっているのは、オシム監督の故郷である)は、今、今度みんなと一緒に行く修学旅行を楽しみにしている。 戦死したシャヒ−ド(殉教者)の子どもは、修学旅行の費用が免除される。 暮らしが楽ではなく、おかあさんが、昼も夜も仕事をかけもちしながら必死で働いているのを見ているサラ。エスマは、お金がはいって、魚を買うにしても一匹しか買わず、というか買えず、娘に食べさせるのだもの。自分は、ポテトだけ。 母親が必死で働いているのを知っているために、サラは、修学旅行の免除のための書類を母に出してくれと何度も言う。しかし、母は、「裁判所で書類をもらうのが大変なのよ。」と言って手続きをしようとしない。 父親のことを母に聞くサラ。 「わたしは似てる?」と聞くが、母は、「髪の毛かな。」というくらいである。 父親を亡くしている同級生の男の子は、サラに、「父親はざんごうから出ていくのを拒否して、敵に殺された殉教者だ。」と言う。「君のおとうさんの最期は?」 サラは、「知らない。」と答える。 サラは、何も聞かされていないのだ。 おかしいなあと思い始めるサラ。 あるとき、サラは、母につめよる。 母は、どうしてあなたを妊娠したかを初めて娘に語る。すざまじい形相で。 「子どもは欲しくなかった。しかし、あなたが生まれてきて、どんなに赤ん坊が美しいものかと思ったの。」と。 戦争と暴力、戦争と女性への暴力、人々の人生を壊してしまうこと。 しかし、命は生まれ、命ははぐくまれ、人は傷ついた心をかかえながらも生きていく。 誕生した命をかかえて、偏見のなかで、ひとりで子どもを育ててきたのだ。 トラウマをかかえ、薬をのみながら、必死で生きていくしかない。男性が近づいたくると恐怖を感ずる 疲れた表情で、疲れた足どりで歩くエルマ。 修学旅行に行くためのお金が足りない。 靴の工場で働く女ともだちが、エルマのために、働く女たちの間を回って、カンパを集めまわる、必死で。 くしゃくしゃになったお金が、集まる。それを見て無き笑いになってしまうエルマ。 シスターフードや女の連帯が描かれている。 この映画は、また、母と娘の映画でもある。 喧嘩をしたり、いさかいをしたり、じゃれあったり、ふざけたり・・・・。 意外と娘は、母親の人生を知らない。 目の前にいる母親としか見ていない面もある。 また、母親も語れないこともあるだろう。 戦争シーンも何もない映画。 しかし、戦争の持つ意味が、戦後に出てきたいることをきちんと丁寧に描いている。 いわゆる従軍慰安婦とされた宋神道さんは、中国で子どもを生んで、手放している。 外国人の子どもや婚外子を生んだいろんな女性に子どもを生んだときの話を聞いたっけ。 わたしが、子どもを生んだときのことも思い出した。 すべての子どもが、祝福されるようにと本当に思った。 |
ホワイトオランダ−
2008 / 01 / 07 ( Mon ) 「ホワイトオランダ−」
監督ピーター・コズミスキー 出演ミシェル・ファイファー、レニー・ゼルヴィガ−、アリソン・ローマン 美しく、カリスマ性を持つ有名なアーティストイングリットと娘アストリッドの物語。 イングリッドは、有名な素晴らしいアーティスト。ミシェル・ファイファーが、美しく、強い、意志的な女性を好演をしている。 イングリッドは、彼女を捨てようとした恋人を殺したことで、逮捕され、刑務所に行ってしまう。 里親のところを転々とせざるを得ないアストリッド。 里親との関係で、様々な苦労をしていく。 実は、イングリッドは、アストリッドが生まれたときに、予期しない妊娠だったこともあり、人にまかせて、つまりある意味赤ん坊を捨てて、断性との暮らしを選択していた。戻ってきたママ。 刑務所に面会に行くアストリッドに対して、ママであるイングリッドは、干渉し、「支配」をしようとする。 「強く生きるのよ。」とママは言う。 「わたしたちは、バイキングの子孫なのだから、強く生きるのよ。」ともママは娘に言ってきた。 この言葉は、きれいなアストリッドに嫉妬した里親の女性に肩を銃で撃たれて、倒れるアストリッドの耳で彼女を死なせず、励ますことになる。 しかし、このママはすごい。 支配欲がすごいのだ。 裕福だが、夫がメディアで働いていて、撮影などで何ヶ月も家をあけるため、寂しいと感じている女性が里親の家で、娘が面倒をみてもらうことになったことがある。 夫はとてつもなく不在がちで、ロケ先に妻がくることは嫌がる。夫が浮気をしているのではないかと疑っているレニー。彼女は、寂しくてたまらない。 やさしい彼女にアストレッドはかわいがられる。 子どもに恵まれなかった彼女は、アストリッドをとてもかわいがる。 レニーが好演をしている。 海辺を2人で走る。 レニーがアストリッドに聞く。 「人生で一番幸せだったのはいつ?} レストランで、くつろいでアストレッドは答える。 「今日」 アストレッドとレニーは、刑務所にいるイングリッドに会いに行く。 母と里親は、話をする。 そして、母と娘も話をする。 「あんな不幸せな女のいうことをなぜ聞くの」ということを娘に話す母親。 落ち込んだりするレニーは、夫に離婚を言い渡され、夫は家を出ていってしまう。 泣いているレニーを慰めるアストりッド。 しかし、アストリッドが朝起きると、レニーは毒を飲んで死んでいた。 荒れるアストリッド。 母親がレニーに言った言葉が、レニーを結局は追いやったと思う娘。母親が何を言ったかわからないけれど、ピストルで殺すように、言葉で殺したんだと確信をする娘。 娘は、反発し、ヤンキーな女の子になる。 今度は、面会に来た娘の格好に、「そんな格好嫌い」という母。 最後は、娘を解放をしてくれる母。 ようやく和解が訪れる。 ママは、多元的な価値を認めない。幸せにはいろんな形があることがわからない。しかも支配的だ。 「こんな支配的な母親は嫌いだ。」そう家で怒鳴ると娘は言う。 「最後は和解したんだからいいじゃない。」 「ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密」もそうだけど支配的なママと娘の話は最近、アメリカの映画では多い。 支配的なママは、実は問題を抱えたり、弱さを持っている。 ある意味フェミニズム映画である。母と娘のシスターフードが最後はできるという映画でもある。 |
ライラの冒険
2008 / 01 / 06 ( Sun ) 1月5日(土)
映画「ライラの冒険」の原作である「黄金の羅針盤」(フィリップ・プルマン著、新潮社刊)を読み始める。ファンタジー。 今年3月からロードショーなので、どきどきしている。 ライラは、12歳の女の子。自由奔放で元気な女の子である。 今のこの世界とは全く違う世界。みんな自分の守護神を持っており、その守護神は、くっついてくる。子どもの守護神は、変わる。子どもの性格が変わるように。 お正月、インターネットで、ライラのホームページに「あなたの守護神は何か」という占いのようなものがあり、わたしの守護神は、あらい熊だった。ふーん。 今年は、確か、宮崎駿監督の作品も公開予定ではなかったっけ。それも本当に楽しみだ。 |
それでもボクはやってない
2008 / 01 / 04 ( Fri ) 周防監督と対談をしたときに、「映画を見終わった後、重い気持ちで映画館を出て欲しいと思った。」という意味のことをおっしゃっていた。
その通り。この映画を見ることは、とてもしんどかった。 息づまるというか、考えてしまうというか。どうしたらいいかと重い宿題をいくつももらったような。 真正面で勝負をして、しかもあきさせず、完成度の高いすごい映画。 役所広司さん演ずるすご腕の弁護士によっても無罪とならないのか・・・・・・・。 がっくりである。 不条理に巻き込まれ、もがいてももがいても出口が見えず、汚名を着せられ、様々なものを失ってしまう被告人の苦しみも胸に迫る。 日本の裁判ってこうなんだということに改めて驚いた人も多いのではないだろうか。 99.9パーセントというあまりに高い有罪率。 起訴をされれば、ほとんど有罪となってしまう。 わたしは、「今まで無罪判決を出したことがありますか?」と年配の裁判官たちにに聞いたところ、裁判官たちに、「長い裁判官のキャリアで1度も無罪判決を出したことがない。」と言われたっけ。 否認事件の無罪率は、3パーセント。 「疑わしきは被告人の利益に」が刑事裁判の鉄則である。しかし、実際そうだろうか。 この映画は、ちかん冤罪に巻き込まれた青年の絶望的にも思えるようながんばりと出口のなさ、途方のくれ方、まわりの援助、取り調べをはじめなかなかわからない手続き、巻き込まれた不条理を実に正確に全くリアルに描いている。 代用監獄も弁護士も検察官も裁判官が交替しただけで、法廷のあり方も裁判の見方も全く変わってしまうことも、おためごかしの判決を書く裁判官も、証言をする人たちも、家族も痛いくらいリアルだ。 最後の判決のところで、ぐたぐたわけのわからない理論を展開し、疑わしきは被告人の不利益にしっかりしてしまう慇懃無礼な裁判官に、「こんな裁判官っているよね。」って、弁護士たちと怒りの映画鑑賞となった。 いったん被疑者、被告人となる思い込まれるとそれを払拭することが並大抵ではない。 ちょうどこの映画が公開される直前に、富山県の強姦事件で服役し、既に出所した人のケースが、真犯人が出てきて、無罪であることが明らかとなったことが、報道をされた。 何ということ。 真犯人が出てくるまで、この人は冤罪であることをただ一人胸におさめて生きてきたのである。 そう言えば、ヨーロッパ評議会で、死刑廃止のことで、呼ばれたことがあった。死刑台から生還をした免田栄さんも一緒であった。 EUに加盟するためには、死刑を廃止しなければならない。 そこで、あるアメリカ人に会った。彼は、死刑囚であったが、DNA鑑定の結果、無実であることが明らかになったのである。DNA鑑定がなければ、彼は、死刑を執行されたのである。 昨年、日本の鹿児島の志布志事件も無罪となった。 早い段階から県会議員にアリバイがあることが明らかであったのに、無視されたのである。 取り調べの問題も指摘をされた。 2007年はまさに「それぼく」の年であったのである。 もうじき裁判員制度が始まる。 いろんな啓発ビデオが作られている。 法務省のビデオは有罪、弁護士会は無罪、最高裁判所は執行猶予が結論になるビデオを作っている。 裁判員制度が始まるとしたら、「それぼく」のこの映画こそ見られるべきである。 捜査がどうなされるのか、調書がどうとられるか、証人との関係、冤罪の問題、裁判の関係などを考えることになると思う。 この「それぼく」は、拷問禁止委員会において、昨年、日本政府の報告書が審理をされるときに、ジュネーブの国連ビルの近くで、上映をされ、拷問禁止委員会の委員も見に来たものである。 日本政府に対して、きちんとした勧告が出たが、この映画も大いに貢献をしたのではないか。 日本の刑事裁判の問題点をひとりでも多くの人が考えれば、刑事裁判は変わっていくだろう。 一人でも多くの人に見て欲しい。 「Shall we dance?」は、ビリー・ワイルダー監督映画のような、楽しいエンターティメントであった。アメリカのリメイク版は、日米文化比較みたいで面白かった。 この「それぼく」も別の意味で、エンタ−ティメントである。 周防監督、次作も楽しみにしています! |
サラエボの花
2007 / 12 / 30 ( Sun ) サラエボの花
ヤスミラ・ジュバ二ッチ監督、主演ミリャナ・カラノヴィッチ、ルナ・ミヨヴィッチ2006年 シングルマザーのエスマは、12歳の娘サラと2人暮らしである。洋裁の仕事などをしながら、必死に暮らしている。 生活のために、独り者だといって、夜、バーで働き始める。といっても給仕をしたりする仕事なのだが、ホステス(?)がお客と乱痴気騒ぎをしたりすると、控え室にこもって、泣いてしまう。 活発で、ボーイッシュで、サーカーで男の子と張り合うサラ(なんといっても舞台になっているのは、オシム監督の故郷である)は、今、今度みんなと一緒に行く修学旅行を楽しみにしている。 戦死したシャヒ−ド(殉教者)の子どもは、修学旅行の費用が免除される。 暮らしが楽ではなく、おかあさんが、昼も夜も仕事をかけもちしながら必死で働いているのを見ているサラ。エスマは、お金がはいって、魚を買うにしても一匹しか買わず、というか買えず、娘に食べさせるのだもの。自分は、ポテトだけ。 母親が必死で働いているのを知っているために、サラは、修学旅行の免除のための書類を母に出してくれと何度も言う。しかし、母は、「裁判所で書類をもらうのが大変なのよ。」と言って手続きをしようとしない。 父親のことを母に聞くサラ。 「わたしは似てる?」と聞くが、母は、「髪の毛かな。」というくらいである。 父親を亡くしている同級生の男の子は、サラに、「父親はざんごうから出ていくのを拒否して、敵に殺された殉教者だ。」と言う。「君のおとうさんの最期は?」 サラは、「知らない。」と答える。 サラは、何も聞かされていないのだ。 おかしいなあと思い始めるサラ。 あるとき、サラは、母につめよる。 母は、どうしてあなたを妊娠したかを初めて娘に語る。すざまじい形相で。 「子どもは欲しくなかった。しかし、あなたが生まれてきて、どんなに赤ん坊が美しいものかと思ったの。」と。 戦争と暴力、戦争と女性への暴力、人々の人生を壊してしまうこと。 しかし、命は生まれ、命ははぐくまれ、人は傷ついた心をかかえながらも生きていく。 誕生した命をかかえて、偏見のなかで、ひとりで子どもを育ててきたのだ。 トラウマをかかえ、薬をのみながら、必死で生きていくしかない。男性が近づいたくると恐怖を感ずる 疲れた表情で、疲れた足どりで歩くエルマ。 修学旅行に行くためのお金が足りない。 靴の工場で働く女ともだちが、エルマのために、働く女たちの間を回って、カンパを集めまわる、必死で。 くしゃくしゃになったお金が、集まる。それを見て無き笑いになってしまうエルマ。 シスターフードや女の連帯が描かれている。 この映画は、また、母と娘の映画でもある。 喧嘩をしたり、いさかいをしたり、じゃれあったり、ふざけたり・・・・。 意外と娘は、母親の人生を知らない。 目の前にいる母親としか見ていない面もある。 また、母親も語れないこともあるだろう。 戦争シーンも何もない映画。 しかし、戦争の持つ意味が、戦後に出てきたいることをきちんと丁寧に描いている。 いわゆる従軍慰安婦とされた宋神道さんは、中国で子どもを生んで、手放している。 外国人の子どもや婚外子を生んだいろんな女性に子どもを生んだときの話を聞いたっけ。 わたしが、子どもを生んだときのことも思い出した。 すべての子どもが、祝福されるようにと本当に思った。 |
東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜
2007 / 10 / 28 ( Sun ) 主演、オダギリジョー、樹木希林、内田也哉子、小林薫など。
樹木希林さんも、内田也哉子さんも小林薫さんも実にうまい。オダギリジョーも瓢叉として、根無し草的なところや優しいところを好演しているが、やっぱりきききりんさんや内田さんや小林さんがうまい。どうしようもないだめ男で、優しい男を小林薫さんが演じている。 オカンの若い頃を演じる女優さんが、やたらめったら樹木希林さんに似ているなあと思っていたら、なんと内田也哉子さん。似ているのも当然だし、しっかり者でもあり、子どももかわいがり、どこかユーモラスで、明るいオカンを良く演じている。 主人公が、あまりにマザコンではないかとも思ったが、わたしもマザコンなので、「オカン」「オカン」というのが良くわかる。 ところで、東京タワーって、「3丁目の夕日」もそうだったけれど、最近の映画で良く出てくるなあ。 そして、町並みやリヤカーなど実になつかしい。 りリー・フランキーさんは、福岡で、わたしは、宮崎だから、ちょっと違うところもあるけれど、九州から東京に出てきてとまどいや夢やお母さんっ子というところなど、共通項もあって、現代と昔が交錯して出てくる感じとかなつかしいような、笑っちゃうような感じであった。 ガンになったオカンについての物語でもある。 オカンは、離婚をしたか別居している小林薫が、入院中にお見舞いくると聞いて、髪をきれいにしてもらって、かつて夫にもらった指輪をしている。こんなところが実にかわいい。別れてもやっぱり好きなのだ。 作家の女性に聞いたけれど、元夫がガンになって闘病生活の結果亡くなったけれど、看病を一生懸命したそうである。わたしは、思わず、「えっ、離婚したのに?」と思わず聞いてしまった。 離婚したかどうか関係なくその人の最後をとにかく見守り、看病し、面倒を見たのである。 毎日新聞に抱腹絶倒の「毎日かあさん」のマンガを書いている西原理恵子さんも元夫の看病を亡くなるまでしたというのを何かで読んだことがある。 最後に、別れた夫がやってくるというのもいいなあと思った。 このオカンは、子煩悩で、夫と別れた後、飲食店で一生懸命働いたり、無理して仕送りをし、退学をするかもという電話をもらうと狼狽をしたりする。 ユーモラスで、楽しくて、夫と別れた後、子連れで男の人とデートしたりして、なかなか魅力的で、笑ってしまう場面も多かった。 女の人の一生の物語とみてもなかなか面白かった。 わたしの両親は、健在だから、親孝行をしなくっちゃ。 また、年上の友人たちも大事にしようっととも思った。 |
「働きマン」安野モヨコ作
2007 / 10 / 25 ( Thu ) 「働きマン」安野モヨコ作
出版社に勤務する松方弘子は、しゃきとした働きものの女性。彼氏はいるけれど、雑誌の企画、原稿書きなど猛烈に働いている。 働くことはやりがいがあるけれど、しんどい。職場のいろんな人と喧嘩や葛藤や衝突をしつつ突き進んで仕事をする様子をリアルに描いている。 面白い。テレビでドラマ化されたけれど、娘がマンガ4巻を持っていて、「面白いよ。」と言っていたので、借りて読んだ。 この間、やはり安野モヨコさん原作の「さくらん」の映画を見たけれど、「さくらん」も「働きマン」も女性が必死で働く話である。「さくらん」は、江戸時代の吉原の花魁になる女性の話であり、「働きマン」は、今の時代の雑誌を作る女性の話であるけれど、つべこべ言わず、まっしぐらに働くところは共通している。 うーん、こんなマンガが出てきたかという感じである。 働くということは、空気を吸うみたいにあったり前のことである。 でも女性がこんなに働くということを描いたものはなかったような。 女性雑誌は、大好きで、よく買うし、よく読むけれど、日経ウーマンなどを除いて、多くの女性雑誌には、ずこんと抜けているものがある。それは、仕事とお金である。通勤するときの着まわしと言った特集はあるけれど、仕事をするというきびしさや大変さやいろんな年齢、いろんな性格、いろんなバックグランドをかかえた様々な人が働いているという職場の大変さは、どこか抜け落ちている。 そこをみごとに描いている。 ああ、こういう人いるよねという感じがきっと読者はするだろう。 人間関係のしんどさや大変さや「何とかしてよね。」という感じが、本当にリアルで、笑ってしまう。 恋愛ももちろん描かれているけれど、たとえば「NANA」の中心テーマが、なんたって恋愛であるのとは全く好対照である。 ああ、恋愛がマンガの中心、メインテーマでない女性マンガの登場という感じである。 恋愛も大事だけれど、今働いている多くの女性は、なんたって、生活の中心は、仕事ではないだろうか。 ぼんやりとしていたら、仕事などできはしない。 仕事は辛い。でも仕事は面白い。 そんなリアルな日常のぶつかりとあふれるような思いがすがすがしい。 それにしても「働きマンのスイッチ」がはいらなくても「働きマン」で働いているなあ、わたしもわたしの秘書たちも。 |
リグレッツ・オンリー
2007 / 10 / 19 ( Fri ) 「リグレッツ・オンリー」
黒柳徹子、古谷一行、石田ひかり アメリカの作品。ニューヨークが舞台。 大統領が、婚姻法を改正し、ゲイ・レズビアンの人たちにとって、きつい内容になるものを作ろうとする。そこで、ゲイ・レズビア ンの人たちは、突如、ストライキをし、仕事から撤退し、あらま社会が麻痺してしまう・・・・・。 この演劇の最後の部分で、アメリカの独立宣言の前文が出てくる。「全ての人間は平等造られている。」とうたい「生命、自由、幸 福の追求」という言葉が出てくる。 この演劇は、まさに、この平等と生命と自由と幸福追求権のことを描いている。 ゲイやレズビアンの人たちの生存ということもあるけれど、一番語りたかったのは、黒柳徹子さんが、インタビューでも語っている ように、自由ではないか。 ゲイやレズビアンの人たちの生き難さと圧迫をかけられることへの反撃と自由な精神が生き生きと描かれている。 わたしが、興味深かったのは、黒柳徹子さん演ずる主人公とゲイのハンスとの愛情である。ハンスは、ゲイだから、異性愛ではない。 しかし、異性愛を超えた愛情があるのである。黒柳さんが叫ぶ。「ハンス、愛しているわ。」 ゲイの人たちの愛情関係も描かれているけれど、それとは違う、男と女の恋愛ではない愛情も豊かで、お互い大好きなのである。そ れは、2人とも愛情が豊かで、また自由人だからだと思う。 この脚本は、ゲイの人が書いているけれど、黒柳さんは、実際の生活や人生においてもゲイの人たちとの豊かな交流があるからこそ、 そして、自由で、よく気がついて、他者に優しい人たちとのことが、大好きだからこそ生き生きと楽しそうに、チャーミングに演じて いるのではないか。 わたしが、ゲイやレズビアンの人たちと一緒にいると自由を感じて、リラックスして、楽しいと感ずることが、多いのも、わたしが、 実は、一番大事にしているのが、自由ということだからだという気がする。 リラックスして、自由になる、基本的に楽しいお芝居。 結婚している人もこれから結婚する人も登場をするので、結婚って、何ということも思わず考えてしまう演劇である。 ゲイ・レズビアンについての法制度は、様々だけれど、異性愛であれ、同性愛であれ、友情であれ、大事なことは、愛情であり、お 互いの魂の自由を大事にすることだということをあらためて感じた。 この間の金曜日、夜、ネットラジオで、「オールニートニッポン」に出た。雨宮処凛さん、ガテン系連帯の池田一慶さん、和田義光 さん、そして、増田さんである。 そこで、池田さんが、「フリータ−の人たちが、ゼネストを起こしたら、コンビ二も飲食店もみんな麻痺しちゃうよ。」と言ったけ れど、ゲイ・レズビアンのストライキである。 ギリシャ神話の「女の平和」で、女たちで、平和のためにストライキを起こそうなんて話は、良く冗談で言っていたけれど、いろん なゼネストのアイデアがあるものだ。 よく見えないけれど、見えない人たちが、手をつないで、力を合わせれば、世界を変えられるということか。 フリータ−も一人で休めば、クビになるけれど、みんなで組合をストライキを作ってストライキをすれば、大丈夫。いつかいろんな ストライキを合法的にやりたいなあ。 |
映画評:「武士の一分」
2007 / 10 / 05 ( Fri ) 「武士の一分」
2006年、山田洋次監督、木村拓哉、壇れい、笹野高史、小林稔侍、緒方拳、桃井かおり、坂東三津五郎 サラリーマンの悲哀と夫婦の絆を描いたものという気になる。 藩主の毒見が仕事の若侍三村新条之丞。妻加世と一緒につましく暮らす30石の侍である。 毒見の仕事をしつつ、子どもたちに剣を教えることを夢にしている。 そんなある日、毒が当たって、失明をしてしまう。 仕事を辞めると、生活にまず困る。 社宅?も出なくてはならなくなるのか。 いわゆる親族で集まって、話し合いになる。 これは、今の高齢者介護で、誰が面倒をみるかということで、親族のなかで、誰も面倒を見れなくて、トラブルになるということを想起させる。 妻の悩み。突然、働かなければならなくなって、困ってしまう妻が描かれている。 つまり、江戸時代のことなのだけれど、とてつもなく現代的なのだ。 労災申請や中間管理職のずるさ?や体を壊した働く者の大変さなどが身につまされる。侍どおしの会話や同情は、今のサラリーマ同士を想起させるし、藩主への態度は、の社長に対する態度のようにも思える。トラブルが起きたときに、会社の重役が詰め腹を切らされるところも、責任をとらされて、死んでいくところも今の日本である。 藤沢周平さんの「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」も見たけれど、この「武士の一分」は、3作のなかでは一番いいかも。 3作とも、主人公の侍に、若手の優男を起用し、相手役の女性に、可憐な女性を起用していることがミソである。時代劇が、現代劇っぽくなっている。 そして、脇役を芸達者で囲んでいる。 眼が見えなくなって、復讐で、果たし合いをしようと特訓に励むキムタク。 師匠の緒方拳が、いい味を出している。 緒方拳は、前作の「隠し剣 鬼の爪」では、悪役をやっていたっけ。 居合いというか、死ぬ気で、練習をするキムタク。 師匠が言う。 「ともに死するを持って、心となす。 必死すなわち生きるなり。」 「必死すなわち生きるなり。」という言葉は、すごい言葉である。 死ぬ気でやれというか、死ぬ気でやらなければ、生き残れないというか、死ぬ気でやって始めて生きることになるというべきか。 これは、社民党に、そして、わたしに言われているみたいな言葉だ。 「死ぬ気でやれ。そうでなければ、生き残れないぞ。」と言われているような。 若侍は、眼が見えないというハンディキャップを持ちながら、復讐をする相手と果たし合いをしようとするのである。 「ハンディーをもっているのだから、死ぬ気でやれ。そうでしか活路はないぞ。」と社民党も言われているのか。 |
映画評:「ゲト戦記」
2007 / 09 / 30 ( Sun ) 日本で作られたアニメではなく、実写で作られた映画の方。
アニメでは、ゲドもティナもおじさんとおばさんに描かれていたけれど、初々しい青年と若い女性のゲドとティナである。 魔法使いの修行中のゲドは、ゲべスを呼びだしてしまい、ゲべスという化け物に追いかけられ、殺されてしまうという恐怖と現実に追われるようになってしまった。骸骨のような化け物である。 ゲドの恩師は、ゲドに言う。 「ひたすら逃げまわっていたら、疲れ果ててしまうぞ。 いつ追っ手に襲われるかわからなくて、逃げることで、疲れ果ててしまう。向き合って、自分のものとするのだ。」 ゲべスの本当の名がわかれば、倒すことができる。 これは、ゲドのある意味成長物語であり、また、壊れた腕輪を完成させることで、世界の平和が実現するというファンタジーでもある。 ゲドは、ゲべスと対決をすることになる。 ゲドをとことん挑発し、殺そうとするゲべス。 「お前を苦しめただれだれが憎いだろう。」「理解の無かった父親を恨んでいるだろう。」などなど。 怒りや憎しみをあおることで、ゲべスは、パワーを持とうとするのである。 「憎んでいない。なぜならば・・・・」「恨んでいない。」と淡々と語るゲド。 ゲドは、そのとき悟る。 ゲべスは、自分の影の部分なのだと。 自分の醜い部分や悪い部分が、ゲべスであり,自分の影なのだと。 ゲべスの本名がわかる。「ハイタカ」という自分の本当の名だ。 ゲべスにくい殺されるのではなく、ゲべスを自分のなかに取りこむゲド。自分から、逃げないで、自分の駄目な、愚かな、悪い部分も自分だとして、ゲべスを飲み込み、取りこむゲド。 この部分が圧巻である。 2人の真剣勝負である。 影の自分を取りこむことで、強くなるゲド。 魔法の力も強くなる。 そして、世界に平和は、訪れるか。 最新作の「スパイダ−マン」もこのいい自分と悪い自分の対決である。 そして、多分対決ではなく、ゲドのように、自分のゲべスも自分の影だと認識して、統合し、アウフへ−ベンをしていくことが必要なのだ。 ゲべスそのものになっている政治家もいるような気がするけれど、自分のゲべスと向き合うことのできず、転んでしまう政治家もいるのではないか。 自分の弱い部分や駄目な部分に眼をふさいで、逆に弱くなってしまって、「仮想」の自分を演じ、破綻するまで、突っ走っていくといったような。 自分の影を自分のものとすることで、自分は強くなるということをわたしもかみしめたい。 わたしももっと強くなりたい。 |