森鴎外が小倉に住んでいた時に書いていた「日記」。
その日記が散逸してしまったため、鴎外の小倉での足跡がわからない。
田上耕作は、小倉で鴎外がどの様な生活を送っていたかを調べ始める。
生きている関係者の証言を集めて、小倉での生活を「採取」しようと考えたのだ。
耕作は幼い頃から体が不自由であった。
舌がまわらず、顔が曲がりうまくしゃべることができない。
足をひきずって歩く。
そんな耕作であったが、この鴎外のことを調べるという目標が決まった時、生活が変わり始める。
生きる張り合いが出てきて人生が変わり始める。
夫を亡くした耕作の母ふじは美しく再婚の話もあったが、耕作が嫁ぎ先で疎まれることを心配して再婚の話をすべて断ってきた。
そして、目標を見つけた耕作に「よかった。耕ちゃん、よかったねえ」と言って応援をする。鴎外の話をする息子の目が輝くのが嬉しくてしようがないのだ。
だが、耕作の仕事はうまく進まない。
壁にぶち当たる。
「このような調査が意味のあるものなのか?」「自分はひどく空しいことに懸命になっているのではないか?」という疑問にかられる。
耕作は自分を助けて、いろいろ動きまわってくれる看護婦のてる子に恋心を抱く。耕作は葛藤する。
「耕作は自分の醜い身体を少しも意に介しないようなてる子の態度に少なからずたち迷った。耕作はこれまで自分の身体をよく知っていたから、女に特別な気持ちを動かすことはなかった。が、てる子から手を握られ、まるで愛人のように林間を歩いていると、さすがに彼の胸も騒がずにはいられなかった」
母親のふじもてる子のことを喜んだ。
「てる子の来訪をひとつの意味にとろうとしていた。彼の家に、てる子のような若い美人が遊びに来ることはほとんど破天荒なことだった。ふじはてる子がくると、まるでお姫さまを迎えるように歓待した」
ふじは耕作に話しかける。
「ねえ、耕ちゃん、てる子さんはお嫁にきてくれるかねえ?」
結果は耕作の失恋だった。
てる子は別の男と結婚する。
てる子を失って、耕作の生きる意味は「小倉時代の鴎外」の調査に集約される。
だが、調査は思うように進まない。
こんなことをして意味があるのかという疑問が湧いてくる。
そして、戦争。
耕作、親子は窮乏する。
そして、戦後。
インフレが襲い夫の残した家も手放さなくてはならなくなる。
窮乏は耕作の身体を衰弱させ、彼は仕事を完成できずに死んでいく。
母親のふじは、耕作の遺骨と風呂敷包みの草稿だけを荷物にして、熊本の遠い親戚の家に引き取られる。
清張はこの親子の生涯を描いた作品をこう結ぶ。
「昭和二十六年二月、東京で鴎外の「小倉日記」が発見されたのは周知のとおりである。鴎外の子息が、疎開先から持ち帰った反故ばかりはいった箪笥を整理していると、この日記が出てきたのだ。田上耕作が、この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福かわからない」
松本清張の「或る『小倉日記』伝」は、「人生の目的の葛藤」と「母親の無償の愛」を描いた名作である。
だが、実際の田上耕作は、清張が創作した人物とは違っていたようだ。
作家の阿刀田高氏は実際の田上耕作に関して次のように紹介している。
・田上耕作の没年は昭和二十年。空襲により母と共に死んだ。
・耕作は母ひとり子ひとりの家族ではなく、ふたりの姉がいて、さほど貧しい環境ではなかった。
・田上耕作の病状も清張作品ほどひどくはなかった。
・田上耕作は郷土史家として知られており、鴎外の事跡を調べていたのは事実だが、「小倉日記」の再現だけを目標としていたわけではない。
この事実をもとに阿刀田氏は、清張の「創作の秘密」について言及している。
「事実を知りながら小説としてすぐれた効果を作るためにイマジネーションを広げ、自分の想いを投影した」
清張は、田上耕作という素材をもとにして、自分なりの味付けをしてひとつの料理を作り上げたのだ。
田上耕作の人生に自分の気持ち・モチーフを託したのだ。
清張が託したものとは「母親の愛」であり、「かならずしも成功者とは言えない弱者」であり、「事実を探求する人」である。
阿刀田氏はこれを「史実の中に自分のモチーフをすべり込ませる技」と表現している。
そして、「母親の愛」「弱者への視線」「事実を探求する人」こそが、作家・松本清張そのものであったと書いている。
★研究ポイント
創作の方法。
目の前の素材をどう料理するか?
与えられた素材の中に自分のモチーフを滑り込ませる技。
では、自分のモチーフとは何か?
自分は何を描きたいのか?
小説は事実の羅列ではない。
事実に何を滑り込ませるかである。
その日記が散逸してしまったため、鴎外の小倉での足跡がわからない。
田上耕作は、小倉で鴎外がどの様な生活を送っていたかを調べ始める。
生きている関係者の証言を集めて、小倉での生活を「採取」しようと考えたのだ。
耕作は幼い頃から体が不自由であった。
舌がまわらず、顔が曲がりうまくしゃべることができない。
足をひきずって歩く。
そんな耕作であったが、この鴎外のことを調べるという目標が決まった時、生活が変わり始める。
生きる張り合いが出てきて人生が変わり始める。
夫を亡くした耕作の母ふじは美しく再婚の話もあったが、耕作が嫁ぎ先で疎まれることを心配して再婚の話をすべて断ってきた。
そして、目標を見つけた耕作に「よかった。耕ちゃん、よかったねえ」と言って応援をする。鴎外の話をする息子の目が輝くのが嬉しくてしようがないのだ。
だが、耕作の仕事はうまく進まない。
壁にぶち当たる。
「このような調査が意味のあるものなのか?」「自分はひどく空しいことに懸命になっているのではないか?」という疑問にかられる。
耕作は自分を助けて、いろいろ動きまわってくれる看護婦のてる子に恋心を抱く。耕作は葛藤する。
「耕作は自分の醜い身体を少しも意に介しないようなてる子の態度に少なからずたち迷った。耕作はこれまで自分の身体をよく知っていたから、女に特別な気持ちを動かすことはなかった。が、てる子から手を握られ、まるで愛人のように林間を歩いていると、さすがに彼の胸も騒がずにはいられなかった」
母親のふじもてる子のことを喜んだ。
「てる子の来訪をひとつの意味にとろうとしていた。彼の家に、てる子のような若い美人が遊びに来ることはほとんど破天荒なことだった。ふじはてる子がくると、まるでお姫さまを迎えるように歓待した」
ふじは耕作に話しかける。
「ねえ、耕ちゃん、てる子さんはお嫁にきてくれるかねえ?」
結果は耕作の失恋だった。
てる子は別の男と結婚する。
てる子を失って、耕作の生きる意味は「小倉時代の鴎外」の調査に集約される。
だが、調査は思うように進まない。
こんなことをして意味があるのかという疑問が湧いてくる。
そして、戦争。
耕作、親子は窮乏する。
そして、戦後。
インフレが襲い夫の残した家も手放さなくてはならなくなる。
窮乏は耕作の身体を衰弱させ、彼は仕事を完成できずに死んでいく。
母親のふじは、耕作の遺骨と風呂敷包みの草稿だけを荷物にして、熊本の遠い親戚の家に引き取られる。
清張はこの親子の生涯を描いた作品をこう結ぶ。
「昭和二十六年二月、東京で鴎外の「小倉日記」が発見されたのは周知のとおりである。鴎外の子息が、疎開先から持ち帰った反故ばかりはいった箪笥を整理していると、この日記が出てきたのだ。田上耕作が、この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福かわからない」
松本清張の「或る『小倉日記』伝」は、「人生の目的の葛藤」と「母親の無償の愛」を描いた名作である。
だが、実際の田上耕作は、清張が創作した人物とは違っていたようだ。
作家の阿刀田高氏は実際の田上耕作に関して次のように紹介している。
・田上耕作の没年は昭和二十年。空襲により母と共に死んだ。
・耕作は母ひとり子ひとりの家族ではなく、ふたりの姉がいて、さほど貧しい環境ではなかった。
・田上耕作の病状も清張作品ほどひどくはなかった。
・田上耕作は郷土史家として知られており、鴎外の事跡を調べていたのは事実だが、「小倉日記」の再現だけを目標としていたわけではない。
この事実をもとに阿刀田氏は、清張の「創作の秘密」について言及している。
「事実を知りながら小説としてすぐれた効果を作るためにイマジネーションを広げ、自分の想いを投影した」
清張は、田上耕作という素材をもとにして、自分なりの味付けをしてひとつの料理を作り上げたのだ。
田上耕作の人生に自分の気持ち・モチーフを託したのだ。
清張が託したものとは「母親の愛」であり、「かならずしも成功者とは言えない弱者」であり、「事実を探求する人」である。
阿刀田氏はこれを「史実の中に自分のモチーフをすべり込ませる技」と表現している。
そして、「母親の愛」「弱者への視線」「事実を探求する人」こそが、作家・松本清張そのものであったと書いている。
★研究ポイント
創作の方法。
目の前の素材をどう料理するか?
与えられた素材の中に自分のモチーフを滑り込ませる技。
では、自分のモチーフとは何か?
自分は何を描きたいのか?
小説は事実の羅列ではない。
事実に何を滑り込ませるかである。