1 まとめ        田中はる枝
2 読書メモ       大橋 忍(特別会員)
3 読書感想       海野士郎(特別会員)
4 参考         阿部審也
  関連年表ほか 
   その他作品の粗筋
   最近読んだ鴎外作品

5 読書感想       阿部審也
6「蛇にピアス」感想   重村由紀子
  04-03-03

 1 「りぶり」第8回のまとめ        2003-03-01-13.00〜1600   大沼婦人会館
                                  田中はる枝

     松本清張「或る『小倉日記』伝」  新潮文庫 傑作短編集(1)のうち

7回目が119日(月)だった。第8回目を2月のいつかにという話になったが、なにしろ主宰者が、東京・ハワイと出かける事が重なり、31日(月)となって、久しぶりに会う「りぶり」の面々。「1ヶ月以上会わないとなんだか寂しくってね」の言葉に、この会の充実ぶりが見えてきた。

今回は新しい参加者が3名。男性2名、女性1名。それぞれが個性豊かに人生を深く学びながら生きてきた人達で、皆感動をもってお迎えした。
人数が増えた事で、いままでの革張りソファ室から、急きょ大ホールを使う事になり緞帳の下がる舞台を背に521uの広いフロアの真ん中に15席のテーブルをロの字に並べた。
お茶とお菓子と果物が並び、これで参加費無料というのだから何処から噴出してきたのやら。

「この読書会の本の選び方はすごい!こんな本、普通は選ばないよ、其処がすばらしい」そんな会とはどんな会なのか? 新しい方の言葉に我々古参ちたちは「ここにいていいのかしら」と恥じ入りながらも大声を出しておしゃべり。和やかに、楽しく会話が弾んでいきました。そして、やはり、当然、夜もふけて解散は22時となったのであります。

(阿部補足)
前回の模様も北海道新聞に取り上げられたので、例会に来たいという方から電話があり、新しいメンバー3人が参加。
1人は80才過ぎの紳士、1人は高校世界史(社会)の教師、そして1人は松浦武四郎賞(第3回北海道聞き書き学会最優秀賞)「アイ子ばぁちゃんのはなし」(語り 渋谷アイ子)を受賞した女性。

途中、次回で取り上げる芥川賞作品の話に曲がりがちで、話が混乱してきたと指摘され、ハンドルを切り直すこと数度。若い作家の新しい小説は人気が高そう。みんな、しゃべりたくてうずうず。次回はとくに面白そう。
岸本和子さんの猿のおはなし(童話朗読)も見事だった。

「天龍」を4時から開店してもらい、明るいうちから13人で2次会。
そこで、聞き書き「アイ子ばぁちゃんのはなし」の本を見せてもらい、氏の執筆の動機から聞き書きの実際まで、詳しく聞いた。いただいたその本は全員に回覧して読むことにした。
高校教師と同期というか幼馴染のような八重子ママも参加し遅くまで大騒ぎ。私は声がつぶれてしまった。なお7、8人は「WALD」で3次会。私だけビール。記憶朦朧。
                                  以 上

   

      
                         撮影 高瀬宣夫

まずは特別会員2氏の感想から。

  松本清張「或る『小倉日記』伝」読書メモ
                           04-02-27   大橋 忍

 作品の主人公田上耕作,作者の松本清張の3人の時期的関係を年表風にまとめると以下のようになる。

1899(32).61902(35).2 森鴎外 小倉に滞在。「小倉日記」を記す。
1909(42).11 田上耕作生まれる。
1909(42).12 松本清張生まれる。翌年下関に転居。
1917(6) 清張 小倉に帰る。以後1953まで在住。
1940(15) 耕作 K.Mに手紙。
1942(17) 森潤三郎「鴎外 森林太郎」発表。「小倉市博労町の田上耕作氏は,在住中の兄の事蹟を調べて居られるが,―― 」。(p37)
1950(25) 耕作死。
1951(26).2 「小倉日記」発見。
1952(27) 清張「三田文学」9月号に作品発表。
1953(28).1 芥川賞受賞。

松本清張がこの作品によって芥川賞を受けたのが1953(昭28)年1月。もちろん無名である。田上(タノウエと読むらしい)耕作の名前を知るものもほとんどいなかったであろう。その時期にさかのぼってこの作品を読んだとしたら,つまり,その後の松本清張の活躍をまったく知らないとしてこれを読んだとしたら,どのような印象を持つであろうか。

森鴎外の不遇の時代とされる小倉での生活を記した「小倉日記」の所在不明。ふとしたことからその欠落を埋めようと決意する障害を持つ青年。その執拗な探究心と苦闘。孤独感,劣等感と反面での強烈な自負心。時として襲ってくる挫折感,寂寥感。寄り添うようにして生きる母と子の愛情。ひとりの友人との交流。貧窮の中での死。すべての努力が徒労に終る空しさ。そうした田上耕作の軌跡をこれまた執拗に追い,共感と哀惜をこめて書き上げた松本清張という新人作家の作品。

そこには,文豪森鴎外,消えてしまったその足跡を必死で追う田上耕作,それをまた的確に描写しようとする松本清張という直線的な構図が成立する。

この作品が芥川賞に選ばれるについては,選考委員の中でも議論があったらしい。その前が該当作なしであったことも幸いしたようだ。清張自身も受賞の言葉として,意味は異なるが「幸運であった」と言っている。43歳という年齢から考えても実感であろう。いずれにせよ,清張はこの作品が芥川賞を得たことを契機に,流行作家への道を走りはじめ,やがて社会派推理小説という分野を切り開き,古代史,現代史の世界でも大家をなすに至る。

そして現在,われわれは,彼の家族関係や生まれ育った環境,高等小学校で終らなければならなかった無念さ,青少年期に経験した数々の辛酸,その中で培われた底辺,深層を見つめる視点,人間や社会に対する鋭い感覚,飽くことなき調査と資料収集,的確な表現力といったものを知っている。そうした清張に関する知識をもってこの作品を再読してみると,鴎外と耕作と清張との直線的な位置関係が大きく変わってくることを感じる。

冒頭に掲げた年表では,耕作と清張は同一年の生まれとなっているが,これは偶然だろうか。事実は,耕作の生没年は作品とは異なっており,清張は作品の中で自分と同年として設定したものだという。また,現実の耕作には姉がひとりいたが,これも清張がみずからにあわせてひとり息子としたようだ。とすると,この作品の中での耕作は,相当に清張の創作あるいは清張自身の投影ということになってくる。

小倉で長く暮らし,朝日新聞に勤務していた清張は,「小倉日記」の所在不明については十分知っており,また,その空白にも興味を持っていたであろう。清張が田上耕作の存在とその残された「風呂敷包みの草稿」の内容をいつ知ったのかはわからないが,清張自身が耕作とは独立に,あるいは耕作の後を引き継いで,「小倉日記」の欠落を補うべく鴎外の足跡を追っていたのかもしれない。

もしそうであるとすれば,「小倉日記」の発見は,「田上耕作が,この事実を知らずに死んだのは,不幸か幸福かわからない」かもしれないが,清張にとっては徒労感に打ちひしがれるような不幸だったのではあるまいか。

「小倉日記」の発見からこの作品が「三田文学」に掲載されるまでわずか1年半。新聞社勤務の間を縫っての執筆である。「小倉日記」をめぐって,清張自身にそれなりの蓄積があったと考えるのが自然であろう。

そんな風に考えると,耕作と清張の姿とがますます重なって見えてくる。と同時に,その後の清張の多くの作品の中で開花していったものの萌芽が,この作品の各所にちりばめられているように感じるのである。

本来文学作品は,その作者の人格や歴史とは切り離されて,それ自体が独立したものとして読まれるべきものであろう。しかし,こういう読み方をするのも,小説の楽しみ方として許されていいのではなかろうか。(2004.2.27             以 上


  松本清張「或る『小倉日記』伝」() 
       
                          海野士郎

私の故郷、水戸の偕楽園には梅の香がただよっています。「りぶり」の大沼は氷雪の世界ですね。皆様に思いをはせながら拙文を送ります。

 森鴎外を最も身近に感じたのは、阿部さんの日銀先輩である吉野俊彦氏とのつながりである。サラリーマン時代、彼の自宅を訪ね、講演を依頼したこがあった、吉野さんのご自宅には3つの書斎があった。1つは経済学の書籍に溢れた部屋、次の部屋は世界の酒のコレクシヨン…ここで吉野さんは洋酒を嘗めながらクラシックを聴くのだそうだ。そして第3の部屋には今回の主人公森鴎外の関係資料がぎっしり積んであった。
 本稿とは直接関係がないのでこれ以上触れないが、吉野さんの関心はサラリーマンとしての組織と個人の葛藤にあった。森、吉野、そして私もこの問題に悩んでいたのである。私の書架には森鴎外に関する吉野さんの著書が数多く並んでいる。

松本清張については、愛読書は「球形の荒野」である。魅せられて何回読んだことだろうか。そして清張についての関心の第一は彼が共産党支持ということであった、今回「小倉日記」を読み、その意味が更に理解できたと思う。本題から外れてしまった。

 本「傑作短編集一」のうち、私が対象にしたのは「或る『小倉日記』伝」である。最初のこの一篇を読んで私は興奮し不思議な感情にとらわれた。もう何も読みたくなかった。美味しいものを食べたとき、絶世の美人に接した時、人はもう何も、誰にも…の心境である。
 私が採り上げたいのは、人と人との関係、力学。もう一つは音の力「鈴の音」である。
 田上耕作に対する母親ふじの愛はagapeにも達する。ふじは美貌で高雅であり再縁の話は諸所からあったが、ふじは生涯耕作から離れず再婚を絶った。この間には家庭生活への憧れ、経済的安定への思いもあったであろう。然し障害のある耕作に対する愛はこれらを乗り越えて余りあるものだった
 「明日、もう一度行ってみよう、お母さんも一緒にね」(27ページ)
 「よかった。耕ちゃん、よかったねえ」(29ページ)には涙を誘われます。
 
江南鉄雄の友情も素晴らしい、「なかなかいいじゃないか。この調子この調子。いいものになるよ」。江南の友情は耕作の生涯に一つの明かりとなった、と述べられています。
 安寧寺さんと鴎外の師弟関係も美しい。「別れるに忍びず、あとを追って東京に出る」のくだりは感動的です。また鴎外の対象を尊敬した教授法も考えさせられます。(24ー25ページ)
 「でんびんや」の女の児・お末ちゃん、看護婦・山田てる子への思い。白川院長、ベルトラン宣教師など、暖かい脇役の存在もほのぼのとしています。
 しかし耕作は悩んでいます。耕作が自分の身体に絶望してどのように煩悶しているかは、他人にはわからないのだ。「彼はわざと阿呆のポーズさえ誇張して見せた。」(18ページ)

 表面、研究に打ち込んでいる裏にはこのような苦悩が存在しています。清張の思いとその後の軌跡がうかがわれます。
 最初の提示部の鈴の音、最終楽章の死期。「どうしたの」…「鈴」

 この構成は壮大なシンフォニーでもあります。「この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福かわからない。」はおおきな提示を我々に与えたものと考えるべきでしょう。
                                    以 上

          
 4 参
                             

   松本清張「或る『小倉日記』伝」 新潮文庫 傑作短編集(1)のうち

今回は短編小説を1つだけ取り上げた。文庫本で40ページばかりの小品。かつての人気流行作家の初期作品である。私はこの作品を通して鴎外について考えようと思った。第1回が漱石だったので、いずれ2者を並べてみようと思っていたが、コトはそう簡単ではない。二兎を追ってしまったようである)

○鴎外について…国史大辞典(執筆 長谷川泉)から

18621922
森鴎外 林太郎 鴎外漁史 千朶山房主人 観潮楼主人 ゆめみるひと
小説家、伝記作家、劇作家、評論家、翻訳家、衛生学者、軍医
島根津和野生まれ 代々津和野藩の典医 親戚で先輩に西周 東大医学部を19才で卒業 軍医に 軍医総監 途中、いわゆる小倉左遷問題

18841888
ドイツ留学 ベルリン、ライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘン、カールスルーエ

在独中の独語論文…日本兵食論 日本家屋論 ビールの利尿作用 水道水中の病原菌
         漢文日記 航西日記 在徳記
(独逸日記) 隊務日記 還東日乗

    参 考 年 表

18341901 福沢諭吉
1868 西洋事情
1875  学問のすすめ
1876 文明論之概略

1885 尾崎紅葉・山田美妙「硯友社」結成
   坪内逍遥「小説真髄」「当世書生気質」
1886 「毎日新聞」創刊
1887 中江兆民「三酔人経綸問答」
1891 幸田露伴「五重塔」
1892 「万朝報」創刊

1905 漱石「我輩は猫である」
1906 漱石「坊ちゃん」
1914        漱石「こころ」
1916 漱石没

  作 品
1889 詩集 於母影
1890 舞姫(ベルリン) 
   うたかたの記
(ミュンヘン)
1892 アンデルセン「即興詩人」(連載開    始 1902刊行)
   文つかい(ドレスデン) 妄想 
   普請中

1894 日清戦争従軍
1899    いわゆる小倉左遷問題 師団軍医部長
   クラウゼヴィッツ「戦争論」講演
1904 日露戦争従軍  陣中で「うた日記」
1909 タ・セクスアリス(発禁) 鶏
1910 青年 普請中
1911 雁 ファウスト訳了
   興津弥五右衛門の遺書…乃木希典
   かのように

1913 阿部一族…殉死批判 歴史小説が増    える
1914
 大塩平八郎 堺事件
1915 山椒太夫 最期の一句 魚玄機 じいさんばあさん 歴史其侭と歴史離れ
1916
 高瀬舟 寒山拾得
   史伝 渋江抽斎 伊沢蘭軒 連載翌年まで
1917 北条霞亭
1922 

○日本近代文学のさまざまな領域を切り拓き、夏目漱石と並称される文学者
(百科事典)
 西欧文学の紹介・翻訳など。明治文壇の重鎮(広辞苑)
 論争好き  石橋忍月「うたかたの記」 坪内逍遥「没理想論」
 問題作好き かのように 歴史其侭と歴史離れ 興津弥五右衛門の遺書 阿部一族 堺       事件
 サロン社交好き「パンの会」「観潮楼歌会」「雨声会」…山崎正和

○日本の非戦論の系譜…日露戦争開戦100年とイラク派兵に因んで

(鴎外の遺書にはこうある(原文はカタカナ)。「余は…森林太郎として死せんと欲す宮内省陸軍省皆縁故あれども…あらゆる外形的取扱いを辞す…宮内省陸軍省の栄典は絶対に取りやめを請う…」)

日露戦争

内村鑑三 非戦論(「よろづ短言」「聖書之研究」) 「万朝報」に署名記事「日露開戦に同意するのは日本の滅亡に同意することと確信する」

堺利彦、幸徳秋水 連名で「万朝報」に「退社の辞」を掲載。のち「平民新聞」創設。非戦の論陣。
(トルストイ 英タイムズに日露戦争批判寄稿)

石川啄木 はじめ対露強硬論のち反省。「余も亦無雑作に戦争を是認し、且つ好む『日本人』の一人であった」「今や日本の海軍はさらに日米戦争の為に準備せられている」。のち
(1910)「時代閉塞の現状」執筆

石橋湛山「日本は自由貿易で立国できる。満州は放棄せよ」

反戦反軍の論など

与謝野晶子 河上肇

日本共産党系作家 片山潜(1904 第2インターナショナル) 黒島伝治(「渦巻ける烏の群」シベリア出兵191822) 小林多喜二 宮本百合子 宮本顕治 

桐生悠々 信濃毎日主筆 個人雑誌「他山の石」で軍部批判
清沢 冽 「暗黒日記」
石川達三 「風にそよぐ葦」(戦時下の言論弾圧)
第2次大戦後のいわゆる戦後文学の隆盛   略

○松本清張について
日本文学のジャンル
随筆文学 海外作品は?
大衆小説と純文学  大仏次郎 山本周五郎 司馬遼太郎
探偵小説、推理小説、ミステリー 
銭形平次 人形左七 明智小五郎
 エドガー・アラン・ポー エラリー・クィーン シャーロック・ホームズ アルセーヌ・ルパン 

清張の社会派推理小説
ノンフィクションとドキュメント
  古代史疑 昭和史発掘 日本の黒い霧シリーズ
人気・流行作家 多作作家 


短編集その他作品の粗筋

○「菊枕」モデル 俳人・杉田久女

東北出身、美校出で福岡の中学の絵の教師と結婚したぬい女の略歴。二女を産んだあとの倦怠期に俳句の道に入る。投句。入選。句会。虚子のホトトギスの巻頭句にも。師の脳溢血を知り菊枕を贈るが相手にされず除名。やがて精神病院へ。死。

坂本宮尾の評論「杉田久女」
「ホトトギス除名をめぐる虚子と久女の関係に焦点を当て、虚子の小説「国子の手紙」を読み解きながら、そこで創られた久女の虚像を排していく作業が光る」(仁平 勝 ?3-12-28毎日)

○「断碑」モデル 考古学者・森本六爾

杉山卓治は遺物の背後の文化・社会・生活も対象にするとの説。最初の師京大助教授杉山道雄。東京帝室博物館歴史課長高崎健二の雑誌「考古学論叢」に論文掲載さる。両師の意見に食い違いがあるのを見抜く。歴史課に採用の予定から教室助手に変更さる。友人らとグループを作る。高女教師久保シズエと結婚。機関誌発行。既成学者に挑戦。発掘で正確な測量図作成。肺病。フランス洋行。弥生式土器の研究に。病気が妻に感染。奈良の借家に隔離さる。京都移転。妻死。2カ月後に死。


○「笛壷」
武蔵野の蕎麦屋の2階に泊まる男。仏像見物のあと。回想。

福岡の中学歴史教師。渕島教授の引きで東大資料編纂所員に。師は世話好きな政治家。仲介され結婚。延喜式に没頭20年数年。その間に原稿書き・講師など。有名に。家計は一切妻に。賢夫人と。教師貞代と知り合う。46才と23才。彼女から笛壷にヒントをもらう。彼女には教頭の愛人あり。部屋に招かれる。情人に殴られる貞代。後日自ら訪問。彼氏と鉢合わせ。3000枚脱稿。帝国学士院恩賜賞受賞。延喜式…の研究。離婚。

○「石の骨」モデル 早大教授・直良信夫
考古学の黒津先生。
60才未満。一人称で。除幕式。学界の内情。安アパートに独居。貧しい娘夫婦。息子は戦死。田舎の中学教師だったが砂浜から旧象の臼歯の化石破片を拾い旧石器時代の研究に。他に2個の石も。また海岸で化石人類の遺骸(腰骨)発見。東大人類学教室で鑑定。権威岡崎が泰斗竹中に怒鳴られ価値を否定。宇津木教授に前例あり。大学講師に。空襲で人骨化石は焼失。学界元老水田博士が来訪、岡崎が石膏でとっていた型から旧石器時代の人類を推定。功績横取り。妻死。東大の本格発掘。単なるオブザーバーとして。出土せず。冷笑。

○「青のある断層」
銀座通りの奥野画廊と有名画家滝川
(寡作でも知られる)と無名の青年画家畠中と。伊豆船原の温泉宿に滞在中の滝川を訪ねる画商奥野は青年から買い上げた15号の絵を持参。それを見た滝川は何かを感じる。2人は渓流近くの東屋でお狩場焼きの朝食。その残り火へ奥野はずたずたに裁った青年の絵を投げ入れる。下手な絵をいくらでも買い上げる画商に青年は何かおかしいと感づく。バーで働いている妻はどこかいいところがあると慰める。行き詰まっていた滝川が元気に描き始める。青年は或る画家の教室に通うようになり絵はダメになる。買い上げもストップ。何かを示唆した画商と何か暗示を得た滝川。青年夫婦は故郷山口に帰る前に船原へ行く。朝刊に滝川の記事。新しい作風で領域を広げたとある。若夫婦は有名画家が泊まった同じ旅館にい入ることを無邪気に喜ぶ。

○「弱味」
某市都市計画課長の浮気話。愛人と内緒で泊まった温泉宿で金と衣服を泥棒に盗られ、議員で業者でもある男に依頼して洋服などを持参してもらい窮地を脱する。代わりに廃工場の買い上げで便宜を図ってやる。次には相手が妾宅を建ててくれる。新築祝い品の贈り主の中に悪徳業者の会社名を見つける。「嘉六は3人の悪魔と酒盛りしている自分を見た。」

○「箱根心中」
仲の良い従兄妹と出来てしまい心中するまで。ともに配偶者あり。新宿で待ち合わせロマンスカーで箱根へ。山中のタクシー事故で軽傷を負う。帰宅できず旅館で数日静養。親戚間の騒ぎを想像する。明日帰るといった夜、女は男に「負けてしまった」。翌日2人は山中を登って行く…。


最近読んだ鴎外作品

○山椒太夫  人買い 安寿と厨子王
安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ。鳥もしょうあるものなれば、う疾う逃げよ、わずとも
○高瀬舟   安楽死
○寒山拾得  盲目の尊敬
○阿部一族  殉死 細川忠利の死に18名が殉死を許されるが、許されざるもの・事情ある       ものらのその後。
○堺事件   切腹 幕末、発砲事件でフランス兵士が死に切腹を命じられた武士の死にざ       ま
○鶏     小倉へ赴任した日からの日常身辺雑記。主として借家内のこと。下女、別当、       馬、鶏飼育、米。

  最後に私の感想を。 
     
          松本清張「或る「小倉日記」伝」感想

                                

海野・大橋両氏のメモ・感想を読んだ後なので、自覚症状はないが、お2人の影響を受けるかもしれない。で、なるべくダブらないよう、視点を少しずらし簡単にまとめた。

じつは私は清張をそれほど読んでいないのである。初めのころの推理小説と後期の黒い霧シリーズは読んでいるが、途中から、余りの多作ぶりについていけなかった。

ここで読書遍歴の1部を大雑把に摘出すれば、私は第2次大戦後の多作作家の作品には途中で飽きてしまうようである。いや、読むのが追いつかないのである。五木寛之も井上ひさしも立原正秋も藤沢周平も司馬遼太郎も、みな途中で投げた。清張も同じ。比較的しつこく追ったのは、大江健三郎、三島由紀夫、山本周五郎、辻邦生、堀田善衛などだが、彼らとて全部は読んでいない。大岡昇平、野間宏も、とくに後期長編小説はギヴアップ。個人全集で読んだのは、明治・大正期を除けば太宰治が新しい作家である。開高健の全集はたしか生存中に第1期とかと称して刊行され、それはほぼ読んだが、第2期は買いもしなかった。

「点と線」はトリックがよかった。「ゼロの焦点」では羽咋という地名の読み方を知った。「眼の壁」は題名がうまかった。「バカの壁」が売れるのはそのせいか…なんて。「日本の黒い霧」シリーズでは「検察一体」の実態を教えてもらい、帝銀事件、下山事件や広津和郎の「松川事件」などの影響もあって、日本の裁判・検察・警察を信用しなくなったが、これは清張のお陰である。しかし、米軍がらみとかいう「下山事件」の真相は、今もって分らない。

読んだのはその程度に過ぎない。私は彼を一流作家とは思わない。しかし、二流作家とはいいたくない。あいまいなままにしておく。

さて、この作品は彼の出世作である。それにふさわしい作品といえる。田上耕作という人間の造型というか人物像が明確・鮮明である。内容も焦点が絞られ、無駄・横道逸れがない。「民俗学の資料採集の方法を見て、しだいに『小倉日記』の空白を埋める仕事を思い立っ」てからは、「鉱脈をさぐりあてた山師のように奮いた」ち、一途に採集に走る。筋道がはっきりしたから、彼を取り巻く人物たちも生き生きと動く。魅力的な人間たちが的確に描かれる。
モデル小説だから、いろいろな「材料」が実在していたかもしれない。しかし、うまく書いた。見事だった。
看護婦・山田てるこの「天性のコケットリイ」は、しばらくしてからギョッとするほど、さりげなく描かれていた。耕作の内面・悩み・反省なども嫌味なく、節度をもって書かれている。スリリングな個所もあった。採集の相手がどういう人か、どう出るか、同行の母や友人が耕作を窺うような…そして採集の成果は…ドキドキしたときもある。「でんびんや」の鈴の音も効果的、といっておこう。最後の幻聴はどんな音だっただろう…。
感想はまだいろいろあるが省略。

鴎外のことも意外にたくさん述べられていた。私は読む前からそこに重点を置き、そこから鴎外がどのぐらい見えるかに興味を持っていた。そして、期待にたがわず、そこもなかなかに面白かった。

フランス語の勉強のこと、そこに通う鴎外の姿。ドイツ語と唯識論の交換講義。黄檗の即非の年譜のこと。禅にも熱心で「毎週日をきめて同好の人と集まっていた」こと。古文書を丹念に読む姿。公私の別や時間にやかましかった具体的な例。婦人関係への細心の気配りとなると、私などまるで失格だったが。
そして、あの戦争が耕作の「風呂敷包み一杯」の研究の継続を断ち切ったのであった。死後に、現実に「小倉日記」が発見された事実、それを知らないことの幸不幸よりも前に、私は戦争というものの残酷さ・ダメごとに参ってしまっていた。

「小倉日記」が行方不明になったからといって、在勤3年間の事跡を、ずっと後年、民間人が調べるということ自体が鴎外の大きさを示している。そういう鴎外とはどういう人間か。漱石・鴎外と並称されたりもするが、文学世界だけでなく文化・文明史上の両者の位置(散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする)、開国に伴う日本国と西洋との関係の認識内容(留学、紹介、翻訳、教授)、同じことだが、維新革命後の明治激動期(天皇制確立、殖産興業、富国強兵、植民地主義)における2人の傑物ほか(福沢諭吉ほかを含めて)の役割などを考え合わせるのも1つの道ではないかとして読んだが、私には採集の力がなかった。

蛇足を加えると、上述の通り鴎外はよく漱石と比較され、どちらが好きか、などと訊かれることもあるが、私はずっと鴎外嫌いだった。それではいけないと、全集を買い込み、ある時期集中的に立ち向かい、史伝も「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」(未完) の3作とも読んだが、つまらない大作としか思えず、殆どまったく記憶にない有り様。その他の小説もじつはろくに読んでいないし記憶にもない。少し前に「即興詩人」の新訳を読んだが、これは原作が良くないから、旧訳のほうがましとはいえ、もともとダメな作品だと思っている。つまり、私は漱石のほうが余程好きで、よく読み記憶もある。
チェーホフも好き嫌いが極端に偏るらしいが、私は彼を理解できず、好きにもなれないタチ。また、トルストイよりドストエフスキーが好きなタイプである。
                                   以 上

                                04-03-02
 6 「蛇にピアス」感想                   重村由起子

こんばんわ。
阿部さんに本の感想を…と言われて書いてみましたが、学生の時以来、文章なんて書いたことが無いので、戸惑ってしまいました。感想になってたらいいのですが…。

私は2作のうち「蛇にピアス」の方が感じるものがあったので、そちらのほうの感想のみで勘弁してください。
 
冒頭からこの本に対する興味はわいた。スプリットタンって何? どうやったら出来るの?
墨を入れるのは痛くないの? など。でも、読み進めるうちにルイの言葉にはっとした。
「所有と言うのは悲しい。所有はやっかい。でも、人間は人も物も所有したがる。」
まるであたしの事を言ってるみたいだと思った。
 
あたしには、両耳にピアスの穴が開いている。普通ピアスの穴あけは、おしゃれの一つだと思う。服、小物に飽き足らず、自分を一つの表現の場とし、自分に何かしらの力を加えて、「美」としてみんなに見てもらう。自分がアートであり、周りへの自己表現の方法でもある。
今は耳以外に、まぶた、鼻、唇、舌、爪、臍…。ありとあらゆるところにピアスをはめることが出来る。でも、当時ピアスの穴あけは一種の願掛けでもあった。「運命がかわりますように。」「…がかないますように。」みんなこぞってお願いしていた。
当然あたしも願掛けをした。そして、望みを手に入れた。でも、そこで終わり。喜びは一瞬にして飛んでいった。そして残るは面倒な事のみ。簡単に手に入れたための報いなんだろうか…とも思った。
 
所有癖ってあると思う。傍にあることへの安心感。裏切りの無い関係。誰だって願うと思う。でも、願うと同時に生まれる不安。いつ失うのか、いつ裏切られるのか…。だから丸ごと所有してしまいたくなる。そして所有することにより更なる不安。手に入れてしまった事への虚しさ。ダークな気持ちは尽きない。でもまた求めてしまう。案外人間はへこたれないものだ。
 
昔知り合いの一人に墨を入れてる人がいた。左の肩と胸にそれは存在していた。肩のそれはすぐに消された。理由は「人の目が厳しい」だった。当時まだあたしたちの年齢で墨を入れていると誤解を招く事がおおく、半袖になる時期を前に消えた。
左胸のそれは、十字架とその周りにさそりが一匹。「十字架は自分が一番大切にしている人、物。さそりは自分。大切なものを必ず守る。」荒々しいが、その中に強さを感じた。
 
ルイもアマもシバさんもピアスや墨に何かしらの「意味」を持つ。
知り合いが言った「大切なものを必ず守る」も、あたしの願掛けにも「意味」があった。
人はたまには、明日を生きるために「意味」を必要とすることがあると思う。「所有」を「意味」あるものに変えること。自分のものに収めるのみではなく、そこに「意味」を持たせることで、別の自分へと変化を期待するのかもしれない。そして、いつの時代も「意味」の象徴が必要だったのかも。それを見るたび、ふれる度に「意味」の再確認をする。
そして今、その象徴がそれぞれのbodyに加えられたものなのかもしれない。
 
でもだからって、みんながみんなそうとは限らない。もしそうだとしても、絶対に聞かないでほしい。だって、そうなのかと聞かれて「はい、そうです。」と答えることは、なんとなくマヌケな気がするから。自分だけが知っている、自分だけの所有物なんだから。 
 
これがあたしの感想です。思ったままに書いたので意味が通じない箇所があると思いますが許してください。では、また。
                                  以 上

         
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