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1 「りぶり」第8回のまとめ 2003-03-01-13.00〜1600 大沼婦人会館 松本清張「或る『小倉日記』伝」 新潮文庫 傑作短編集(1)のうち 第7回目が1月19日(月)だった。第8回目を2月のいつかにという話になったが、なにしろ主宰者が、東京・ハワイと出かける事が重なり、3月1日(月)となって、久しぶりに会う「りぶり」の面々。「1ヶ月以上会わないとなんだか寂しくってね」の言葉に、この会の充実ぶりが見えてきた。 今回は新しい参加者が3名。男性2名、女性1名。それぞれが個性豊かに人生を深く学びながら生きてきた人達で、皆感動をもってお迎えした。 「この読書会の本の選び方はすごい!こんな本、普通は選ばないよ、其処がすばらしい」そんな会とはどんな会なのか? 新しい方の言葉に我々古参ちたちは「ここにいていいのかしら」と恥じ入りながらも大声を出しておしゃべり。和やかに、楽しく会話が弾んでいきました。そして、やはり、当然、夜もふけて解散は22時となったのであります。 (阿部補足) |
撮影 高瀬宣夫
まずは特別会員2氏の感想から。 2 松本清張「或る『小倉日記』伝」読書メモ 04-02-27 大橋 忍 作品の主人公田上耕作,作者の松本清張の3人の時期的関係を年表風にまとめると以下のようになる。 1899(明32).6〜1902(明35).2 森鴎外 小倉に滞在。「小倉日記」を記す。 松本清張がこの作品によって芥川賞を受けたのが1953(昭28)年1月。もちろん無名である。田上(タノウエと読むらしい)耕作の名前を知るものもほとんどいなかったであろう。その時期にさかのぼってこの作品を読んだとしたら,つまり,その後の松本清張の活躍をまったく知らないとしてこれを読んだとしたら,どのような印象を持つであろうか。 森鴎外の不遇の時代とされる小倉での生活を記した「小倉日記」の所在不明。ふとしたことからその欠落を埋めようと決意する障害を持つ青年。その執拗な探究心と苦闘。孤独感,劣等感と反面での強烈な自負心。時として襲ってくる挫折感,寂寥感。寄り添うようにして生きる母と子の愛情。ひとりの友人との交流。貧窮の中での死。すべての努力が徒労に終る空しさ。そうした田上耕作の軌跡をこれまた執拗に追い,共感と哀惜をこめて書き上げた松本清張という新人作家の作品。 そこには,文豪森鴎外,消えてしまったその足跡を必死で追う田上耕作,それをまた的確に描写しようとする松本清張という直線的な構図が成立する。 この作品が芥川賞に選ばれるについては,選考委員の中でも議論があったらしい。その前が該当作なしであったことも幸いしたようだ。清張自身も受賞の言葉として,意味は異なるが「幸運であった」と言っている。43歳という年齢から考えても実感であろう。いずれにせよ,清張はこの作品が芥川賞を得たことを契機に,流行作家への道を走りはじめ,やがて社会派推理小説という分野を切り開き,古代史,現代史の世界でも大家をなすに至る。 そして現在,われわれは,彼の家族関係や生まれ育った環境,高等小学校で終らなければならなかった無念さ,青少年期に経験した数々の辛酸,その中で培われた底辺,深層を見つめる視点,人間や社会に対する鋭い感覚,飽くことなき調査と資料収集,的確な表現力といったものを知っている。そうした清張に関する知識をもってこの作品を再読してみると,鴎外と耕作と清張との直線的な位置関係が大きく変わってくることを感じる。 冒頭に掲げた年表では,耕作と清張は同一年の生まれとなっているが,これは偶然だろうか。事実は,耕作の生没年は作品とは異なっており,清張は作品の中で自分と同年として設定したものだという。また,現実の耕作には姉がひとりいたが,これも清張がみずからにあわせてひとり息子としたようだ。とすると,この作品の中での耕作は,相当に清張の創作あるいは清張自身の投影ということになってくる。 小倉で長く暮らし,朝日新聞に勤務していた清張は,「小倉日記」の所在不明については十分知っており,また,その空白にも興味を持っていたであろう。清張が田上耕作の存在とその残された「風呂敷包みの草稿」の内容をいつ知ったのかはわからないが,清張自身が耕作とは独立に,あるいは耕作の後を引き継いで,「小倉日記」の欠落を補うべく鴎外の足跡を追っていたのかもしれない。 もしそうであるとすれば,「小倉日記」の発見は,「田上耕作が,この事実を知らずに死んだのは,不幸か幸福かわからない」かもしれないが,清張にとっては徒労感に打ちひしがれるような不幸だったのではあるまいか。 「小倉日記」の発見からこの作品が「三田文学」に掲載されるまでわずか1年半。新聞社勤務の間を縫っての執筆である。「小倉日記」をめぐって,清張自身にそれなりの蓄積があったと考えるのが自然であろう。 そんな風に考えると,耕作と清張の姿とがますます重なって見えてくる。と同時に,その後の清張の多くの作品の中で開花していったものの萌芽が,この作品の各所にちりばめられているように感じるのである。 本来文学作品は,その作者の人格や歴史とは切り離されて,それ自体が独立したものとして読まれるべきものであろう。しかし,こういう読み方をするのも,小説の楽しみ方として許されていいのではなかろうか。(2004.2.27) 以 上 3 松本清張「或る『小倉日記』伝」(感想) 海野士郎 私の故郷、水戸の偕楽園には梅の香がただよっています。「りぶり」の大沼は氷雪の世界ですね。皆様に思いをはせながら拙文を送ります。 松本清張については、愛読書は「球形の荒野」である。魅せられて何回読んだことだろうか。そして清張についての関心の第一は彼が共産党支持ということであった、今回「小倉日記」を読み、その意味が更に理解できたと思う。本題から外れてしまった。 本「傑作短編集一」のうち、私が対象にしたのは「或る『小倉日記』伝」である。最初のこの一篇を読んで私は興奮し不思議な感情にとらわれた。もう何も読みたくなかった。美味しいものを食べたとき、絶世の美人に接した時、人はもう何も、誰にも…の心境である。 表面、研究に打ち込んでいる裏にはこのような苦悩が存在しています。清張の思いとその後の軌跡がうかがわれます。 この構成は壮大なシンフォニーでもあります。「この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福かわからない。」はおおきな提示を我々に与えたものと考えるべきでしょう。 |
4 参 考 阿 部 審 也 松本清張「或る『小倉日記』伝」 新潮文庫 傑作短編集(1)のうち 今回は短編小説を1つだけ取り上げた。文庫本で40ページばかりの小品。かつての人気流行作家の初期作品である。私はこの作品を通して鴎外について考えようと思った。第1回が漱石だったので、いずれ2者を並べてみようと思っていたが、コトはそう簡単ではない。二兎を追ってしまったようである) ○鴎外について…国史大辞典(執筆 長谷川泉)から 1862〜1922 1884〜1888年
作 品 ○日本の非戦論の系譜…日露戦争開戦100年とイラク派兵に因んで 内村鑑三 非戦論(「よろづ短言」「聖書之研究」) 「万朝報」に署名記事「日露開戦に同意するのは日本の滅亡に同意することと確信する」 反戦反軍の論など 与謝野晶子 河上肇 日本共産党系作家 片山潜(1904 第2インターナショナル) 黒島伝治(「渦巻ける烏の群」シベリア出兵1918〜22) 小林多喜二 宮本百合子 宮本顕治 ○松本清張について 短編集その他作品の粗筋 ○「菊枕」モデル 俳人・杉田久女 東北出身、美校出で福岡の中学の絵の教師と結婚したぬい女の略歴。二女を産んだあとの倦怠期に俳句の道に入る。投句。入選。句会。虚子のホトトギスの巻頭句にも。師の脳溢血を知り菊枕を贈るが相手にされず除名。やがて精神病院へ。死。 ○「断碑」モデル 考古学者・森本六爾 最近読んだ鴎外作品 ○山椒太夫 人買い 安寿と厨子王 安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ。鳥も生しょうあるものなれば、疾とう疾う逃げよ、逐おわずとも ○高瀬舟 安楽死 ○寒山拾得 盲目の尊敬 ○阿部一族 殉死 細川忠利の死に18名が殉死を許されるが、許されざるもの・事情ある ものらのその後。 ○堺事件 切腹 幕末、発砲事件でフランス兵士が死に切腹を命じられた武士の死にざ ま ○鶏 小倉へ赴任した日からの日常身辺雑記。主として借家内のこと。下女、別当、 馬、鶏飼育、米。 5 最後に私の感想を。 松本清張「或る「小倉日記」伝」感想 阿 部 審 也 海野・大橋両氏のメモ・感想を読んだ後なので、自覚症状はないが、お2人の影響を受けるかもしれない。で、なるべくダブらないよう、視点を少しずらし簡単にまとめた。 じつは私は清張をそれほど読んでいないのである。初めのころの推理小説と後期の黒い霧シリーズは読んでいるが、途中から、余りの多作ぶりについていけなかった。 ここで読書遍歴の1部を大雑把に摘出すれば、私は第2次大戦後の多作作家の作品には途中で飽きてしまうようである。いや、読むのが追いつかないのである。五木寛之も井上ひさしも立原正秋も藤沢周平も司馬遼太郎も、みな途中で投げた。清張も同じ。比較的しつこく追ったのは、大江健三郎、三島由紀夫、山本周五郎、辻邦生、堀田善衛などだが、彼らとて全部は読んでいない。大岡昇平、野間宏も、とくに後期長編小説はギヴアップ。個人全集で読んだのは、明治・大正期を除けば太宰治が新しい作家である。開高健の全集はたしか生存中に第1期とかと称して刊行され、それはほぼ読んだが、第2期は買いもしなかった。 「点と線」はトリックがよかった。「ゼロの焦点」では羽咋という地名の読み方を知った。「眼の壁」は題名がうまかった。「バカの壁」が売れるのはそのせいか…なんて。「日本の黒い霧」シリーズでは「検察一体」の実態を教えてもらい、帝銀事件、下山事件や広津和郎の「松川事件」などの影響もあって、日本の裁判・検察・警察を信用しなくなったが、これは清張のお陰である。しかし、米軍がらみとかいう「下山事件」の真相は、今もって分らない。 読んだのはその程度に過ぎない。私は彼を一流作家とは思わない。しかし、二流作家とはいいたくない。あいまいなままにしておく。 さて、この作品は彼の出世作である。それにふさわしい作品といえる。田上耕作という人間の造型というか人物像が明確・鮮明である。内容も焦点が絞られ、無駄・横道逸れがない。「民俗学の”資料採集”の方法を見て、しだいに『小倉日記』の空白を埋める仕事を思い立っ」てからは、「鉱脈をさぐりあてた山師のように奮いた」ち、一途に採集に走る。筋道がはっきりしたから、彼を取り巻く人物たちも生き生きと動く。魅力的な人間たちが的確に描かれる。 鴎外のことも意外にたくさん述べられていた。私は読む前からそこに重点を置き、そこから鴎外がどのぐらい見えるかに興味を持っていた。そして、期待にたがわず、そこもなかなかに面白かった。 フランス語の勉強のこと、そこに通う鴎外の姿。ドイツ語と唯識論の交換講義。黄檗の即非の年譜のこと。禅にも熱心で「毎週日をきめて同好の人と集まっていた」こと。古文書を丹念に読む姿。公私の別や時間にやかましかった具体的な例。婦人関係への細心の気配りとなると、私などまるで失格だったが。 蛇足を加えると、上述の通り鴎外はよく漱石と比較され、どちらが好きか、などと訊かれることもあるが、私はずっと鴎外嫌いだった。それではいけないと、全集を買い込み、ある時期集中的に立ち向かい、史伝も「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」(未完) の3作とも読んだが、つまらない大作としか思えず、殆どまったく記憶にない有り様。その他の小説もじつはろくに読んでいないし記憶にもない。少し前に「即興詩人」の新訳を読んだが、これは原作が良くないから、旧訳のほうがましとはいえ、もともとダメな作品だと思っている。つまり、私は漱石のほうが余程好きで、よく読み記憶もある。 |
04-03-02 6 「蛇にピアス」感想 重村由起子 こんばんわ。
阿部さんに本の感想を…と言われて書いてみましたが、学生の時以来、文章なんて書いたことが無いので、戸惑ってしまいました。感想になってたらいいのですが…。
私は2作のうち「蛇にピアス」の方が感じるものがあったので、そちらのほうの感想のみで勘弁してください。
冒頭からこの本に対する興味はわいた。スプリットタンって何? どうやったら出来るの?
墨を入れるのは痛くないの? など。でも、読み進めるうちにルイの言葉にはっとした。
「所有と言うのは悲しい。所有はやっかい。でも、人間は人も物も所有したがる。」
まるであたしの事を言ってるみたいだと思った。 あたしには、両耳にピアスの穴が開いている。普通ピアスの穴あけは、おしゃれの一つだと思う。服、小物に飽き足らず、自分を一つの表現の場とし、自分に何かしらの力を加えて、「美」としてみんなに見てもらう。自分がアートであり、周りへの自己表現の方法でもある。
今は耳以外に、まぶた、鼻、唇、舌、爪、臍…。ありとあらゆるところにピアスをはめることが出来る。でも、当時ピアスの穴あけは一種の願掛けでもあった。「運命がかわりますように。」「…がかないますように。」みんなこぞってお願いしていた。
当然あたしも願掛けをした。そして、望みを手に入れた。でも、そこで終わり。喜びは一瞬にして飛んでいった。そして残るは面倒な事のみ。簡単に手に入れたための報いなんだろうか…とも思った。
所有癖ってあると思う。傍にあることへの安心感。裏切りの無い関係。誰だって願うと思う。でも、願うと同時に生まれる不安。いつ失うのか、いつ裏切られるのか…。だから丸ごと所有してしまいたくなる。そして所有することにより更なる不安。手に入れてしまった事への虚しさ。ダークな気持ちは尽きない。でもまた求めてしまう。案外人間はへこたれないものだ。
昔知り合いの一人に墨を入れてる人がいた。左の肩と胸にそれは存在していた。肩のそれはすぐに消された。理由は「人の目が厳しい」だった。当時まだあたしたちの年齢で墨を入れていると誤解を招く事がおおく、半袖になる時期を前に消えた。
左胸のそれは、十字架とその周りにさそりが一匹。「十字架は自分が一番大切にしている人、物。さそりは自分。大切なものを必ず守る。」荒々しいが、その中に強さを感じた。
ルイもアマもシバさんもピアスや墨に何かしらの「意味」を持つ。
知り合いが言った「大切なものを必ず守る」も、あたしの願掛けにも「意味」があった。
人はたまには、明日を生きるために「意味」を必要とすることがあると思う。「所有」を「意味」あるものに変えること。自分のものに収めるのみではなく、そこに「意味」を持たせることで、別の自分へと変化を期待するのかもしれない。そして、いつの時代も「意味」の象徴が必要だったのかも。それを見るたび、ふれる度に「意味」の再確認をする。
そして今、その象徴がそれぞれのbodyに加えられたものなのかもしれない。
でもだからって、みんながみんなそうとは限らない。もしそうだとしても、絶対に聞かないでほしい。だって、そうなのかと聞かれて「はい、そうです。」と答えることは、なんとなくマヌケな気がするから。自分だけが知っている、自分だけの所有物なんだから。
これがあたしの感想です。思ったままに書いたので意味が通じない箇所があると思いますが許してください。では、また。
以 上 |