この「元寇と高麗」のページは、閉鎖した優良サイト「中世日本紀略」の作者さんから多くの資料を拝借した。
日本が外国勢から侵略を受けるのは、「元寇」が初めてではない。 その大宰府に蒙古の国書と高麗の副書を携えた高麗の使者が到着したのは、文永五年(1268年)正月であった。 そもそも元寇は、 もたらされた国書の内容は、国交を求める意味のものであったが、文面の随所に問題個所があった。 |
「蒙古國牒状」 南都東大寺尊勝院所藏 東大寺宗性筆 写し
|
「天のいつくしみをうける大蒙古国の皇帝が、書を日本国王に奉る。」 当時の日本人が冒頭のくだりを読んで、まして文体として、「上天」はともかく、「大蒙古国」と「(蒙古国の)祖宗」が台頭書きしてあり、次の日本国王は一文字下げており、つまり初めから日本を格下としていることなどからも、普通に対等の国交を求める友好の文章と受け取る者はまずいなかったであろう。大国意識を露わにした、しかも日本を最初から下位の国と見なす「無礼」の書である。 「朕が即位した初め、高麗では無辜の民が久しく戦争に疲れていたので、兵を引き揚げ、国土を還し、老人子供を帰らせた。高麗の君臣は感激して来朝した。」 もちろん、結びの「不宣(文末に用いる語。述べ尽くさないの意。上下関係のない対等の友人などに対して使う)」から臣としない意味の友好の書である、などとトンデモ妄想するはずもない。 歴史好きの人には変な「謎解きゴッコ」も好きな人が多いようである。 そんなことよりも、国家の大事となるかもしれない局面に遭遇した当時の日本人の心情をこそ思いたいものだ。
蒙古国使が次々と派遣されたために、何らかの返答をするべきとして、実際に草案が作成されたが、文永七年(1270)正月付けのこの文書案にも、 つづく結びの文章はすさまじい。 当時の日本人の思想・気概がよく分かる文章であろう。鎧袖一触の気魄と言うか、まことに勇ましいものがあるが、古代から幾度も外敵をはねのけて来た日本として、まして鎌倉武士政権ならではの気骨もあったろう。 実は、蒙古が日本に関心を向けた時点で、戦いは避けられなかったことは、次の史料からも明らかである。 『元高麗紀事』至元六年(1269)十一月二日条、『元史』高麗伝至元六年十一月条』
結局、日本の運命は、蒙古との通交を受け入れれば、属国にされて蒙古の尖兵として戦争に駆り出されるか、それとも通交を拒否して、蒙古の侵略を武力で防ぐか、いずれにしても戦いは避けられないものだったことが分かる。 高麗の使者は、高麗王(忠敬王)からの添え状も持っていた。そこには、 『高麗伝』から これが属国の運命である。 21世紀現代の感覚で、当時の価値観に基づく文化や人々の考え方をどうこうは言えまいが、これが当時の属国の実体である。浅薄な平和論者が元寇のことを語るなら、これらのこともよく考慮したがよい。 1270年11月、蒙古は高麗に屯田兵を置く計画を立てた。 文永八年(1271)9月2日、高麗の三別抄から援軍と兵糧を乞う書が来る。 『吉続記』
高麗の「三別抄」とは何か。当時の日本側のほとんども「何だこれは???」 と思ったことであろう。しかし、蒙古がやはり責めてくる、ぐらいの認識は固まったろうか。
三別抄とは、高麗にあってはじめ警備のための兵士として集められたものが、やがて恩賞しだいで誰とでも戦争する軍団に成長したものである。当時の権力ある武臣の「爪牙(武器)」として働き、抗蒙派に付いては和平派の有力者を抹殺し、和平派に付いては抗蒙派の首謀を殺害するなど、高麗の権力者同士のさまざまな政争に利用された。やがて三別抄によって抗蒙派の武臣が一掃されると(高麗の武臣政権の終焉)、三別抄そのものも不要になった高麗の王・玄宗は、その解散を命じた。それに怒った彼らは1270年6月に反乱を起こし、抗蒙を唱えて人々の結集を呼びかけたが、その実体を知る人々は乱を恐れて皆逃げ散ったという。高麗の政府軍と幾度となく攻防を繰り返し、拠点にしていた珍島の陥落直後に日本に救援の使者を送った。その後、残党が耽羅(済州島)に移るも、1273年4月、蒙古を含む討伐軍に鎮圧された。 次のような記録を見ると、彼らが高麗の国や人民のことを思って蒙古に反旗を翻したのではないことが分かる。 つまり、領主として全羅道を自分たちに封建して欲しいという要望と言える。やはり、恩賞しだいでどちらにも付く考えは変わらないようである。今ではこの事を、まるで三別抄が元軍の日本侵略を防ごうとしていたかのように大袈裟に言う人があるが、笑止である。彼等は彼等の利害で反乱したり元側に付いていたりしていたに過ぎない。 日本が三別抄にどう対応したかの記録はない。もちろん救援の乞いに応じることなど考えられないことである。もしそれをすれば即、高麗政府への宣戦布告を意味し、現地での蒙古連合軍との戦争である。まことに自殺行為としか言いようがない。
大宰府が独自に日本国使を蒙古に送っていたことが記録されている。どうやら大陸側の情報を収集していたようである。 『元史日本伝(1272年2月条)』 『元史』世祖本紀(1272年3月条)』 日本側の行動を蒙古側は、国使という名目の偵察活動であると認識しているが、その通りだったろう。いずれにしても金州の屯田兵のことを日本側は把握していたと思われる。 一方、蒙古側も周到に情報収集をしている。蒙古側の国使によるものである。とりわけ、三別抄の書が来てすぐの9月19日に、返書を求めて来日した蒙古の国使趙良弼は、そのまま1年以上日本に滞在し、つぶさに太宰府付近の地理を観察したり国政や風俗について調査している。 元寇からおよそ百年後の建徳元年(応安ニ年)に来日した明国の趙秩という者は、かつての国使趙良弼の子孫と疑われて危うく斬られそうになったという記録がある(『桜雲記』)。かくも元寇の時の恨みと疑心は当時の日本人の骨髄にまでしみこんだらしい。 高麗王元宗の子、 ェ(しん、後の忠烈王)がフビライの前に参内し高麗に帰る際に、こう進言した。 『高麗史 元宗十三年(1272)3月』 まことに属国の王子たるにふさわしい殊勝な物言いではなかろうか。フビライが目を細めて耳を傾けているさまが目に見えるようである。 1274年正月、蒙古は高麗に対し、日本侵攻のために戦艦建造を命じた。 『高麗史列伝巻十七 一百四の十』 フビライは、これら積極的な協力姿勢を持つ高麗を忠義な国と感じていたらしい。世子(後の忠烈王)に自分の娘を与え、婿にしている。さらには名前に「忠」の字を与えて、代々名乗らせている。また、妻もすべて蒙古人である。 第23代 1213-1259 高宗安孝大王 (忠憲王) 忠義の人間という者は、味方にとっては頼もしいが、対立する側にとっては時に残酷な存在となることがある。 『日蓮註画讃』 また、『一谷入道御書 建治元年五月八日』にも 日本人を拉致してきたことは、高麗側の記録にも残っている。 また捕らえた女の手に穴をあけて徹したことの記述であるが、
目 次に戻る 以下、工事中 |
蒙 古
|
朝鮮半島
|
日 本
|
新羅は国政に失敗して民が飢え、山賊に首都が荒らされるようになった。 |
弘仁四年(813年)、新羅の賊1100人が平戸に来寇し、日本人9人を殺して100人余りを連れ去った。 | |
871年5月、新羅の船2隻が日本の博多湾に侵入し米などを略奪する。 | 貞観十一年(871年)5月22日夜、新羅の船2隻が博多湾に侵入し、豊前国の年貢を奪って逃走した。 |
|
貞観十五年(873年) 朝廷は、出雲、石見、隠岐等国に命令を下して、新羅の賊行為に備え、警戒を固くさせる。 |
||
新羅の賊船、日本海に展開する。 | 元慶四年 (880年) 但馬国に新羅の不審船が出没し、但馬、因幡、伯耆、出雲、隠岐国等に、改めて厳戒令が敷かれる。 | |
894年、新羅いよいよ経済困窮。国王が、日本に行って穀物を奪ってくるように命令。それを受けて、6月2500人が45隻の船で対馬を襲う。しかし対馬側との戦闘で302人の戦死者を出して引き揚げる。 | 寛平六年(894年)6月、新羅から賊2500人が45隻の船で対馬に来襲し、文室善友らが士卒100人を率いて防戦にあたった。のみならず、これに加えて島分寺の僧・面均など島民も戦闘に参加した。合戦には、賊302を射殺して勝利した。 捕虜を問いただすと、新羅の国王の命を受けたとのこと。 |
|
延喜六年 (906年) 隠岐に新羅船が出没したが、台風により沈没。 | ||
935年新羅滅ぶ。高麗が朝鮮を統一。 | ||
天慶五年 (943年) 隠岐に新羅の賊船7隻が漂着。賊か難民かは不明。 | ||
天禄三年(972年)9月、大宰府が高麗使の対馬来着を報ずる。10月、大宰府に命じて高麗に返書を与える。 | ||
998年、高麗の賊が壱岐対馬を侵略し、肥前にまで迫った。 | 長徳三年(998年)高麗の賊が壱岐対馬を侵して肥前に迫り、奄美島民が筑前筑後薩摩壱岐対馬に攻め寄せた。 | |
999年2月、高麗の賊が大宰府から討伐される。 | 長徳四年(999年)2月、高麗の賊を大宰府が討伐する。9月南蛮の賊を大宰府が討伐する。 | |
1014年、高麗の賊が九州に攻め寄せ大宰府に討たれる。 | 長和三年(1014年)高麗の賊が攻め寄せ、大宰府が討伐する。 |
|
寛仁三年(1019年)、50余隻の船団が来襲し、壱岐、対馬、筑前糸島、志摩・早良諸郡を荒らし物資を奪い家屋を焼き払い、老人子供は殺して丈夫な者だけを拉致。ついに博多に迫る。 |
||
承徳元年(1097年)、異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せる。大宰府官兵・九州軍士大いに守り、賊船を撃破し賊徒数万を海没させた。元寇に至る外国からの侵略の中でも最大規模のもの。この時は民衆からも兵を募ったと考えられる。 | ||
1206年、テムジンがモンゴルを統一。 |
||
高宗十二年(1225年)、蒙古の使者が何者かによって殺される事件が発生。 | ||
1231年、蒙古軍が高麗に向かう。 | 高宗十八年八月(1231年)蒙古兵が来襲。降伏を勧めて従わないものは殺し、降伏してきたものは尖兵として使って各地を攻めた。開戦から三ヶ月で高麗の首都・開京に迫った。高麗王は降伏。以後蒙古の臣として朝貢す。地方では抵抗が続く。 | |
蒙古軍、高麗の各地の占領地に行政官を置いて引き揚げる。 高宗十九年(1232年)高麗王、江華島に遷都。 |
||
1234年、蒙古、金を滅ぼす。 | ||
1235年、蒙古軍、再び高麗へ。 | ||
1259年、蒙古の属領となる。 三別抄の台頭。警備のための兵士として集められたものが、やがて恩賞しだいで誰とでも戦争する軍団に成長。「権臣の爪牙」として働く。有力な権力者の「武器」としてさまざまな政争に利用された。 |
||
1265年、高麗人の趙彜(ちょうい)という者が、フビライに日本国との通交を勧める。 | 三別抄、時に抗蒙派また和平派の権力者側につき、それそれの政敵の抹殺をする。 | |
文永五年(1268年)、高麗の潘阜が世祖フビライの国書と高麗王の副書を持って来る。 | ||
至元六年(1269年)11月、蒙古の枢密院、高麗征討、日本平定後の戦略を協議する。 | ||
1270年、蒙古に対して和平派である高麗王・元宗は、抗蒙派の武臣の部下を諭し、それにより部下は三別抄にその抗蒙派の首謀者を殺害させる。(武臣政権の終焉) これにより、三別抄が不要になった元宗は、その解散を命ずる。 |
||
1270年6月、解散を命じられた三別抄が反乱を起こし、珍島に拠点を構える。高麗政府軍と三別抄の戦闘続く。 | ||
1271年9月、趙良弼を国使として日本に送る。 11月、五代皇帝フビライが国号を大元と定める。 |
1271年3月、蒙古が高麗に屯田兵を展開(日本侵略の準備)。 1271年4月、三別抄が展開している珍島が高麗政府軍の攻勢により陥落。 三別抄の残党、日本に援軍と兵糧を乞うて書を送る。その後、耽羅(済州島)に拠点を移す。 |
文永八年(1271年)9月2日高麗の三別抄から援軍と兵糧を乞う書が来る 同年9月19日、国使趙良弼が大宰府に来る。1年以上日本に滞在し、太宰府付近の地理を観察し、国政や風俗について調査する。 弥四郎ら二十六人の日本国使、蒙古に渡る。 |
1272年3月、高麗王元宗の世継ぎ(後の忠烈王)がフビライに、日本征伐を勧め、そのために高麗軍の装備を整えていることを告げる。 | 1272年7月、慶尚道按撫使の曹子一、元の屯田兵(約5000)が展開する金州(朝鮮半島南部)において日本船と通交したことが露見して捕縛される。後に処刑さる。 | |
1273年4月、元軍を含む討伐軍、耽羅島の三別抄残党を鎮圧。 | ||
1274年正月、元は高麗に対し、日本侵攻のための戦艦建造を命じる。 | 1274年、高麗、戦艦大小九百艘を造船する | |