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 この「元寇と高麗」のページは、閉鎖した優良サイト「中世日本紀略」の作者さんから多くの資料を拝借した。

  目  次

元寇と高麗

たびたびあっていた海外からの侵略

 日本が外国勢から侵略を受けるのは、「元寇」が初めてではない。
 日本側の記録によれば(『太宰管内志(大宰府管内誌)』『類聚三代格』『日本三代実録』『百練抄』『日本紀略』『扶桑略記』)、それまでたびたび侵略を受け、九州北部はもとより薩摩大隅にまで及んでいたことが記録されている。詳細(海賊・倭寇の起源を探る)
 その大半は、朝鮮半島からのものであった。数隻の賊船によるものがほとんどであったが、中には、45隻2500人の新羅の者が来襲し、捕らえた捕虜が「王の命令を受けて略奪に来た」と述べたこともあった。(『扶桑略記』
 また、どこの国のものかは定かではないが、最大規模のもので、承徳元年(1097年)、異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せ、大宰府官兵・九州軍士が賊船を撃破し賊徒数万を海没させた、という記録がある。
 九州大宰府は古代から日本外交の窓口の役割を果たしてきたが、同時にそこは外冦防衛の拠点でもあった。

 その大宰府に蒙古の国書と高麗の副書を携えた高麗の使者が到着したのは、文永五年(1268年)正月であった。

 元寇は朝鮮半島を経由してきた

 そもそも元寇は、
 「元史 卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國」に、
 『元世祖之至元二年,以高麗人趙彝等言日本國可通,擇可奉使者。』
 
「1265年、高麗人の趙彜(ちょうい)という者が、元の世祖・フビライに日本国との通交を勧めた」

とあることが発端らしい。

 もたらされた国書の内容は、国交を求める意味のものであったが、文面の随所に問題個所があった。

「蒙古國牒状」 南都東大寺尊勝院所藏 東大寺宗性筆 写し

(以下横書きであるが、この書には、特定の文字を普通行よりも一段高く書く、いわゆる台頭書きがあることに留意し、訳文もまたなるべく元の文体に合わせた)

 蒙 古 國 牒 状
上 天 眷 命
大 蒙 古 国 皇 帝 奉 書
  日 本 国 王 朕 惟 自 古 小 国 之 君
  境 土 相 接 尚 務 講 信 修 睦 況 我
祖 宗 受 天 明 命 奄 有 區 夏 遐 方 異
  域 畏 威 懐 徳 者 不 可 悉 数 朕 即
  位 之 初 以 高 麗 无 辜 之 民 久 瘁
  鋒 鏑 即 令 罷 兵 還 其 疆 城 反 其
  旄 倪 高 麗 君 臣 感 戴 来 朝 義 雖
  君 臣 而 歓 若 父 子 計
  王 之 君 臣 亦 巳 知 之 高 麗 朕 之
  東 藩 也 日 本 密 邇 高 麗 開 国 以
  来 亦 時 通 中 国 至 於 朕 躬 而 無
  一 乗 之 使 以 通 和 好 尚 恐
  王 国 知 之 未 審 故 特 遣 使 持 書
  布 告 朕 志 冀 自 今 以 往 通 問 結
  好 以 相 親 睦 且 聖 人 以 四 海 為
  家 不 相 通 好 豈 一 家 之 理 哉 至
  用 兵 夫 孰 所 好
  王 其 図 之 不 宣
    至 元 三 年 八 月   日

(なお同文は「元史卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國」にもあり、それには「上天眷命」」と「不宣」の文字はない)

天のいつくしみをうける
大蒙古国の皇帝が、書を
 日本国王に奉る。朕が思うのに、昔から小国の君主で
 国境を接しているものは、音信を交わしあい、仲よくするよう努めている。まして我が
祖宗は、天の明命を受けて天下を領有している。
 その威を恐れ、徳を慕ってくる遠い異国のものたちは数えられないほどである。朕が即
 位した初め、高麗の無辜の民が久しく
 戦争に疲れていたので、兵を引き揚げ、国土を還し
 老人子供を帰らせた。高麗の君臣は感激して来朝した。義は
 君と臣の関係ではあるが、父子のように仲が良い。思うに
 (日本)王の君臣もまたすでにこれを知っているであろう。高麗は朕の
 東の属国である。日本は高麗に近接し、日本の開国以
 来また時に中国とも交通をしているが、朕が即位してからはまだ
 一度も使いをもって和交に通じることをしていない。なお恐れるは
 (日本)王国がこれを知るかはまだ審らかではないことを。故に特に使いを遣わし、書をもって
 朕の志を布告させる。願わくば今よりは問うて好を結び、
 以って親睦をしたい。且つ、聖人は四海を以って
 家とする。互いに通好しないことにどうして一家としての理があろうか。
 兵を用いるに至るなど、誰がそれを好もう。
 (日本国)王よ、これを図れ。不宣
    至元三年八月 日

 

無礼と威嚇の国書 

「天のいつくしみをうける大蒙古国の皇帝が、書を日本国王に奉る。」
「昔から小国の君主で国境を接しているものは・・」
「我が祖宗は、天の明命を受けて天下を領有している。その威を恐れ、徳を慕ってくる遠い異国のものたちは数えられないほどである。」

 当時の日本人が冒頭のくだりを読んで、まして文体として、「上天」はともかく、「大蒙古国」と「(蒙古国の)祖宗」が台頭書きしてあり、次の日本国王は一文字下げており、つまり初めから日本を格下としていることなどからも、普通に対等の国交を求める友好の文章と受け取る者はまずいなかったであろう。大国意識を露わにした、しかも日本を最初から下位の国と見なす「無礼」の書である。
 また、文面には次のようなくだりもある。

 「朕が即位した初め、高麗では無辜の民が久しく戦争に疲れていたので、兵を引き揚げ、国土を還し、老人子供を帰らせた。高麗の君臣は感激して来朝した。」
 と、高麗を侵略して征服したことの意味にとれる文があり、
 「兵を用いるに至るなど、誰がそれを好もう。」
 と、わざわざ結びの言葉に兵を用いることに触れているところに、友好の書どころか武力を背景とした威嚇の文面であることは明らかであった。後に日本からの返書案作成に臨んだ菅原長成もこのことを指摘している。

 もちろん、結びの「不宣(文末に用いる語。述べ尽くさないの意。上下関係のない対等の友人などに対して使う)」から臣としない意味の友好の書である、などとトンデモ妄想するはずもない。
 しかし、今日ではそんなことを言う学者がいるらしい。さらにそれを元に、だから返書をしなかった日本に非がある、という趣旨の番組を作った日本の公共放送局があったらしい。(大笑)筆者は見ていないが。そもそも手紙全体の内容を無視し、1語だけで解釈して結論を出すなどというのは暴論以外の何ものでもなかろう(笑)
 なお、同文が「元史卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國」に記録されているが、それには「不宣」の文字は無い。それはそうだろう。単なる手紙の結びの言葉であるのだから。まして蒙古と日本はべつに君臣の関係を結んでいるわけではないのであるから、当然手紙の末尾は対等の相手に出す「不宣」なのは当たり前である。

 歴史好きの人には変な「謎解きゴッコ」も好きな人が多いようである。

 そんなことよりも、国家の大事となるかもしれない局面に遭遇した当時の日本人の心情をこそ思いたいものだ。

 

返書案に見る日本人の気概

 蒙古国使が次々と派遣されたために、何らかの返答をするべきとして、実際に草案が作成されたが、文永七年(1270)正月付けのこの文書案にも、
 『欲用凶器。和風再報、疑冰猶厚、聖人之書釈氏之教、以済生為素懐、以奪命為黒業。何称帝徳仁義之境、還開民庶殺傷之源乎。』
 「(貴国は)凶器を用いたいという。聖人や仏教の教えでは救済を常とし、殺生を悪業とする。(貴国は)どうして帝徳仁義の境地と称して、かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか。」
 と記して、まさに武力を背にしての交渉であることを痛烈に指摘している。
 「聖人・・・」のくだりは「聖人は四海をもって家となさん。」の文を受けての言葉である。

 つづく結びの文章はすさまじい。
 『凡そ天照皇太神天統を耀かしてより、日本今皇帝日嗣を受くるに至るまで、聖明のおよぶところ左廟右稷の霊得一無弐の盟に属せざるなし、百王の鎮護はなはだあきらかに、四夷の脩靖みだるるなし、故に皇土を以て永く神国と号す、知を以て競うべきにあらず、力を以て争ふべきにあらず、一二を以て乞い難きなり、思量せよ。』
 「天照皇太神の天統にはじまり今日に至るまで、日本皇帝の聖明は国の果てまで及んで属さぬものなく、代々の王の徳の護りは行き渡ってどこも乱れるところがない。ゆえに天皇の国土を昔から神国と言うのである。知をもって競えるものでなく、力を持って争うことも出来ない、唯一のものであるから、よく考えよ。」

 当時の日本人の思想・気概がよく分かる文章であろう。鎧袖一触の気魄と言うか、まことに勇ましいものがあるが、古代から幾度も外敵をはねのけて来た日本として、まして鎌倉武士政権ならではの気骨もあったろう。
 返書は実際には送られるに至らなかった。そもその、このような無礼な書に返事などする必要はない、という声が多かったようである。返書のことは、衆庶の知ることとなり、京都のある僧などは、返書が撤回されるように神仏に六十日間熱烈に祈願した、と記録されている。『正伝寺願文』

避けられなかった戦争 

 実は、蒙古が日本に関心を向けた時点で、戦いは避けられなかったことは、次の史料からも明らかである。

 『元高麗紀事』至元六年(1269)十一月二日条、『元史』高麗伝至元六年十一月条』
 (抄訳―http://jpnkiryaku.hp.infoseek.co.jp/histo2-3.html「中世日本紀略」サイトより引用。残念ながらこのサイトは閉鎖となった。)
 「枢密院は、高麗の征討について協議した。
 馬亨と言う者が述べた。『高麗は蒙古に忠誠を誓ってはいるが、本心かどうか。隣国である日本の事情について、詳しくないはずがない。今、日本に遣使するというが、日本が(蒙古の)朝廷の命令を聞かなかったら、面目を失ってしまう。かといって、日本は島国だから、派兵も難しい。そこで、高麗を併合すべきである。日本を攻めるために道を借りると称して軍勢を送り込み、そのまま併合してしまってはどうか。高麗を直接治め、軍備を調え、日本と南宋を分断するのだ。』
 馬亨はまた述べた。『兵を動かして、日本を攻めるべきではない。彼らが地形をたのんで、兵糧を山積みにし、堅く守って動かなかったら、打つ手がない。その点、高麗は扱いやすい。高麗は、日本攻撃の巻き添えを食うことを恐れている。また(蒙古)朝廷の命令に従わなかった罪もあるので、内心ビクビクしている。彼らが謝罪してきたら、寛大に接することである。為政者を数人呼びつけて、来朝したら、南宋の罪を数えて、その討伐に加担させるべきである。
 日本に遣使して親仁善隣の道を説くのも、また同じ意味だ。
 南宋を平定してから、彼らに他心が無いか明らかにし、兵を送って平定するというのも、決して遅くはない。むしろ一挙にして両得である。全勝の策である
。今すぐに兵を発したりしたら、敵を作るだけのことだ。』
 他に賛同する者もおり、枢密院は、馬亨の意見を詳しく聞いた。」


 先の先を考えながら布石をしていくのは政治・軍事の常道である。蒙古は、高麗・日本を属国にして出兵させる、という策も検討していたことが伺える。

 結局、日本の運命は、蒙古との通交を受け入れれば、属国にされて蒙古の尖兵として戦争に駆り出されるか、それとも通交を拒否して、蒙古の侵略を武力で防ぐか、いずれにしても戦いは避けられないものだったことが分かる。

属国の運命を高麗に見る

 高麗の使者は、高麗王(忠敬王)からの添え状も持っていた。そこには、
 『況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。但以無外之名高於天下耳。』
 「蒙古皇帝は貴国と通交をしたいだけで、貢献を求めるものではない。天下に名を高めたいだけである。」とあった。しかし、蒙古と通交するということは、蒙古に服属し、命じられるままに貢物を納め、軍兵を差し出さなければならないことを意味するのを一番知っているのは高麗のはずであった

 『高麗伝』から
 高宗十八年(1231)十二月二十三日、
(蒙古の)使者が来た。曰く、「崔瑀から進上された貢物は、欲しくないものばかりだ。別の財宝を持ってくるがいい。また戦いが長引き、兵士の衣服がすべて破れているので、百万人分を調達せよ。馬一万匹を選んで持ってくるように。王子・王女などはもちろん、身分が高い家から子女を供出せよ。また男女一千人を選び、蒙古皇帝に贈ること。これらは迅速に行え。」

 高宗十九年(1232)四月高麗は蒙古に使者を送って奏上した。高麗王は、「臣」と称した。曰く、「要求された貢物が多すぎて調達が困難である。現在集め得たものを贈るので、事情を考慮願いたい」云々と。

 これが属国の運命である。
 更に後には、蒙古の屯田兵のための用地の確保、牛馬の用意、食料の準備も整えねばならなかった。しかも宗主国から尻をたたかれながら。
 文永の役の時にも、そのための戦艦九百艘の費用、その造船工匠役徒ら3万5千名に供給する食糧の調達、8千名の軍兵の提供と、その負担は計り知れず、さらには次のような献上も要求された。
 元宗十五年(1273)三月、元使が高麗を訪れて「南宋の軍人が妻を求めているので、夫のない婦女百四十人を献上するように」と命じた。督促は秋に至るまで激しく行われた。『高麗史』
 ・高麗に駐在する元の役人もまた良家の婦女を求め、美女を選んで強制的に結婚した。高麗王は、何も言わなかった。『高麗史提綱』
 忠烈王元年(1274)十月、処女を元に献上する時期が近づいていたので、国中で結婚が禁止された。『高麗史』
 忠烈王二年(1275)閏三月、元使が高麗に至り、帰附軍のため妻となる女を献上するよう求めた。高麗王は寡婦処女を選別するための監督に金応文ら五人を諸道に派遣した。『高麗史』

 21世紀現代の感覚で、当時の価値観に基づく文化や人々の考え方をどうこうは言えまいが、これが当時の属国の実体である。浅薄な平和論者が元寇のことを語るなら、これらのこともよく考慮したがよい。


朝鮮半島につくられた日本侵略の拠点

 1270年11月、蒙古は高麗に屯田兵を置く計画を立てた。
 1271年3月、蒙古は高麗の金州(朝鮮半島南岸)に屯田兵を展開させた。その規模5千人。

 これをもって日本侵略の準備を始めたと言える。

高麗の三別抄からの書

 文永八年(1271)9月2日、高麗の三別抄から援軍と兵糧を乞う書が来る。
 この書の原文は残存せず、そのことについての記録があるのみである。

 『吉続記』
 『件牒状趣、蒙古兵可来責日本、又乞糶、此外乞救兵歟、就状了見区分。』

 「書の内容は、蒙古兵が日本に責めて来ることと、兵糧と救兵を乞うということである。これについて皆の思案がいろいろと分かれた。」

 高麗の「三別抄」とは何か。当時の日本側のほとんども「何だこれは???」 と思ったことであろう。しかし、蒙古がやはり責めてくる、ぐらいの認識は固まったろうか。

 三別抄とは、高麗にあってはじめ警備のための兵士として集められたものが、やがて恩賞しだいで誰とでも戦争する軍団に成長したものである。当時の権力ある武臣の「爪牙(武器)」として働き、抗蒙派に付いては和平派の有力者を抹殺し、和平派に付いては抗蒙派の首謀を殺害するなど、高麗の権力者同士のさまざまな政争に利用された。やがて三別抄によって抗蒙派の武臣が一掃されると(高麗の武臣政権の終焉)、三別抄そのものも不要になった高麗の王・玄宗は、その解散を命じた。それに怒った彼らは1270年6月に反乱を起こし、抗蒙を唱えて人々の結集を呼びかけたが、その実体を知る人々は乱を恐れて皆逃げ散ったという。高麗の政府軍と幾度となく攻防を繰り返し、拠点にしていた珍島の陥落直後に日本に救援の使者を送った。その後、残党が耽羅(済州島)に移るも、1273年4月、蒙古を含む討伐軍に鎮圧された。

 次のような記録を見ると、彼らが高麗の国や人民のことを思って蒙古に反旗を翻したのではないことが分かる。
 1271年2月に、蒙古が三別抄に降伏を勧めた時に、こう返書を書いている。
 『元史 世祖本紀』
 『乞諸軍退屯、然後内附。而忻都未従其請。今願得全羅道以居、直隸朝廷。』

 「討伐軍を退いてほしい。そうすれば服従する。(蒙古の将軍である)忻都がその要請に従おうとしない。(蒙古皇帝に)お願いする。我々に全羅道を任せたうえで、そこを蒙古の朝廷の直轄領にしてほしい。」

 つまり、領主として全羅道を自分たちに封建して欲しいという要望と言える。やはり、恩賞しだいでどちらにも付く考えは変わらないようである。今ではこの事を、まるで三別抄が元軍の日本侵略を防ごうとしていたかのように大袈裟に言う人があるが、笑止である。彼等は彼等の利害で反乱したり元側に付いていたりしていたに過ぎない。

 日本が三別抄にどう対応したかの記録はない。もちろん救援の乞いに応じることなど考えられないことである。もしそれをすれば即、高麗政府への宣戦布告を意味し、現地での蒙古連合軍との戦争である。まことに自殺行為としか言いようがない。

 

日本、蒙古、それぞれの情報収集活動

 大宰府が独自に日本国使を蒙古に送っていたことが記録されている。どうやら大陸側の情報を収集していたようである。
日本側には史料がないが、元(蒙古)側史料にはこう記されている。

 『元史日本伝(1272年2月条)』
 『「奉使日本趙良弼遣書状官張鐸来言、『去歳九月、與日本国人弥四郎等至太宰府西守護所。守者云、曩為高麗所紿、屡々言上国来伐。豈期皇帝好生悪殺。先遣行人下示璽書。然王京去此尚遠。願先遣人従奉使回報』
 良弼乃遣張鐸同其使二十六人至京師求見。
 帝疑其国主使之来、云守護所者詐也。
(中略)
 姚枢、許衡等皆曰「誠如聖算。彼懼我加兵、故発此輩伺吾強弱耳。宜示之寛仁、且不宜聴其入見。」』

 「日本に向かった国使の趙良弼からこちらに送られて来た張鐸が言った。『弥四郎という日本人とともに大宰府西守護所に着くと、その守護主はこう言った。「前は高麗によって欺かれた。蒙古皇帝は殺生を好まないと言うが、そんなことはない。日本を攻めると何度も言って来ているぞ。先に人を遣って国書を下すよう天皇にお願いしている。しかし京都は遠い。そこで、先に日本国使だけそちらに連れて行くよう願う。」と。』
 趙良弼は、張鐸にその二十六人の日本使を京(蒙古朝廷の都)に送らせた。
 フビライは、その国使を疑い、大宰府西守護所の偽りであると言った。
 (臣の)姚枢、許衡らは言った。『ご賢察であります。彼らは我が軍事力をおそれて偵察に来たのです。寛大さを示すべきですが、会見しないほうがよろしいでしょう』」

 『元史』世祖本紀(1272年3月条)』
 『安童曰、「良弼『請移金州戍兵、勿使日本妄生疑懼』。臣等以為金州戍兵、彼国所知。若復移戍、恐非所宜。但開諭来使、此戍乃為耽羅暫設。爾等不疑畏」。帝称善。』

 「(臣の)安童が言った。『趙良弼が「金州(朝鮮半島南部)の屯田兵を他へ移すよう要請する。日本に疑いを抱かせないために。」と言っています。日本側は金州の屯田兵について知っていると思われます。しかし兵を移すことはありません。ただ日本使には「この屯田兵は、耽羅(三別抄のこと)に備えて仮に設置しているものである。あなた達が疑いおそれる必要はない。」と言いましょう。』
 帝(フビライ)は、それは善い考えであると褒めた。」

 日本側の行動を蒙古側は、国使という名目の偵察活動であると認識しているが、その通りだったろう。いずれにしても金州の屯田兵のことを日本側は把握していたと思われる。
  他にも、『高麗史節要巻十九 元宗四年(1272)7月』に、「慶尚道の安撫使(地方の軍事民政を司る官)が、金州に来た日本船と通交していたことが発覚して捕縛され、やがて殺された」という記事がある。
 この金州に来た日本船もまた情報収集の動きのひとつであったろうか。

 一方、蒙古側も周到に情報収集をしている。蒙古側の国使によるものである。とりわけ、三別抄の書が来てすぐの9月19日に、返書を求めて来日した蒙古の国使趙良弼は、そのまま1年以上日本に滞在し、つぶさに太宰府付近の地理を観察したり国政や風俗について調査している。
 これは、2年後の文永の役に生かされたようだ。蒙古連合軍の博多上陸の様子やその後の行動は明らかにこの時の情報に基づいたことが伺われる。
 かたや日本側の情報収集はどう生かされたであろうか。攻めてくるのは屯田兵5千人ぐらいだろうと、かえって見誤った可能性もある。また、相手の戦争の仕方が兵と兵の戦いのみならず、民百姓も含めた皆殺し方式であり、女も子供も拉致連行し、米も財貨も略奪し尽くし、捕獲した馬まで食べてしまう、という戦い方であることまでは知っていなかったであろう。
 文永の役の後、またのこのことやって来た国使を、執権時宗は斬り捨てさせているが、それは文永の役の時に壱岐・対馬島民が受けた残虐行為を憤ってのこととある。やはり、かの国の戦い方を知ってはいなかったということの証であろう。

 元寇からおよそ百年後の建徳元年(応安ニ年)に来日した明国の趙秩という者は、かつての国使趙良弼の子孫と疑われて危うく斬られそうになったという記録がある(『桜雲記』)。かくも元寇の時の恨みと疑心は当時の日本人の骨髄にまでしみこんだらしい。


後の高麗王(忠烈王)、日本侵略開始をフビライに進言する

 高麗王元宗の子、 ェ(しん、後の忠烈王)がフビライの前に参内し高麗に帰る際に、こう進言した。

 『高麗史 元宗十三年(1272)3月』
 『世子 ェ云、「吾父子、相継朝覲、特蒙恩、宥小邦人民、得保。遺瞧 感戴之言不可。既 ェ 連年入覲、毎荷皇恩、区々之忠、益切致効。惟彼日本、未蒙聖化。故発詔、使継糴軍容。戦艦兵糧、方在所須。儻以此事委臣、庶幾勉尽心力、小助王師。」』

 「世子 ェは言った。『私ども父子は相次いで天子の前に参内し、ひときわ御恩をこうむり、私どものような小国の人民をなだめていただきまして、国を保つことを得ました。目もくらむばかりで、戴いた事への言葉もありません。すでに私は連年して参内しております。つねに陛下のご恩を受け、ささやかな忠義をあらわしたいと切に思っているところでございます。思いますに、あの日本は、いまだ陛下の聖なる感化を受けておりません。ゆえに命令を発して我が軍の装備や糧食を整えさせました。今こそ戦艦兵糧を使うべきです。わずかではありますが、臣たる私めにお任せくだされば、つとめて心力を尽くし、帝の軍をいささかでもお助けできますことを切願しております。』と。」

 まことに属国の王子たるにふさわしい殊勝な物言いではなかろうか。フビライが目を細めて耳を傾けているさまが目に見えるようである。
 しかし日本にとっては、卑劣極まる侵略開始の進言である。もちろん、大国に翻弄される小国高麗の哀しき「事大主義」ではあるが。
 ちなみに、この時に彼が蒙古式の髪型と服装で帰国した様子が記録されている。即ち、
 「(わが国の人々は)世子の弁髪・胡服を見てみな嘆息し、泣く者あるに至る」と。『高麗史』


高麗、戦艦大小九百艘を造船する

 1274年正月、蒙古は高麗に対し、日本侵攻のために戦艦建造を命じた。
 高麗側では、蛮用(南宋様式)では手間もかかり期日に間に合わないので、わが国の様式にしたとある。

 『高麗史列伝巻十七 一百四の十』
 『若依蛮様、則工費多、将不及期』
 『用本国船様督造』

 高麗様式だったからお粗末だったとか、手抜きだったという記述はない。なにしろ蒙古・漢(女真族)軍2万5千、高麗軍8千、水夫6千7百が乗る船である(『高麗史』)。なにより自分の国の兵士が乗るのであるから。

忠義の高麗

 フビライは、これら積極的な協力姿勢を持つ高麗を忠義な国と感じていたらしい。世子(後の忠烈王)に自分の娘を与え、婿にしている。さらには名前に「忠」の字を与えて、代々名乗らせている。また、妻もすべて蒙古人である。

 第23代 1213-1259 高宗安孝大王 (忠憲王)
 第24代 1259-1274 元宗順孝大王(忠敬王)
 第25代 1274-1308 忠烈王
 第26代 1308-1313 忠宣王
 第27、29代 1313-1330 1332-1339 忠粛王
 第28、30代 1330-1332 1339-1344 忠恵王
 第31代 1344-1348 忠穆王
 第32代 1349-1351 忠定王
 

 忠義の人間という者は、味方にとっては頼もしいが、対立する側にとっては時に残酷な存在となることがある。
 つまり、やりすぎるのである。
 文永の役の時に次のような残虐行為がなされたことが記録されているが、これはどうも高麗が関与しているように思われる。

壱岐・対馬の無残

 『日蓮註画讃』
 『二島百姓等。男或殺或捕。女集一所。徹手結附船。不被虜者。無一人不害。』

 「壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を一カ所に集め、手をとおして船に結わえ付ける。虜者は一人として害されざるものなし。」

 また、『一谷入道御書 建治元年五月八日』にも
 「百姓等は男をば或は殺し、或は生取りにし、女をば或は取り集めて、手をとおして船に結び付け、或は生取りにす。一人も助かる者なし。」

 日本人を拉致してきたことは、高麗側の記録にも残っている。
 帰還した高麗軍の将軍が、2百人の男女の子供を高麗王とその妻に献上したと。
 『高麗史節要』
 『俘童男女二百人献王及公主。』

 また捕らえた女の手に穴をあけて徹したことの記述であるが、
『日本書紀天智帝二年紀』に、『百済王豊璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛。』
「百済王豊璋は、鬼室福信に謀反心があるとして、手のひらに穴を穿って革紐をとおして縛った。」

 とある。
 百済の時代にもあった朝鮮半島伝統の風習らしい。

 興味あることに、現代においてもそれがかの国には残っていることが韓国の新聞に報道されている。(http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2002/04/24/20020424000001.html)
 朝鮮日報2002/4/24付
 それによれば、2002年4月16日に中朝国境付近の中国側で、北朝鮮の保安員(警察)が脱北者100人余りの集団を連行する姿を、あるアメリカ人が目撃したという。脱北者たちのほとんどは30〜40才代の男性で、20代の女性や年寄りの女性や子供も何人かおり、彼らは、手に針金を突き通され、さらに鼻にリングを刺してそれも針金に通された姿だったと言う。保安員等はトラックの荷台に彼等を乗せ、その時、針金をトラックに結わえ付けていたという。

 まことに、想像するのも寒気がする光景である。拉致と残酷行為は、あちらの文化なのであろうか。
 先の『高祖遺文録』は、
 『皆、人の当時の壱岐対馬の様にならせ給わん事思いやり候へば、涙も留まらず。』と結んでいる。

 

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とりあえず年表

蒙 古
朝鮮半島
日 本
 

新羅は国政に失敗して民が飢え、山賊に首都が荒らされるようになった。
813年、新羅の賊1100人が日本の平戸を侵略。日本人9人を殺して、100人余りを連行する。

弘仁四年(813年)、新羅の賊1100人が平戸に来寇し、日本人9人を殺して100人余りを連れ去った。
  871年5月、新羅の船2隻が日本の博多湾に侵入し米などを略奪する。 貞観十一年(871年)5月22日夜、新羅の船2隻が博多湾に侵入し、豊前国の年貢を奪って逃走した。
    貞観十五年(873年) 朝廷は、出雲、石見、隠岐等国に命令を下して、新羅の賊行為に備え、警戒を固くさせる。
  新羅の賊船、日本海に展開する。 元慶四年 (880年) 但馬国に新羅の不審船が出没し、但馬、因幡、伯耆、出雲、隠岐国等に、改めて厳戒令が敷かれる。
  894年、新羅いよいよ経済困窮。国王が、日本に行って穀物を奪ってくるように命令。それを受けて、6月2500人が45隻の船で対馬を襲う。しかし対馬側との戦闘で302人の戦死者を出して引き揚げる。 寛平六年(894年)6月、新羅から賊2500人が45隻の船で対馬に来襲し、文室善友らが士卒100人を率いて防戦にあたった。のみならず、これに加えて島分寺の僧・面均など島民も戦闘に参加した。合戦には、賊302を射殺して勝利した。
捕虜を問いただすと、新羅の国王の命を受けたとのこと。
    延喜六年 (906年) 隠岐に新羅船が出没したが、台風により沈没。
  935年新羅滅ぶ。高麗が朝鮮を統一。  
    天慶五年 (943年) 隠岐に新羅の賊船7隻が漂着。賊か難民かは不明。
    天禄三年(972年)9月、大宰府が高麗使の対馬来着を報ずる。10月、大宰府に命じて高麗に返書を与える。
  998年、高麗の賊が壱岐対馬を侵略し、肥前にまで迫った。 長徳三年(998年)高麗の賊が壱岐対馬を侵して肥前に迫り、奄美島民が筑前筑後薩摩壱岐対馬に攻め寄せた。
  999年2月、高麗の賊が大宰府から討伐される。 長徳四年(999年)2月、高麗の賊を大宰府が討伐する。9月南蛮の賊を大宰府が討伐する。
  1014年、高麗の賊が九州に攻め寄せ大宰府に討たれる。 長和三年(1014年)高麗の賊が攻め寄せ、大宰府が討伐する。
   

寛仁三年(1019年)、50余隻の船団が来襲し、壱岐、対馬、筑前糸島、志摩・早良諸郡を荒らし物資を奪い家屋を焼き払い、老人子供は殺して丈夫な者だけを拉致。ついに博多に迫る。
日本側は、大宰権使藤原隆家・大蔵種材や在地の豪族らが応戦撃退。逃げる敵を追って船三十艘で追撃。ついに追い払った。
十数日間に渡る戦闘だった。刀伊の入寇

    承徳元年(1097年)、異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せる。大宰府官兵・九州軍士大いに守り、賊船を撃破し賊徒数万を海没させた。元寇に至る外国からの侵略の中でも最大規模のもの。この時は民衆からも兵を募ったと考えられる。
1206年、テムジンがモンゴルを統一。
   
  高宗十二年(1225年)、蒙古の使者が何者かによって殺される事件が発生。  
1231年、蒙古軍が高麗に向かう。 高宗十八年八月(1231年)蒙古兵が来襲。降伏を勧めて従わないものは殺し、降伏してきたものは尖兵として使って各地を攻めた。開戦から三ヶ月で高麗の首都・開京に迫った。高麗王は降伏。以後蒙古の臣として朝貢す。地方では抵抗が続く。  
  蒙古軍、高麗の各地の占領地に行政官を置いて引き揚げる。
高宗十九年(1232年)高麗王、江華島に遷都。
 
1234年、蒙古、金を滅ぼす。    
1235年、蒙古軍、再び高麗へ。    
  1259年、蒙古の属領となる。
三別抄の台頭。警備のための兵士として集められたものが、やがて恩賞しだいで誰とでも戦争する軍団に成長。「権臣の爪牙」として働く。有力な権力者の「武器」としてさまざまな政争に利用された。
 
1265年、高麗人の趙彜(ちょうい)という者が、フビライに日本国との通交を勧める。 三別抄、時に抗蒙派また和平派の権力者側につき、それそれの政敵の抹殺をする。  
    文永五年(1268年)、高麗の潘阜が世祖フビライの国書と高麗王の副書を持って来る。
至元六年(1269年)11月、蒙古の枢密院、高麗征討、日本平定後の戦略を協議する。    
  1270年、蒙古に対して和平派である高麗王・元宗は、抗蒙派の武臣の部下を諭し、それにより部下は三別抄にその抗蒙派の首謀者を殺害させる。(武臣政権の終焉)
これにより、三別抄が不要になった元宗は、その解散を命ずる。
 
  1270年6月、解散を命じられた三別抄が反乱を起こし、珍島に拠点を構える。高麗政府軍と三別抄の戦闘続く。  
1271年9月、趙良弼を国使として日本に送る。
11月、五代皇帝フビライが国号を大元と定める。
1271年3月、蒙古が高麗に屯田兵を展開(日本侵略の準備)。
1271年4月、三別抄が展開している珍島が高麗政府軍の攻勢により陥落。
三別抄の残党、日本に援軍と兵糧を乞うて書を送る。その後、耽羅(済州島)に拠点を移す。

文永八年(1271年)9月2日高麗の三別抄から援軍と兵糧を乞う書が来る
同年9月19日、国使趙良弼が大宰府に来る。1年以上日本に滞在し、太宰府付近の地理を観察し、国政や風俗について調査する。
弥四郎ら二十六人の日本国使、蒙古に渡る。
1272年3月、高麗王元宗の世継ぎ(後の忠烈王)がフビライに、日本征伐を勧め、そのために高麗軍の装備を整えていることを告げる。 1272年7月、慶尚道按撫使の曹子一、元の屯田兵(約5000)が展開する金州(朝鮮半島南部)において日本船と通交したことが露見して捕縛される。後に処刑さる。  
  1273年4月、元軍を含む討伐軍、耽羅島の三別抄残党を鎮圧。  
1274年正月、元は高麗に対し、日本侵攻のための戦艦建造を命じる。 1274年、高麗、戦艦大小九百艘を造船する  
     
     
     
     
     
     
     
     
     
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