「あかつき」さようなら 42年余の歴史に幕2008年02月09日 長崎と京都を結ぶJRの寝台特急「あかつき」が3月15日のダイヤ改定に伴い、42年余の歴史に幕を下ろす。長崎―東京間をつないだ寝台特急「さくら」が05年3月の改定で廃止されており、長崎からは「ブルートレイン」がすべて消えることになった。全盛期には「走るホテル」とも呼ばれ、庶民のあこがれでもあった。ラストランの前に、その姿を目に焼きつけようとホームに立った。
◇ ◇ 午後7時31分。JR長崎駅の4番線に、青い車体が入ってきた。通勤や通学客らが次々に駆け込む向かいのホームとは対照的に、乗客たちがゆっくりと近づく。カメラを構える乗客も数人いた。 「これから京都にいる長男に会いに行くんです」。両手に荷物を抱えた平野義信さん(72)=長崎市=に行き先を尋ねると、そう教えてくれた。長男が関西に進学した15年ほど前から、妻の加代子さん(64)とともに年に数回は利用するようになった。 かつては狭い3段ベッドだった寝台はいま、幅70センチ、縦1・95メートルの2段に広がった。上下の空間は約1メートル。「家にいるみたいにぐっすり眠れるんですよ」。乗車は約12時間に及ぶ。夜乗り込み、朝早くに到着するため、丸1日を使って京都観光も楽しめる。 近年の乗客の減少は、夫婦の目にも明らかだ。かつては上段まで埋まっていたベッドは、空きが目立つようになった。この日乗り込んだ9号車は、ほとんど下段しか埋まっていない。乗客がまばらな車両も多いように見えた。 「きょう乗るのが最後かもしれない」 モーター音の響くホームで平野さんは言う。 「夜が明けようとするとき」を示す名を冠した寝台列車が、関西と九州を結んで42年余りが過ぎた。西端に位置する長崎の市民にとって、寝台で東京や大阪の大都市へ向かうのがあこがれだった時代がある。青い列車は、数々の出会いと別れを運んできた。 五島市出身の臨床検査技師、藤山澄代さん(52)=長崎市=は14歳の春、複雑な思いであかつきに乗り込んだのを忘れない。中学2年まで福江島の学校に通ったが、3年からは兄の大学進学にあわせて東京の中学に通うことになった。「東京で暮らしていけるんだろうか」。フェリーで長崎港に着いた後、不安と期待が入り交じったまま、列車に飛び乗った。 福江に帰省する際にも利用した。大阪に移った学生時代は盆暮れのピーク時に切符を取るのにひと苦労した。半日に及ぶ旅で、隣り合った乗客と世間話に花を咲かせたのも懐かしい思い出だ。 いまは利用することはなくなった。「廃止は寂しいけれど、時代の流れなんでしょうか」 午後7時47分、発車の汽笛が鳴った。客車を牽引(けん・いん)する先頭の赤い機関車の二つのライトが正面を照らし、レールをどすんと重く響かせながら少しずつ速度を上げる。 闇夜にまぎれた車体の後ろに、白い「あかつき」の文字がくっきりと浮かんだ。 ◇ ◇ JR九州長崎支社によると、あかつきが九州と関西を結ぶ夜行特急として運行を始めたのは、1965年10月。当時は新大阪と長崎、西鹿児島を結んでいた。68年からは佐世保を発着する列車も登場し、00年の廃止まで走り続けた。74年のピーク時には、あかつきは1日計7往復で九州各地と結んでいた。91年からは終着駅が、新大阪から京都まで延長された。 同社の調べでは、89年度に709人だった1日の往復利用者は、06年度は107人に落ち込んだ。新幹線や飛行機、夜行バスに利用客を奪われたのが最大の要因と関係者はみている。 あかつき以外にも、ブルートレインは九州から次々に消えている。05年に「さくら」が廃止され、今回のダイヤ改定ではあかつきとともに「なは」(熊本―京都)も廃止されることが決まった。「はやぶさ」(熊本―東京)、「富士」(大分―東京)もJR各社が廃止を検討している。 長崎発のあかつきが最後の運行を迎えるのは、3月14日夜。当日は出発式典を予定し、乗車券は1カ月前から売り出す。
あかつきの運行廃止にあわせてJR九州長崎支社は1日から、記念乗車券や記念酒の販売を始めた。数に限りがあるため、同社は「二度と手に入らない記念品。早く購入してほしい」と呼びかけている。
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