サハリン残留日本人@ [2007年06月23日(土)]
サハリン州のファルフトジノフ知事(当時)を囲んでの懇親会で 盃を交わした記念写真。 左から、エリザリエフ国際局長(元ソ連共産党サハリン州第1書記)、 森敏光ハバロフスク総領事(のちにカザフスタン大使、 現在みちのく銀行顧問)、 「海峡太鼓」の阿部勇氏、知事、鎌仲秀晴「海峡太鼓」事務局長、 鈴木宗男氏、筆者。 阿部氏のアルバムの写真を、今回再会した時、カメラで撮影したもの。 10年前の話だから、正直に書きたい。 鈴木宗男氏と私はしたしかった。 いろんなことをいっしょにやったが、 「少なくとも私」は不正にはいっさい関わっていない。 鈴木氏もそうであってほしいと願っている。 鈴木氏とは、北方領土問題を解決して、 ロシアとの真の平和・友好・協力関係を築きたいという点では たぶん同じだが、 いかんせん、4島返還のプロセスについては あまりに立場が違う。 「2島返還で平和条約、面積93%の国後・択捉は継続協議」 などということができ、大きな2つの島が返ってくるとは、 とうてい思えない。 いまでさえ、まともに交渉していないロシアが、 平和条約締結後に真摯に返還交渉に応じるなどというのは あの国を甘く見すぎている。 それはともかく、私たちは協力して、 サハリン(樺太)に約90名の 「綺麗どころ」(鈴木宗男釧路後援会)からなる盆踊りチームと 稚内の「海峡太鼓」の「若者(当時!)」みなさん10人を サハリンに送り、 鈴木氏も私も同行した。 遺憾ながら、その後、同氏とは 決定的に袂を分かったことについてはいずれ、 書くことにしたい。 「北海盆歌」をはじめとする昔からの盆踊りが、 未だレーニンの銅像のある 州都ユジノサハリンスク(旧豊原)の「レーニン広場」や 西海岸のホルムスク(旧真岡)の公園で 賑々しく行われた。 最初に輪に入ってきたのは、朝鮮系の女性たち。 「もう、懐かしくてなつかしくて」と鈴木氏や私に抱きついて 涙を流していた。 朝鮮系の人々は今でも5万人近く残留している。全人口の1割だ。 敗戦時、「血統的日本人」は帰還を許されたが、 朝鮮人は労働力としてサハリンに「強制的に残留」させられた。 盆踊りの輪に次に面白がって入ってきたのはロシア人女性。 遠くからそうっと見ていて、 ずいぶん盛り上がってからおずおずと加わったのが 日系の女性たちであった。 「どっからきたんだすか?」 その一言だけで 私にはこの人がわが故郷・秋田の出身であることが分かった。 佐々木さんという名前の方だった。 「そろいの法被(はっぴ)を着ている踊り手は 北海道の釧路から、太鼓の叩き手は稚内からです。 おばさんは秋田でしょう?」 「あえしかだねごど。秋田弁まるだしだものな」 「ボクも秋田だす」 「秋田のどこだげ?」 「秋田市土手長町34番地の生まれだす」 「おら家(え)は能代だども、 おがはん(母親)は秋田の土崎の人だったす」 「あえしかだねごと。 おらえも、かあさんは土崎の出身だし・・・」。 もうこうなると、 われら秋田の楽天主義はDNAの作用となって 留まることをしらない。 翌日には、貴重品であるはずのおにぎり、梅干、沢庵を 差し入れてくれた。うれしかった。 そのときの「海峡太鼓」のメンバー6人と、 このほど稚内で再会した。 持つべきものはよき友なり。感激! |
Posted by
吹浦 忠正
at 09:25