「ニセ科学批判者」を批判する   2007.09.10


科学的に未解明な現象を利用して、それをビジネスに結びつけようとする活動を、「ニセ科学」と呼んで批判する人々がいる。
しかしながら、それらの人々の主張には、論理的に間違っていることや、科学的に間違っていることが多々ある。
また、批判の方法が社会的な常識から逸脱している面がある。

私は早くからそれらの点を指摘し、彼らの反省を促してきたが、彼らは自分たちの主張に固執して他からの批判を受け入れない。
旬日後に 「ニセ科学批判者」を批判する と題して講演することを依頼されたので、その準備もあって、この機会に私の考えを要約しておこう。

1 ニセ科学批判者たちは言葉を大切にしない
2 他者をいきなり攻撃するのは良識に反する
3 国立大学のサイトを利用するのは不当である
4 科学者としての行動規範を逸脱している
5 科学的な間違い、論理的な間違い、安易な断定、が多い

順番に見ていこう。


1 ニセ科学批判者たちは言葉を大切にしない

そもそも、「ニセ科学」というネーミングが不適切である。
彼らが攻撃している対象は「科学的な装いをして展開されるビジネス」である。
目的語はビジネスであって「科学」ではない。

たとえば、彼らが「マイナスイオンはニセ科学」と言うとき、その意味は、「マイナスイオンという、科学界では認められていない名前を冠して行われるビジネスは詐欺的である」という意味であり、そういう意味でしかない。

しかし、この中で、「マイナスイオン」という名前が科学界で受け入れられていない、というのは、彼ら数人のニセ科学批判者たちの一方的かつ、そう長くは続かない一時的な主張でしかなく、世の科学者がみな「マイナスイオン」など存在しない、そんな名前の使用は許さない、などと狭量なことを言っているわけではない。

マイナスイオンとは英名「ネガティブイオン」の日本的表現である、という共通の理解のもとに、マイナスイオンという名詞が一般的に使用されることに、専門家であるほど寛容である。不寛容な科学者はむしろごく少数であって、それは、ニセ科学批判を展開している、指折り数えられるほどの者しかおらず、しかも彼らは一様に、大気イオン学についてはシロウトでしかない。

実際問題として、国立の研究機関である(あった)産総研から「マイナスイオンについての特許」が出ているし、大学の医学部でもマイナスイオンの健康効果に関する論文がいくつも出ており、世の中はそれで不都合なく動いているのである。

したがって、上記の表現から「科学界では認められていない」という勝手な評価は不要部分として削除するのが適切である。

すると表現は「マイナスイオンという言葉を利用して行われるビジネスは詐欺的である」と短縮でき、それはさらに短縮して、「マイナスイオンのビジネスは詐欺的である」ということになるだろう。さらに縮めれば「マイナスイオンはニセビジネス」となるのである。

ところが驚いたことに、ニセ科学批判者たちは、これを縮めて「マイナスイオンはニセ科学」と言うのである。
全然違う話である。なぜ急にそのような倒錯におちいるのか、まったく異常な言語感覚であるが、このような異常なネーミングは、菊池誠氏のセンセーショナリズム、つまり注目を集めたいという不純な気持ちと、事柄を自分たち「自称科学者」の手元に留めおきたいという、潜在的な欲求からもたらされたものである。

ことは簡単で、「マイナスイオンの効能を科学的に実証も検証もせずに、マイナスイオンに効果効能があるかのようにうたって行われるビジネス」が、もしあるとすれば、それは「ニセ科学」ではなく「ニセビジネス」なのであって、それを縮めて言うならば

「マイナスイオンはニセビジネス」   としかならないのである。

ところが、そのように常識的で正しい表現にすると、そのようなビジネスで被害が発生しても、それは司直が裁くべき問題であり、仮にそのとき司直から鑑定や評価を求められれば、科学者が協力することもあるという、その程度の当たり前の問題でしかなく、菊池氏ら自称科学者たちの出番がなくなってしまうのである。
つまり、「おれは科学者だ」としゃしゃり出てきて、世の人々の科学的知識のなさを嘆いたり、日本の科学教育を心配したりする、そんな問題では全然ないという、初めから当たり前のことが明白になってしまうのである。

だからニセ科学批判者たちは、そこの表現をわざとすり替えることで、「ニセビジネス」を「ニセ科学」と言い換えることで、世間をだましている。その実、だまされているのは自分たち自身であって、これは科学者にとって大切な問題だ、などと自己陶酔している。

これが昨今はやりの「ニセ科学批判」の実体である。
菊池氏らを冷ややかに見ている科学者も多い。


2 いきなり攻撃するのは社会の良俗に反する

インターネットという、誰でも容易に自分の主張を発信できるメディアができたおかげで、それまでならマスコミなどに登場することも無かった人が注目を集めるようになった。
「水商売ウォッチング」の天羽優子氏も、その一人である。

彼女は数年前、ポスドクの就職浪人でしかなかった。
それがお茶の水女子大学のサイトを勝手気ままにあやつり、問答無用でいきなり企業を名指しで批判するという「斬新な手法」で世間の注目を集め、彼女自身が言う「自分の将来をかけた」それらの書き込みが奏功して現在に至っている。

彼女がとったやり方は、インターネット上で企業のホームページ広告を探し出し、そこに科学的に間違った表現を見つけて、問答無用で名指しで批判する、そしてそこにお茶の水女子大学の名を冠する、というやり方だった。
それは「注目を集めたい」という彼女の目的には合致した方法だったが、「世の人々の科学的な間違いを正す」ということが目的ならば、社会常識から逸脱した方法である。

常識的で穏当な方法は、科学的な誤りを見いだしたら、直接その当人に注意して改めさせる、というものである。もし改めなければ、その場合は実名で公表する、ということはあってもよいかも知れない。自分との利害関係がないときにそういうことをするのは、自分が司直であるかのように思い上がった行為ではあるが、まぁ、そういうステップを踏めば、社会に受け入れられなくもないだろう。
しかし彼女はそのような方法はとらなかった。
それでは、彼女にとって無意味だからである。

そして彼女は、山形大助教授となった今もなお、まったく同じ攻撃方法をとっている。
そして実は、ニセ科学批判者の全員が同じやり方をしているのである。

彼らは、相手の「間違い」を見つけると、いきなり名指しで攻撃して平気である。そして大学のサイトに匿名掲示板あるいはコメント欄を作って、匿名者があれこれ書き込むことを許し、相手をさらし者にして平気である。平気どころか、良いことをした気になっている。

これは社会的に不当なやり方である。
特に大学教授などの顕職にある者がとるべき行動ではない。


3 大学のサイトを利用するのは不当である

ニセ科学批判者の特徴は、彼らが大学の教員、とくに国立大学の教員であることだ。

インターネットで自由に発信できる時代になったと言っても、民間会社の社員が、社名と氏名を明らかにして、自分と直接の利害関係のない相手をインターネット上で名指しで批判することはあり得ない。
国公立でも、官庁や研究機関、高校などの職員も、そういうことはしない。
なんらかの組織に属している人間は、いずれも組織の論理が優先するから、個人の意見を軽々に発表することはできないのである。

大学の教員だけが例外である。彼らは組織に属していても、組織や上下関係のしばりをそれほど受けていない。身分も保障されていてそう簡単にはクビにならない。時間的にも、教務や雑務がそれほど多くない者は使える時間もたっぷりある。
彼らは世間一般よりも知的レベルが高いから、そういう彼らが、世の中のさまざまな事象を評価したり、批判したりすることは、彼らに期待される職能のひとつであろう。文科系の教員の一部ではそれが本業ともなっている。

しかし、その意見発表の場として、大学の公式サイトが適切かどうかは疑問である。
意見というのは、しょせんは「自分の意見」あって、大学の公式見解ではないからだ。
たとえば、お茶の水女子大学のホームページの目的は以下のようになっている。

第4条  お茶大ページは、教育、研究および社会貢献活動を支援する学術情報ネットワークとして、学内および社会に対して、本学の教育、研究および社会貢献等に関する情報を積極的にかつ広く公開または発信することを目的として運営される

これは、たまたまお茶の水女子大学から神戸地裁経由で送られてきた、ホームページ運営ガイドの中にある文章だが、他の大学でもほぼ同じだろう。
大学のホームページの目的として明快である。

では、大学の教員の個人個人が、自分に割り振られた大学公式サイトで、自分の研究や教育以外の、さまざまな世事に関する、教員個人の考えを表明することは、大学のホームページの目的に合致しているだろうか。


私は、大学ホームページのそのような使い方は、上記のお茶の水女子大学のガイドラインから考えても、目的から逸脱していると考える。おそらく、ほとんどの大学教員も同じ考えなのだろう。だから、ほとんどの大学教員たちは、そのような使い方はしないのである。

現実を見ると、ほんの数人の大学教員だけが、そのような使い方をしている。
指折り数えるほどのごく少数の大学教員だけが、大学の公式サイトを「わがもの顔」に使い、自分の意見を述べるだけでなく、学外の人間や会社を名指しで誹謗中傷している。
それが現状である。

自分の個人的な意見を述べたいのであれば、大学支給の公式サイトではなく、自分でサイトを開いて、そこで発表すべきである。それが社会の常識というものだ。大学の公式サイトは本来的に、個人の意見発表のためにあるのではない。

大阪大学の菊池氏は、ニセ科学批判は発信源が大学であることに意味があるのだ、と言っている。しかしその理由や論理を彼が示すことはない。阪大は国の財産を使っているのだから、私物化とも見える彼の使い方について、彼は国民にきちんと説明する義務がある。しかし彼はそうしない。説明する、と言ったが、実行しない。

個々の教員の、世事に対する個人的な意見が、学外の誰かの名誉を傷つけたり損害を与えたりした場合に、大学としては責任のとりようがない。だから大学はそのような事態を想定していないし、各大学の運営ルールを見れば、実際にはそのような使用法は許可していないと解釈すべきである。

その上、それが国立大学の場合は、国立の機関として国民に公平に中立的に接する義務があり、勝手な判断で特定の国民を、名指しで誹謗中傷することは許されないのである。

ましてや、大学の公式サイトに、世間の誰でも匿名で書き込みができるような掲示板やコメント欄を設けることは、まったく論外と言うべきである。そこに匿名者が誰かの名誉毀損になり、営業妨害になる書き込みをしたら、大学当局はどう責任をとるのか。削除すればよいという話ではない。

大学は単なる場所貸し(プロバイダー等)ではない。大学の公式サイトから発信された情報の責任は、最終的にすべて大学にある。当たり前だ。それが世間の常識だ。

○○電器産業という大会社がホームページを作って、事業部ごとにページを割り振ったとして、そこに何か不当な表現があったとき、責任は誰にあるか。
個々の事業部ではなく、○○電器産業本体が責任を負わねばならない。当然だ。
「不当な表現だ」と世間からクレームが来たとき、広報部が、「文句があったら我が社が定める書式に書き直して提出しろ」などと返事をしたら、その会社はつぶれるだろう。

事態を放置している大学に大きな責任がある。

いま、私は、お茶の水女子大学を神戸地裁に提訴しているが、その主旨は、お茶の水女子大学は自らの責任を果たせ、ということである。


4 科学者としての行動規範を逸脱している

これには2つある。

一つは、相手がほとんど宗教的領域のことを述べているときに、それが科学的にナンセンスだと攻撃していること、
もう一つは、科学者としての役割を越えて、相手を社会的に断罪して、まるで自分が司直であるようにふるまっていることである。

第一の点は、江本勝氏の「水からの伝言」に対する批判に顕著だ。

江本氏が述べていることは、半分は科学的なことだが、あとの半分は科学の領域を超えたことであり、江本氏自身がそれをポエムと言い、ファンタジーと言っている。ニセ科学批判者たちはそのファンタジーの部分を、自分は科学者だ、あれは科学的に間違っている、と攻撃している。

しかしそれは「キリストが生き返ったはずはない、あれはウソだ、宗教を広めるためのペテンだ、おれは科学者だから間違いない」とキリスト教を攻撃するようなもので、実にセンスの悪い話である。
それどころか、さらには、「追実験をして否定しろ、それが科学立国だ」などと言う人まで現れてくる。ファンタジーの追実験など出来るわけがない。議論のレベルの低さに呆れてしまう。

そして彼らは、「水からの伝言」が小学校の道徳の授業に使われることを攻撃する。
その攻撃は当然、その授業をする小学校教諭に向けられなければならないのに、彼らは何を血迷ったか、江本氏のファンタジーそのものを躍起になって攻撃し、学習院大学の田崎氏に至っては、インターネットで小学生に直接、「君たちの先生を信じちゃいけないよ」と呼びかけるという、教育界の掟やぶりを平気でしている。重ね重ねの迷走ぶりである。

そもそも、「水からの伝言」の社会的影響を批判する、という行動そのものが、彼らの力量をはるかに越えている。彼らにはそんなことをする力量も資格もない。彼らには哲学とか宗教とかの知識も経験もまったくないし、社会を変えよう、正そう、という覚悟もない。科学分野でそこらの大学に職を得た者が、おれは科学者だ、と言って、ヒマに任せてインターネットで遊んでいるだけである。

ついでに言うと、江本氏の報告で科学的に意味があるところは、「水が結晶を作る」という事実そのものと、水の来歴によって結晶の出来方に差がある、という2点である。
これらのことは科学的に追試すべきことだろう。それをせずに、あるいは、それもできずに、批判の合唱をするのは、身の程知らずである。


第二の点は、キクログ、こなみ日記、水商売ウォッチング、事象の地平線、などのニセ科学批判サイトにおいて、相手の実名を上げての企業攻撃がさかんに行われていることである。しかも匿名のコメントが多く、そこでは現実に名誉毀損や営業妨害が頻発している。それは科学者の役割を越えたことである。

仮に、ある企業の製品に、科学的に問題があると思ったとしても、それをいきなり、大阪大学だ、お茶の水女子大学だ、という名前で指摘、公表することは、社会的に大いに問題である。彼らはまるで、自分が司直であって勧善懲悪の権利を持っていると思っているようだ。
しかも彼らは現物を試すどころか、見ることもせずに、カタログだけで批判する。
中小企業のカタログの理学的記述など、間違っていて当たり前だ。
しかしそれは、現物がインチキであることを意味しない。
科学者ならば、せめて現物を見てから批判すべきではないか。

ただし、現物を見た例も、ないではない。
天羽優子氏は、「私は、司直から持ち込まれた案件を指導教授と実験検証して、業者の言うことが間違っていることを立証して見せた、これは立派な科学者の仕事だ」と自慢している。
(私は、それは検査技師の仕事で、科学者の仕事とは思わないが)

ともかく、結局その業者はインチキ業者として、司直に処分されたのだろう。
だから天羽氏は自慢するわけだ。

しかし、たとえば、私が作っている磁気活水器から出てくる水は、水の成分だけを見る分析方法では何も分からない。成分は変わらないからだ。
おそらく、富永研究室の得意な「ラマン散乱」でも分からないだろう。
分からない方法で調べて、分からないからこの業者はインチキだ、と言うのだとしたら、それは科学者のやることではない。行政の検査機関がやればよいことだ。
科学者は、私の手法では分かりません、今の科学では分かりません、としか言えない。
それが科学者の矜持であろう。

また、科学者の観点から批判する、と言いながら、その批判の矛先は相手企業のビジネスの形態にまで及ぶ。そして、あいつは儲けすぎだ、あれは金儲けが目当てだ、あの販売方式は犯罪だなどと、自分の専門外のことを、大学の名を冠して言いつのる。増長もはなはだしい。

彼ら「ニセ科学批判者」たちは、科学者としてなすべきことをせず、その一方で、科学者としてなすべきではないことをしている。



5 科学的な間違い、論理的な間違い、安易な断定、が多い

これは、このサイトで私がこれまでルル述べてきたことである。そして今に至るまで、それらの指摘に対してニセ科学批判者たちの誰ひとりからも、何の反論も説明も訂正もない。
詳細は、さかのぼってこのサイトを克明に読んでいただくとして、要点だけを列挙しておこう。

◆天羽優子氏は「水の構造は時空を超えて不変である」と言っている。しかし、そんなことを言う者は世界中に天羽優子氏しかいない。誰もそんなことは知らないからだ。天羽優子氏は、人類が知らないことを、知っていると錯覚して断定している。そんな科学者があるものではない。

◆天羽優子氏は、「磁場で水が変わることはない」と断定している。しかし、そんなことを言う科学者もいない。誰もそんなことは知らないからだ。知らないことを知っているかのように断定するのは科学者ではない。むしろ実際は、磁場で水が変わっている間接的証拠はたくさんある。

◆天羽優子氏はまた、「水の機能は組成でのみ決まる。組成が同じなら機能は同じだ」と断定している。しかし、そんなことを言う者も世界中に天羽優子氏しかいない。科学者は、「組成が変わると水(水溶液)の性質は変わる」とは言っているが、「組成が変わらなければ性質は変わらない」とは言っていない。それは論理の飛躍である。

◆天羽優子氏はまた、「健康によい水は存在しない」と断定している。ところが一方では、「何をもって体にいいというのだろうか、ぜひ知りたいところだ」と言っているのだから、自家撞着もいいところなのだが、実際には、「おいしい」とか「安全」とかいうこと以外に、「健康によい水」というものはあり得る。
おそらく水の構造に起因すると思われる差によって、吸収しやすさとか、血管内の通りやすさとか、体液中での固形物(結石など)の析出率などが違うのである。

「水商売ウォッチング」は、以上のような、「水は変わらない」という科学的に間違った思いこみに立脚しており、したがって、そこで展開される天羽優子氏の主張は、断片的には正しくても、トータルとして、はっきりと科学的に間違っているのである。

彼女はまた、自分の考えに反対する者を「詐欺師」「うそつき」と決めつけている。
それは科学者の規範を完全に逸脱した、科学者にあるまじき行動である。

さらに彼女は、自分への反対意見やクレームを述べるメールは、「徹底的に公開してさらし者にする」と掲示板で恫喝している。
言論人としてあるまじき行動である。

私は以前から、彼女に対して正面からこのように指摘し、批判しているが、彼女はこの3年間、いっさいの反論も、説明も、訂正もしていない。あちこち重箱の隅を掘り返すような情報を探してきては、つべこべと言うだけである。
彼女はまた、恫喝している割には、私の正面からの批判を、まったく「公開」しない。


そのほかのニセ科学批判者たちも、似たようなものである。


◆たとえば大阪大学の菊池誠氏は、「論座」という雑誌で、「水道管のまわりに磁石をつけても何も変わらない」と断定した。しかし、その根拠は何も語らない。

◆彼はまた、水に対する磁気の影響はナノセックのオーダーで消滅する、と言った。その根拠は、水の分子運動のスピードがナノセックのオーダーだからだそうだ。しかしそれは論理的に間違いである。分子運動のスピードと、磁気の影響の減衰とは、まったく関係がないからだ。

◆彼はまた、江本氏の水の結晶は「気相成長」だ、と言ったが、それを言うために彼が何をしたかというと、実験も研究もしていない。北大に電話しただけである。北大の低温研の人が、「あれは気相成長のようだ」と答えました、それだけのことである。
私は、あれは必ずしも気相成長ではなく、液相の部分も相当あると考えているが、それにしても菊池氏の安易さには呆れる。

◆そこに学習院大学の田崎氏が輪をかけて、あの気相成長の水蒸気は、もともと実験室にあったものだ、凍っていた水の水分子はただのひとつも含まれていないのだ、と断定した。いったいどこからそんな話になるのか、呆れるばかりである。田崎氏にその根拠をただしても、彼は何も語らない。

◆京都女子大学の小波氏は、ある活水器がアースとるように注意書きしている点をとらえて「水道管は鉄管で、全体がつながっているのだから、アースをとれなどと言うのは馬鹿だ」と言った。
しかし、最近の水道管は塩化ビニールだから、アースをとることに意味はある。
私は小波氏にそのことを指摘したが、これほど明白な間違いであるのに、彼は訂正しないし、イチャモンをつけたその活水器メーカーに謝罪もしない。

◆また、小波氏と天羽優子氏は、ある活水器の説明について、「陽子が飛び出すと書いているが、そんなことがあるわけない、馬鹿ものが!」とどやしつけている。しかしそのメーカーの説明は、誰がどう見ても、正の電荷が外部に逃げると言っているだけだ。
完全に、小波氏と天羽氏の勘違いなのである。
しかし彼らにそのことを指摘しても、彼らは訂正もしないし謝罪もしない。

◆あるいは「温泉かわせみ」という匿名投稿者は、磁気活水器をからかって、鉄管のまわりに磁石をつけて何が変わるというんだ、と言っている。
しかし前述のように、水道管は鉄管ではないし、元付け型の磁気活水器は、内管は塩化ビニールであったりステンレスであったりする。
我が社のマグローブは内管はステンレスである。ステンレスは強磁性体ではないから、磁力線はほぼ素通りで、内管に強い磁場が出来る。だから水が変わるのである。
磁気活水器メーカーは誰でもそのくらいのことは知っている。
温泉かわせみ氏は自らを恥じるべきだ。本名を名乗って世間に不明を詫びるべきだろう。


ニセ科学批判者たちの批判は、このように、科学的にもデタラメである。

なぜそんなにデタラメなのか。それは必然とも言える。

彼らは、自分たちは科学者で、世間の人より科学的知識があると慢心している。
その高みから世間に「教訓」を垂れているつもりだ。
しかしその内実は、「インターネット道楽」でしかない。
だから真剣さがまったくない。言うことがすべて、きわめて杜撰でスキだらけである。

さらに、彼らは一応は科学者ではあるのかも知れないが、批判できそうなことには何にでも、道楽気分で飛びつく。
だから彼らは、彼らが批判している対象について、ほとんどの場合シロウトであり、実践経験がゼロである。
だから、根本的なところで間違う。

天羽氏は、自分は水の専門家だと言うが、その発言を見る限り、単に教条的な思いこみがあるだけで、水に対する理解はほとんどない。
その理解は、水の味の違いや肌触りの違い、使い勝手の違いを素直に感じ取れる、一般の人々や農民や料理人やクリーニング屋やボイラーマン以下である。
彼女はそのことを知らない。想像もできない。


「ニセ科学批判」とは、このようなものである。
トップページに戻る