◇追い詰められた母の叫び--救えなかった関係機関
相模原市上鶴間の自宅で長男健一さん(29)と次男隆幸さん(24)を殺害したとして母親の吉本やす子容疑者(57)が17日、殺人容疑で逮捕された。関係者の証言を基に彼女の足取りをたどると、独りですべてを背負いこまざるをえなかった母親の姿が浮かび上がった。事件はこの国の福祉のあり方を問うている。【山衛守剛、高橋和夫、堀智行】
07年12月上旬 10年以上ひきこもりだった長男が冗舌になった。「おれは悪魔に魂を売った。25日に暴れてやる」。意味不明な言葉を口走るようになった。
13日(木曜) 正午前、吉本容疑者は相模原市保健所の保健予防課に電話を入れた。「初めて相談する吉本です。長男のことで相談に行きたい」
午後一番の面接に訪れた吉本容疑者は「長男がほとんど口をきかなかったのに冗舌になった。『12月25日に何かを起こす』と話している。昨日クリニックに相談したら医師から『入院が必要』と言われた」と相談した。市の担当者は「入院を含めた受診が必要」と二つの病院を紹介した。吉本容疑者は落ち着いた様子だったが、長男以外の家族について尋ねられると突然口ごもった。
吉本容疑者は自宅1階で長男と重い知的障害がある次男と暮らし、2階には難病で車椅子生活を送る夫(58)、夫の母(80)と妹(52)が生活していたが、交流は薄かった。3年前に都内の保育所を退職後、貯金を切り崩しながら生活を切り盛りしていたという。
17日(月曜) 午前9時、吉本容疑者は知的障害がある次男の相談のため、相模原市南保健福祉センターを訪れた。
総合相談課で「長男が入院治療が必要と言われたので入院させたい。その間次男を施設に入所させたい」と申し出ると、担当者は「入所希望を出して空きが出れば入所できる。それまでは短期の入所施設を利用してはどうか。こちらからも施設に連絡する」と応対。吉本容疑者は「入所までは今まで利用していた地域作業所や障害者一時ケア事業を利用したい。29日に見学に行きたい」と答えて帰宅した。
18日(火曜) 吉本容疑者は保健所から紹介を受けた病院を訪ねた。「年明けに受診と入院について考えましょう。親族を集めて病院まで本人を連れて来てください」。そう説明する医師に吉本容疑者は「もっと早く入院させてもらえませんか」と頼んだ。
19日(水曜) 午前、吉本容疑者は保健所へ電話をかけ「長男をもっと早く入院させたい」と訴えた。保健所は「別の病院なら空きがあるかも。行ってみてください」と新たに病院を紹介。午後、吉本容疑者はこの病院へ行って相談した。
21日(金曜) 吉本容疑者は体の不調を感じ、夕方保健所に電話。「私も不眠続きで具合が悪くなった。精神科の受診を考えたい。27日に受診する予定で息子に付き添いを頼んだ」。担当者は「この状況で不眠が続くのはよくない。長男を入院させるには母親の体調を整えなければ」と受診を勧めた。保健所から病院へ連絡すると話し、吉本容疑者も了解した。
吉本容疑者は自宅近くの相模原南署東林間交番も訪ね「ひきこもりがちだった長男が最近暴れておかしい。『12月25日にも暴れる』といっている。どうしたらいいでしょうか」と相談。交番勤務員は「もし暴れたら110番してください。措置入院という方法もあります。市にも聞いてみてください」と応対した。吉本容疑者は「市にはもう相談しています」と答え、15分ほどで帰った。
25日(火曜) 保健所の担当者が午前、長男の入院について吉本容疑者に電話。吉本容疑者は「長男の様子を病院に相談したが、まとまりなく話してしまったので、保健所から病院に電話して長男の様子を伝えてほしい。交番にも相談しました」と話し、長男の状態について「たまに落ち着くこともあるので入院させた方がいいのでしょうか」とも言った。
その後、病院が保健所に「吉本容疑者の相談を受けた」と連絡。保健所の担当者は再び吉本容疑者に電話し「長男を入院させますか」とたずねた。吉本容疑者は前回と違い「分かりました。入院意思があることをすぐ病院に電話します」と答えた。
26日(水曜) 午後、吉本容疑者が保健所へ「きょう私が病院で受診しました」と電話。長男の入院について「必要なことは分かっているが、私だけでは判断しかねます。年末年始に家族と相談して考えたい」。
27日(木曜) 午前、再び吉本容疑者が保健所に電話。「入院の方向で相談したい。また保健所に相談します」
29日(土曜) 吉本容疑者は次男の入所のため、市内の障害者施設を見学する。
08年1月7日(月曜) 再び同じ施設を見学。
8日(火曜) 保健所の担当者が吉本容疑者へ電話。吉本容疑者は「十分家庭内で相談できていない。また改めて相談します。私もまた10日に受診する予定です」。担当者は「独りで抱え込まずに家族や親族に相談してください。いつでも連絡ください」と言って電話を切った。
先週ごろ 次男が毎日通っている地域作業所にいつも迎えにくる吉本容疑者ではなく、夫と夫の母が迎えに来る。
15日(火曜) 朝、作業所に吉本容疑者が独りで来て「(次男の)下痢がひどいので休みます」と伝えた。
16日(水曜) 朝、吉本容疑者が地域作業所に電話。「治らないので引き続き休みます」
吉本容疑者の供述によると、午後1時半ごろ、長男の首を包丁で刺して失血死させた。さらに11時半ごろ、寝室のベッドで寝ていた次男の首をネクタイで絞め窒息死させた。
17日(木曜) 朝、吉本容疑者が地域作業所に「休みます」と電話。職員が「体調はどうですか」と尋ねたが、何も言わず電話を切った。
昼ごろ、自宅玄関前で病院に出かけようとした夫の母が吉本容疑者に「孫は元気かね」と問いかけた。吉本容疑者は無言だった。
午後1時10分、吉本容疑者が東林間交番に「息子2人を殺しました」と自首。交番勤務員が「うそでは」と思うほど落ち着いていた。
自宅から2遺体が見つかり、殺人容疑で緊急逮捕された吉本容疑者は「長男が意味不明なことを話し出し、人様に危害を加えると思った。次男は自分が逮捕されれば独りになり、不憫(ふびん)に思い殺害した」と供述しているという。逮捕後は睡眠も食事もとり、取り乱すような様子もない。捜査幹部が言った。
「心の中までは分からないが、安心したような様子にもみえる」
毎日新聞 2008年1月19日