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'08.01.17 (木)

動機一点をもって

 

「私はその会の完全な支持者ではないけれども」(1月11日)
その通りである。何故なら、再び今、新ミサの教会とフルコンタクト(がっぷり四つ)を持とうとしているから。

神を畏れ、罪を恐れる。それで、一方において受洗以前から、立つことに不敬を、手による拝領に涜聖を感じており、他方において、特に受洗以降 SSPXの一つの言い回し について考えるようになり、私の霊魂は今もこれらを決して簡単に片付けようとはしないので、新ミサに参加することを恐れる。
けれども、再びそれとフルコンタクトを持とうと思う。このことを天主様に許して頂こうと思う。
一点、動機のために。動機において。

心境において 「ミサの通常の "受益者意識" にはなるまい、なってはならない」 と思う。「必ずそこに "逆らい" を置く」-----これを動機とし、この動機を決して忘れないことによって、自分を許そうと思う。天主様にも許して頂こうと思う。

具体的には、御聖体拝領の時の動作はもちろん、入堂時の動作、着席時の動作、御聖櫃の前を横切る動作、すべてにおいて古いやり方を貫徹する。おやおや貫徹とは大袈裟な。しかし集団の中に置かれた人間というものは実に弱いもので、こんなこと一つにおいても自身の内面に相当の摩擦を生じるのだ。抵抗を生じる。でも、これをやり続けようと思う。さらりと貫徹しようと思う。永遠に。-----最低条件。

司教様から御聖体拝領時の跪きをお許し頂いてから (それは本来 「許される」 べきものなどではないけれども。信者の通常の権利だけれども)、実は数えるほどしか跪いていない。何故なら、受洗以来、新ミサで数えるほどしか御聖体拝領していないから。
これは、もったいない。(?)

仕事は、いっぱいあると思う。

ファチマの聖母の記念日に、説教においてファチマのフの字も決して言わない司祭達。
「神父様。今日はファチマの聖母の記念日なので、できればファチマの聖母のことを説教でお話して頂きたいのですが」 というようなことの一つや二つは、私達信者は言える筈である。

私が図書部をやめたのは(こんなところで言わんでも...)、年一度の図書展示会の時に、部員の彼らが 「今年は聖母に関する本は展示しない」 ことを決議したからだ。理由は 「昨年も一昨年も展示したから」 だそうである。しかし、私は信ずる、それは聖母のことを軽んじることである。そしてそれは教会の現状に対する、私達の教会の盲目に対する、また私達の救霊及び現代という時における聖母の御存在の大きさに対する、途方もない気づきのなさを意味する。もし図書部の活動が何らかの教会内布教の要素を持つものならば (部長はそれを肯定したが)、私達はたとえば、司祭が説教壇の上からファチマについて語るまで、全ての信者の日々の生活にロザリオが浸透するまで、そしてもちろん永遠に、聖母のことを言い続けることを決してやめるべきではないのだ。「緩める」べきでさえない。
図書部よ(こんなところで言わんでも...)。私は、あなた方が聖母に関する本を展示せず、聖母に関する本に添えて「ロザリオを毎日祈りなさい」というファチマの聖母のお言葉をプラカードをもって教会内に繰り返す必要について少しも敏感でも積極的でもなかったので、ひどく落胆した。(極端にローカルな話でした... <(__)> )

やれることはいっぱいあるだろう。
老人達。あなた方はロザリオを毎日祈る習慣のないままこの世を離れようとするのだろうか?
それ故、やれることはいっぱいある筈だ。特に今言ったようなことは、直接的には教会の中に身を置いてしかできないことだ。

あるいは、司祭に打診する。
「神父様、昨年の7月に教皇様は、古い典礼についての一つの見方を私達にお示しになりました。しかし、これについて知らない多くの人達がいます。古い典礼を望む人がどれだけいるかはわかりませんがそれはともかく、これに関して周知させる印刷物を教会に置かせてもらっていいでしょうか。」

妄想で終わりませんように。

私達にひるんでよい理由はない。
私達は少なくとも 「殉教」 とは程遠い。
私達は何故血の恩義を血で返そうとしないのか?
私達の現在の教会は、言葉上はどうであれ、
実質上、態度的に、アリウス主義* と変わらないだろうに。

* まあ、はっきり言ってよくは知らん。よくは知らんが、アリウス主義が主イエズスの神性を離すか引き下げるかするものだとしたら、今の教会は主イエズスから王としての性質を離し、御聖体を何らかの "聖化された物質" のランクにまで引き下げていると言えるのではないだろうか。
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