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平和をたずねて:二つの笑顔の間で/2 弱者いたわる正義漢が…

 「何で日本兵は笑いながら中国人の首を斬(き)れたのか。それが聞きたくてやってきました」

 初対面なのにいきなりそう切り出した私に、鹿田正夫さん(89)は島根県浜田市の自宅で静かにこう語り始めた。

 「話せることなら何でも話します。自分がしたことを知ってもらって、再び同じことが起こらないようにする。それが今の私の願いですから」

 出雲の醤油(しょうゆ)屋の次男として生まれた鹿田さんは、地元の中学を出た後、東京の高等商業学校で中国語を学び、上海の国策会社に入社した。陸軍に徴集されたのは昭和16(1941)年12月1日で、適当に兵役をやりすごして会社に戻ろうと考えていたという。ところが7日後に日本は米英と開戦し、当分軍隊から足が洗えない状況になった。

 入営した浜田の連隊の同じ班には、軽い知的障害があるのか動作の鈍い補充兵がいて、頻繁に殴られるなどいじめの標的になっていた。それがかわいそうで、寝具の後始末を手伝ったりしていると、そのことに気付いた兵長に呼ばれた。「貴様、初年兵のくせに生意気なことしとる。歯を食いしばれ」。そう言うと、いきなりスリッパで往復ビンタを食らった。そして頬(ほお)の内側が切れて血の筋が垂れた口をこじ開けられ、熱い味噌(みそ)汁を一気に流し込まれた。

 「くそーと思ってね、殴ってやろうと構えたんよ。そしたら『貴様、上官に暴行する気か。上官暴行は重営倉(じゅうえいそう)行きで前科もんだぞ、それでもええんか』とにらみつけやがったんだ。当時、親父(おやじ)は村長しとってね。駅まで送ってくれた親父の顔がバーッと浮かんでね。もし私が重営倉にでも入ったら、親父のメンツは丸つぶれだ。そう思ってこらえたんだ。それからは頑張ったよ。ようし、自分が将校になって見返してやろう、とね」

 翌年2月、鹿田さんは幹部候補生要員となって中国に渡った。数日後、初年兵は裏山に集められた。行くと農民風の若い中国の男が柱に後ろ手に縛られていた。集まった15人ほどの初年兵たちに「今日は肝試しをする」と班長が告げた。

 「それまで銃剣術の訓練では、わら人形なんかを突きよったんよ。その仕上げに……実際の人間を突くっていうんだ」

 滑らかだった鹿田さんの口がそこで止まった。

 「それで突いたんですね」と私は促した。

 「突きたい者は出てこい、言うんよ。僕ら幹部候補生要員や下士官候補生要員は、点数稼ぎたいから志願するわけだ。でも、そうじゃない兵隊もおってね。その時は真宗の坊さんがおった。なんまんだぶ、なんまんだぶと年中言ってるような人で、突きたくないから一番後ろに隠れとった。それを班長が見逃すはずないんよ。『気をつけ。前に進め。回れ右』ってね。結局、最後尾で震えていたその坊さんが、真っ先にやらされたよ」

 反抗も逃避も許さない。それが軍隊のやり方だと鹿田さんは言った。

 銃剣で刺突(しとつ)する時は、刺す瞬間にグッと脇を締める。すると剣先が横になり、肋骨(ろっこつ)の間を通って胸を貫ける。しかし初年兵は無意識のうちに手が伸びきってしまう。だから何度やっても剣先が肋骨に当たってうまく刺さらない。「貴様ら、何やっとるんだ。見とれ」。上官がやってみせると、剣先がスパッと背中から飛び出した。

 「しょうがないから、言われたようにやった。被害者の胸はザクロのように裂けてね。狂ったようになって死んだよ。そんなことを2、3回やると、ケロっとしてくるんだ。中国人は『チャンコロ』と言ってバカにしとったからね。日本民族は優秀で、東亜に君臨すべきだと思っとったんよ。だからすぐに人殺しなんて何でもなくなった」

 親思いで、弱者をいたわる正義漢。その胸に、人を殺しても何の痛痒(つうよう)も感じない「鬼」が巣くうまでに要した月日は、わずか3カ月だった。【福岡賢正】

毎日新聞 2008年1月16日 西部朝刊

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