◇西区は大阪の中心地だった
年が明け、気分も新たに、まずは大阪案内人、西俣稔さんから新年のごあいさつ。「明けましておめでとうございます。連載も70回を超えました。読者の皆さんのおかげです。今年も先人の足跡をたどっていきます。新年は、誇るべき大阪の偉人が活躍した大阪市西区から案内します」
前回の読者ツアーの巻で、ちょっと訂正が。「桑原荘は泉佐野ではなく和泉市でした。また、池上雪枝の感化院の創設は明治14年でした」
◇
さて、地下鉄四つ橋線肥後橋駅から四つ橋筋を下り、日本興亜肥後橋ビルの角を右へ折れてしばらく行くと、肥後橋商店街が現れた。「全長79メートル、19店。日本で一番短い商店街です」
日本一長い天神橋筋商店街(大阪市北区)は2・6キロ、約600店あるから、肥後橋商店街の店の数は3%。うかうかしていたら、あっという間に通り抜けてしまう。ここは「日本一短い」を強調していて、「なんでもウリにするのはいいですね」と西俣さん。
この辺りは、マンションと雑居ビルの間を、一方通行の道路が東西南北に走っている。歩いて面白い街ではない。この先、何が出てくるのか?
◇
商店街の南西にあるキッコーマン専用駐車場の前で西俣さんが立ち止まる。向かいはそば屋さん。はて、こんな所に何が? けげんな顔の私に1800年ごろの地図を手渡す。見れば、今の阪神高速道路の高架下を流れていた西横堀川から西に、京町堀川、阿波座堀川、堀江川など、堀川がいくつも流れている。
大坂の陣で荒れた市街整備がなされ、西船場が開発された。大坂三大市場のざこば(魚市場)もこの地にでき、堀川は水運の動脈となった。今でいう都市計画だ。
「いま立ってる所は、江戸堀川の上です」。江戸堀川は1617(元和3)年に開削された。「江戸時代のしょっぱなにできたから江戸堀。江戸の人が掘ったわけやない」。諸藩の蔵屋敷や船宿、問屋が軒を連ね、活況を呈していた。1955年に埋め立てられて姿を消したが、地名にその名をとどめている。
「大事なんは銀札です。開削資金を集めるために発行したんですな」。銀札とは、有力商人が発行した私札のこと。現存する日本最古の銀札の表には「摂津大坂江戸堀銀札 万民用之 永代重宝也」、裏面には「ききやうや伍郎右衛門 きのくにや藤右衛門」の署名がある。この2人の連帯責任で、人足費用の支払いのために発行した。
◇
西へ歩く。荘厳なれんが造りの建物は、1922(大正11)年に建てられた日本キリスト教団大阪教会だ。三角屋根にいくつものアーチ、円形の飾り窓を持つロマネスク様式の教会は、有名な建築家ヴォーリズの代表作の一つで、国の登録有形文化財に指定されている。大阪教会は1874(明治7)年に西区で創立され、プロテスタント教会の中では日本で最も長い歴史を持つ一つだ。
「西区のポイントはね」と西俣さんの解説が始まった。「明治22年、東、南、北区とともに大阪で最初にできた区なのに、忘れ去られた感があるんです」。大阪の産業を担った水の都であり、明治、大正時代には江之子島に府庁や市役所、川口には国際港もあった。ところが今は……。
「西区で三つ挙げなさいと言われたら?」。西俣さんがニヤリと笑う。「堀江のカフェくらいしか出てきまへんやろ。いっぱいあるんです、歴史が。忘れ去られた原因の一つは、空襲で壊滅したから。この教会は、よう残ったなあ」と、れんが造りの建物を見上げる。
大阪大空襲で、人口密集地だった西区は焼き尽くされた。大阪市史によると、戦禍による人口減少が最も激しかったのは、海運の拠点だった港区、次いで浪速区。西区はその次だ。空襲前の44年2月には12万8432人だった人口が、空襲後の45年11月には、わずか1万3329人。人口減少率は、実に89・6%にのぼる。マンションやビルばっかりなのは、空襲で焼け野原になったからだ。
「西区こそ、大阪の中心やったというのがテーマです」。というわけで、木津川の東側を歩いていきます。【松井宏員】
毎日新聞 2008年1月11日