2008年01月08日

ほっと一息ついてもいい?

寒いのは好きではないが、それでも今日の日中の気温はどうだ。昨年ほどではないが、やはり暖かい。
昨年末は北海道のテレビに出演したのだが、そのスタジオで江原啓之といっしょになった。ジャガー横田夫妻、鈴木宗男、大谷某などもいっしょだった。そうそう国生さゆりとか。
すごく意識していたのだが、江原氏もそうだったと思う。いろいろ聞くとその義理堅さはなかなかのものみたいだし、言ってることも意外(?)とよく勉強しているし。
個人的には悪い感じではなかった。まあ、あまりに激しい批判的意識に燃えていたので、その反動もあるってことで。
もちろん、個人的印象と社会的影響とは別物だということはよくわかっている。

一昨日までに春秋社の原稿を一気に40枚を書き上げて、すっごくいい気分だ。ひさびさの快晴という心持である。書きたいことがあるということはいいことだ。
もちろん、編集者の後押し、それからクライエントのひとたちの顔といったものも大きい。誰ということは特定できないようにしてはいるが、私はいつも文章を書くとき、具体的なひとたちの顔を思い浮かべている。そのひと(多くはクライエントだけど)を代弁しているような、ちょっとしたアドボケイトのエネルギーがキーボードを叩かせる。

今日は霞ヶ関の法務省で薬物依存の治療プログラム「マトリックスモデル」の講演会が開かれたので参加。
ジーン・オバート先生が講師である。なんというか、あらゆる有効な要素(家族教育、初期介入、12ステッププログラム、リラプスプリベンション・・今流行りの再発防止ってやつね、尿検査)をすべて詰め込んだマトリックスというわけである。
これを法務省が積極的に進めようというのだろうか。たぶん招聘したのだから、その方向に舵を切ることは間違いない。
隔世の感がある。講義の内容も、自発的にプログラム参加したひとと、逮捕・裁判の結果強制的に参加したひとと比べると、断薬率は後者のほうが高いというエビデンスを示していた。
これは法務省関係者にとっては大きなことだろう。がんばってもらわねば。
組み合わせの妙は京都での2日連続のWSで勉強することになるので、あまりに法務省の講堂が寒くて途中で退散した。
残るは、朝日新聞社の「共依存」の原稿を今月中に20~30枚完成させるだけ。
そして新年会でおいしいものを食べるだけ!!
(ウイメンズプラザのHPに、昨年11月の私の講演内容のダイジェストがアップされているのでよかったら覗いて見てください)
http://www.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/contents/seminar_080108.html


2008年01月03日

あけましておめでとうございます、本年もよろしくご愛読のほどを・・

しばらく前からこの2ヶ月くらいのあいだに読んだ本、評論などについて述べてみたいと思っていた。
『犬身』(松浦理英子、朝日新聞社)
多様な読み方ができる作品だ。『親指Pの冒険』で話題になった著者だが、本書は人間が犬になるという設定の物語だ。
まだお読みになっていない方にはネタバレになってしまうがご容赦願いたい。ちょっとばかり「やられた!」と思ったのは、性器中心主義的恋愛どころか、性交渉中心恋愛を脱しようとしている点だった。近親姦が登場するのは、私的には興ざめだったが、性交渉中心主義、異性愛中心主義の結晶・象徴が近親姦だとすれば、それはそれで練られた構成なのかもしれない。ただそこまで性愛にまつわる脱常識を計る著者が、近親姦を否定すべき行為として登場させるのは、それが決して妹(女性)にとっては快楽などではなくむしろ拷問に近い行為なのだという作者のポジショナリティの表明なのかもしれない。
ひととひとのつながりの可能性を性から脱することに賭ける姿勢、それは裏返せば、性の汎化にもなるだろう。性とは、きもちのいい関係のどこにも存在すること。親子・友人の関係にも性は宿ること。
性器や性交渉といった限局された関係ではなく、エロスといったフロイト理論に帰着する感覚ともひと味異なる感覚。松浦理英子はそんなつながりを求めて、そこに言葉を与えられる以前の感覚や関係性を描いたのではないか、と思った。そのためには主人公は「犬」と人間の魂を半分ずつ持っているという設定が必要だったのだ。

「環状島ートラウマの地政学」(宮地尚子、みすず書房)
文字で記述することの限界を、図示していくことで乗り越えようとする斬新な書だ。著者がヒントを得た論考については本書を読んでいただきたい。
著者は私の知人でもあるが、かねがねその文体には魅せられてきた。透明でありながら、時には叙情的な筆致。細部にまでもれなく目を配りながら、しかもその凛とした姿勢の強さは崩れない。内容的には、私の臨床実践と大きくかぶるので正直目新しいと思えるところは多くはなかった。しかし「加害者はどこにいるか」の章は秀逸だと思った。
・・・彼らは頭の真上にいる。周囲からは、そして被害者からもその姿は見えない。・・・と書かれた部分は何度も読み直した。
DVや性暴力といった「性」を媒介とした暴力の被害・加害関係は、あの環状島の図を参照することではじめて説明可能になる気がする。それほどに理解されず、常識によって塗り固められた硬い殻を打ち破るのは困難なのだ。昨年末の北海道文化放送に出演した際の、性犯罪に関する反応を見てもつくづくそう思う。性犯罪者=極悪人という安易なシェマに当てはめることの危険性を理解してもらうことはほんとにむつかしい。

「殺された側の論理」と「犯罪不安社会」のゆくえ~雑誌「論座」2008年1月号、藤井誠二×芹沢一也
北大で行われた対談を収録したものだが、読みでのある内容だった。3月には出版される予定の私の新刊本の内容とも大きく重なるので興味を持って読んだ。
驚いたのは、藤井誠二が「死刑容認」を公然と主張していたことだ。彼なりの歴史・経緯があることは認めるが、加害者側のルポを書いてきた立場から、被害者の苦しみや打ち捨てられている現状を何も知らなかったことに気づき、一転して「被害者感情への注目」を中心に据えるようになった、ということらしい。
その経過もよくわかる。しかし彼が繰り返しているように、膨大な被害者たちへのインタビューをみれば「報復」こそもっとも望んでいることだ、報復とは死刑だ、と言い切れるのだろうか。被害者の仇討ちの代行ではなく、現行の刑罰は「社会の秩序を撹乱した」ことに対して裁判によって判断が下される。そこには直接の被害者感情の代弁は含まれていない(建前上は)。
それが2002年以降、さまざまな犯罪被害者救済、残された家族救済の声高な主張によって、裁判員制度の導入や少年法改正などが行われるようになっている。
芹沢一也は「ホラーハウス化する社会」の著者だが、セキュリティの強化、リスク低減社会化への警鐘を鳴らし続けている社会学者だ。彼は藤井と、被害者感情、被害者救済と厳罰化、社会のセキュリティ強化とは一線を画すべきだと主張する。
性犯罪プログラムについても両者はよく勉強していて、認知行動療法についても当然織り込み済みの論議を展開している。
私は次のような疑問をもった。
果たして被害者(その家族)が望むのは報復なのだろうか、という点だ。そこに欠けているのは、被害後のケア(トラウマケアや悲嘆と喪失の心理療法など)ではないのだろうか。それを保障する専門家の知識・技術を総動員した体制づくりによって、被害者のエネルギーは報復(それは加害者を厳罰に処してほしいという欲望であり、死刑という極刑に処すべきという要求)だけに向かうことは避けれれるのではないだろうか。
もし仮に報復をするとすれば、加害者を真の苦しみに直面化させることであり、決して死刑で終わりにすることではないだろう。ほんとうの苦しみとは、自らの犯した罪の重さを知ることである。
現行の懲役制度でそれが可能とは思わない。淡々と過ぎる受刑生活、ものを考えないように仕組まれた日常。そんな「塀の中の生活」で、罪の重さに打ち震えるなどと想像することなどできない。
処遇プログラムの優れた点は、彼らに被害者の苦しみと直面せざるを得ないように作成されているところだ。宅間守があっという間に死刑になったが、彼が自分の殺害した子どものこと、残された親の苦しみにいささかでも思いを馳せただろうか。おそらく彼は、自分こそ社会に報復した(虐待した親への報復かもしれない)と思いつつ絞首刑になったと思う。
もうひとつは、先述した被害者およびその家族(遺族)への迅速なケアの充実の必要性だ。その点については、両者とも述べていなかった。トラウマ治療の進捗は射程距離をそこまで伸ばしている。
受傷直後のほうが治りがいいように、鉄は熱いうちに打つようがいいように、被害者の衝撃は直後から専門家がケア・治療にかかわるほうがいい。そうすれば、やられたからやりかえすといったプリミティブな報復感情に結集していくことは減るだろう。それは最後の回路に過ぎない。

「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一・講談社現代新書)
話題の書とは距離をとっている私だが、ついつい新幹線の往復のために手にとってしまったのが運のつき。ほんとに、面白い本だ。
オビの文章に偽りはない。何しろ、文章がこのうえなくうまい。構成はまるで推理小説のようだ。難しい知識が私にもわかるように書いてある。
サントリー学芸賞受賞もむべなるかな・・・だ。それにしてもこんな本が、ちゃんと売れるという事実に希望を感じる。活字人口がまだまだいるということ、ケータイ小説ばかりでなく、ちゃんと本物の知識を渇望しているひとが多いということに。


原宿カウンセリングセンター